第13話 縛られるべきは誰?2
「わかりません。経済面から見て、ちっぽけな島国に異常なまでの富が集まっていたから豊かな時代があっただけで、ただ実力通りに貧しくなればこんなものだという議論も成り立つとは思います。
しかし、確実に一つ言えることは、多くの人が日本は経済的にも精神的にも貧しくなっているという事実に真正面から向き合うことはありませんでした」
「どうしたんですか?」
「否認です。目を瞑りました」
「はぁ?」
「相次ぐ一流企業のデータ改ざん、不祥事、末期には破綻の兆候がありましたが、多くの人の認識は『日本の製品品質は世界一』、『世界が憧れる日本ブランド』などといった能天気なもので、その反面周辺諸国の製品を貶めるメディアを楽しんでいました」
「本当ですか?」
「はい。一時期はテレビをつければ、外国人に日本を褒めてもらう番組ばかりでした」
寛は呆れてしまった。いくら反知性主義だからといって、自分の幸福くらい守れるよう動くべきではないのか。そこまで主義に殉じなくても、と思った。
「そうはいっても、これらの出来事は末期です。それ以前から圧倒的に欠けていたものがありました。
それはやはり話し合いです。それも大衆の中での話し合いです。
階級社会である日本では公共とはみんなで話し合って作るものだという意識が決定的に欠けているように見受けられました。
もしも改憲以前から公共についての話し合いが大衆の中で持たれていて、それが社会を体現するような力を得ていたならこのような社会には現在なっていないでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。『偉い』誰かが作ってくれた社会に居させてもらっているのだ。支配層でもない自分たちが話し合って、みんなの幸福の共通基盤である社会理念や社会正義を決めるなどおこがましいという意識だったのでしょうか。
話し合いを妨げるのは、このようなお上意識だけではありません。
それは本来議論を重ねるべき大衆の中での分断です。
一つ面白い事例があるのでお話しましょう。
『オッサン化』という言葉をご存知ですか?」
オッサン化?寛は初めてその言葉を聞いた。
「普通に年を重ねた、というわけではないですよね?」
「はい。実は私も正しい定義は知らないのですが、昔観たとあるネット討論番組で、運動家の若者が話していたのです。
しかし、討論相手である国会議員と中堅芸人は『まぁ、俺らも昔はペーペーで頑張ってここまで来たんだし、お前も頑張ってここまで登ってこいよ。そうしたら話を聞いてやるよ』といった趣旨のことを言っていました。全く話が噛み合っていないなと思ったものです。
若者はゼロベースで、一個の人間同士として対等に話したいという姿勢でしたが、彼ら階級社会に取り込まれてそれなりに登ってきたと自認している人々はそれを拒むのです。
不思議なことです。階級社会に属してそれに疑問を抱かない人というのは、自分がした苦労を他人がしないということは絶対に許せないことなのです。
おそらく彼らの中で、若者はどんな社会的装飾品をまとっているのか瞬時に分析しての反応だったのでしょう。その上で、自分より下だと無意識下で判定したのです。
つまりオッサンとは年齢ではなく、このように階級社会の中でしかもはや生きられず、人を自分より上か下かでしか判断できず、しかもその判断基準が金持ちとか社会的身分が高いとか俗っぽく、なおかつこの見方を唯一のものとして他人にも強要してくる人々ということなのだと、私はこの番組をみて理解しました」
「なるほど」
「ちなみに国会議員は僧侶で世襲議員というわけのわからない肩書を持っていました」
寛は吹き出してしまった。
「めちゃくちゃ世俗にまみれてますね。僧侶って煩悩から解放されて、本質を見れる
みたいなイメージがありますが」
「私も若い頃はそう思っていましたが、実際にそんな僧侶に会えたことはありませんね。今の所、空想上の生物です。
悟りを開くのは多くの凡人には不可能でしょうが、僧侶を名乗るならせめてオッサンは脱して欲しかったですね。今も僧侶を名乗っているのか、国会議員なのかも知りませんが。
彼は与党の国会議員でしたので、支配層であると自認していたとしてもおかしくないでしょう。だから、そのような傲慢な見方をするのだということもできます。
しかし、大衆の中にあっても、オッサン化は珍しくありません。実のところ、これは反知性主義の一形態です。
自分の属する世界の基準が普遍的なものであり、その社会に属していない他者にも無理矢理適用して値踏みして構わない。そう無意識に考えている人々は社会中にいます。
なぜなら、それこそ階級社会に慣れすぎているからです。自分は目の前の他者よりも上なのか下なのか気になって仕方がないのです。
これはプチオッサン化現象とでも呼べましょう。こういった人々はいずれ社会的地位を得たら、値踏みどころか強要することでオッサンと化すでしょう」
今はそういった人だらけだな、と寛は思った。クラスメイトと言えど、実のところ細かいマウンティングが毎日行われている気がした。唯一、真実違ったと言えたのはツキミとツキミの母だけだ。
「大衆層の中でも格付けしあっているということです。階級は階級の中で再生産されるかのようです。無限の入れ子構造です。
反知性主義のタネはみんなが心の内に持っていると言いましたが、同じくオッサン化は誰もが陥る危険性があるといえます。また、プチオッサンに関して言えば、ほとんどの人がもはやそうなってしまっていると言って過言ではないでしょう。
私達は無意識の内に職場や学校で、常に階級社会そのものを保持、強化しているのです」
寛はそのとおりだと思うと同時に、自分自身もやはり無意識に階級社会に寄与してしまっているのだろうなと思った。恐ろしいメカニズムだ。
「階級社会の中で生きる上で、常に自覚的でいることは困難です。つまり、他者と話す上で社会的、精神的装飾品を全て外してありのままの自分とありのままの他者を見ようとすることはかなりの自覚的努力が必要です。
しかし、運動家の若者の心境を思えば、彼は暗澹たる気持ちだっただろうなと思います」
「そうでしょうね。まるで門前払いですものね」
「はい。せめて討論番組だというのなら、ゼロベースとまでは行かなくても、多様な価値観をお互いに認め、歩み寄れないか試みることが必要であったでしょう。
しかし、この多様な価値観をお互いに認めるという考えも素晴らしいのですが、意外と落とし穴があって、だったら国会議員や中堅芸人のような価値観も尊重しなければならないということになるんですね。
もちろん普段そういった価値観で生きるのは自由です。尊重します。しかし、せめて人と人が直接向かい合って話し合うというのなら、一旦は対等な目線に立って話してみるということが何よりも重要だろうと思うのです」
寛は国会議員と中堅芸人が自ら拵えた泥の塔の高いところに居て、若者が外の広場で話しましょうと下から呼びかけているのに全く一顧だにしない姿を想像した。
寛が言った。
「階級社会で生きるということは、知らず知らずの内にでも自分を高い所に持って行きたがるものなんですねえ」
「はい。自分の居所を得ようとする人間の根源的欲求から考えて、それはある意味自然なことなのかもしれません。
しかし、これでは、大衆の中で公共を育むための話し合いなど行われるわけがありませんね。横と横の連帯の阻害です。
行われたとしても、必ず立場の高い者に有利な不公平なものになってしまい、話し合うことなど馬鹿らしいとなってしまう。
また、子供の頃にいかに理想的なことを教えられても、すぐ目の前には階級社会があり、自分もその中で生きていくしか無いのです。だとしたら、それが本当はどんなに大切なものであろうとも、馬鹿らしいと投げ出してしまうということが大半でしょう。対等に接しようとしたら、いつの間にか相手に上に立たれ、つまらない思いをする。こんなことばかりが続けば、多くの人はやってられないでしょう。結果、他人より一つでも上に立とうとするようになります。
このように階級社会による悪循環が続き、結果として貧相な公共意識となってしまったと言えるでしょう。
現憲法では『国民統合の象徴である天皇を戴く国家』という文言が前文に加えられてしまいました。日本は階級社会であることを現政権が厚顔無恥にも前面に押し出したのです。
その階級社会において何を指標、規律とするかは、先でも触れたようにお金や生産性と呼ばれるものです」
『活力ある経済活動を通じて国を成長させる』とも前文に書かれていることを寛は思い出した。
一方で、寛の頭の中に自動的に浮かび上がってくる考えがあった。
人間が階級社会を形作るというのはとても自然なことなのではないか?自分の位置を知りたい、自分を高めたいと思うことはとても自然なことのように思われた。これはツキミとの会話の中でも出てきた問いだ。人間の業であり、根源的欲求だ。
国会議員と中堅芸人の階級社会観を現実とするならば、若者の公共的な考えはやはり理想的な、もっと言えば虫のいい考えなのではないか?
自動的にそういう考えが寛の頭の中に溢れてきて、口を突いて出た。
「私達が階級社会を作ってしまうのは、自然なことではないでしょうか?むしろ対等な社会というのは不自然ではありませんか?」
老人は頷いた。
「確かにそのとおりです」
「やっぱり、そうですか」
寛は敗北と勝利の混ざったような、混乱した味を瞬時に感じた。一方では理想はやはり理想なのだと落胆する気持ちがあったが、一方では、何故こんな気持が自分の中にあるのか不明だが、老人を冷笑的に見る気持ちが出現していた。
これを自覚して、寛は恐れ慄いた。『ああ、自分はやはりどこか深いところで取り込まれてしまっているのだ。今目の前の親切に接してくれている老人を、ただありのままに見ることが出来ず、現代社会の落伍者と低く見てしまっている。自らのちっぽけな優越心を満たすためだけに出た言葉だ。その証拠に「やっぱり、そうですか」で話は終わりじゃないか。こんなことで老人の一枚上にでも立ったつもりなのか。そんなくだらないものが欲しいのか。自分自身がくだらないものではないか。幻滅もいいとこだ』。
寛が煩悶していると、老人が言った。
「それは鋭い指摘だと思います。しかし、そうですね。
試みに社会の成り立ちを考えてみませんか?」
「あっ、はい、良いですね」
寛は渡りに船と会話にのった。
「私達は元々猿ですよね。猿は階級社会を形成します」
「そこまで遡りますか」
「ええ。ここでは階級は自然なことです。しかし、階級を形作る指標となるものは何でしょう?」
「腕っぷしとかですかね?」
「なるほど。そうしましょう。最も強いものがトップをとる。わかりやすいですね。最も強い、最も『凄い』個体が王になるわけです。
では、王とはなんでしょう?」
寛は問われて困った。
「何でしょう。何か、『偉い』ってことだけはわかりますけど」
「そうですね。でもそのとおりです」
「えっ?」
「王とは『偉い』ものです。でも、その根拠は何でしょう。それは血筋です。実はここに一つフィクションが生まれているのです。
最初の王の条件は強い、つまりその集団の中で一番『凄い』個体だったはずです。それが王たる根拠でした。
しかし、いつの頃からか、王とは血筋によって受け継がれるものになってしまいました。
最初の王は確かに『凄い』人だったのかもしれません。リーダーシップがあり、腕っぷしも強く、頭も良く、カリスマがあり、という『凄い』人だったとしましょう。
しかし、その子供はどうでしょう『凄い』人でしょうか?」
「そうとは限らないでしょうね」
寛はツキミと話してて、今話しているようなことを昔感じたなと頭の片隅で思った。
「そうですね。では、なぜ王になれるのでしょう。それは先代の王が、王の条件を『凄い』から『偉い』に変えたからでしょう。『偉い』の根拠は自らの血筋です。これはとても大きなフィクションですね。階級構造の固定化です。
ここに国家の原型が誕生したとしましょう。そこには権威も生まれました。
日本の場合を考えてみましょう。
天皇が実際に権威と権力を併せ持っている時間は、歴史上そう多くはなかったと思われます。小学校の頃、どう教わりましたか?」
寛は小学校の頃に教わった天皇を中心とした物語を思い出した。確かに平安時代くらいまでは天皇は世の中の中心に居たようだが、そこから幕末までは日本の自然の美しさに時間を割いたり、外国からの侵略を天皇の神通力で実は追い返したのだとか言っていた気がする。
中には熱心に授業を聞いているクラスメイトも居たが、寛はこっそりパッドに落としたマンガを読む方に熱心だった。
「正直に言って、あんまり覚えていないのですが、言われてみれば合点がいきますね。特に武家社会になると天皇はあまり世の中の中心に居た気はしません」
「そうですね。実際の権力を失った天皇は権威のみを持ち、時の権力者の正当性を得るために利用されてきたと言えるでしょう。武家社会はいわば王権代理国家です。
大政奉還後、明治政府は建前上は民主主義の形を取りましたし、憲法も作りました。もう一つ建前で権威と権力も天皇のものとしました。本当に二つとも持ち合わせていたのかと言えば、疑問です。藩閥、政党、元老、官僚、独占資本、軍、時代によって変わりますが、少しずつ権力を分かち合っていたというか引っ張り合っていたというのが実情だったと思います」
「そうなんですね」
「といっても、ここら辺はかなり異論のある所でしょう。しかし、この誰が最高権力者で誰が最高責任者なのかイマイチわからない状態。無責任システムとでもいいましょうか、これはいかにも日本らしいなと思いますね」
「責任は一応天皇にあるのではないですか?」
「天皇にも大きな責任はあるでしょう。しかし、天皇は戦後の裁判にもかけられていません。これはアメリカの都合によるところが大きいようです。多くのアメリカ国民は処刑するべきだと考えていましたが、もし処刑すれば日本の統治が難しくなってしまいますから、アメリカ政府は天皇を象徴としました。天皇から権威と権力を奪った形です」
「なるほど。それで今は権威が戻ってきたということでしょうか?」
「微妙なところですが、建前上はそのようですね。首相とそのお友達が権力を握り、再び王権代理国家となってしまいました。
ところで戦後レジームと呼ばれたおよそ七十年間権威は国民にありました。権力は国民の信託により国会議員が行使し、その福利、つまり幸福と利益は国民が享受すると旧憲法前文に書いてありました。
しかし、現在の憲法にはそれがありません。申し訳程度に主権者は国民と書いてありますが、その内実を見れば中身はスカスカであることは明らかです」
権威と権力も失い、福利も得られない国民とは何なのだろうか?それは支配層からみたらやはり体のいいコマ、奴隷だろうと寛は思った。
「戦後、確かに主権者は国民であると胸を張って言える状況があったと思います。私達国民が主権の根拠とするものは、『凄い』でも『偉い』でもなく、もうそういうものに支配されるのは真っ平御免であるという思い、望むのは上からの支配ではない、横と横で繋がったみんなの幸せを願ったものとしての社会理念や社会正義であったはずです。
それは自由だったり、平等や公平だったり、平和だったりの形を取ります。そして、それは自分だけではない、『みんなの幸せを願う心』の結実です。これが主権の源です。すなわち国民の権威です。
人は必ず間違えます。どんなに『凄い』人であろうとです。『偉い』だけの人ならなおさらでしょう。また、大衆も間違えます。かつて、人類は民主主義だけであれば、とてつもない間違いを起こすということを多大な犠牲を払い、学びました。
だから、人に頼り切るのではなくて、強大な権力を縛るためのものとして憲法が必要であるという結論に達したのです。いわゆる立憲主義というものです。
日本の旧憲法はその役割を十全に果たし得るものでした。もちろんそれだって完全なものではなかったかもしれません。しかし、より良いもののはずでした。そして、それをさらに良いものにしようというのなら、本当に多くの対話が必要だったはずです。
それは一部の支配層だけが恣意的な思惑で、決めて良いもののわけがありません。なぜなら、そうやって決められた憲法は、彼らの幸せを得るためだけのものになってしまうからです」
事実、そうなってしまったのだから、笑えない。きっと、旧憲法を廃棄させた時、支配層は小躍りして喜んだに違いないと寛は思った。
「旧憲法は国家権力という強大なものを縛るための鎖であり、それは上も下もない全人類的な幸福を願う心、『みんなの幸せを願う心』から出来ていたと言えましょう。憲法とは国民の権威の表象でもありました。だからこそ、旧憲法九九条には天皇と国会議員含むすべての公務員は憲法尊重擁護義務を負うとあったのだと思うのです。
つまり、国民の権威を源泉とした旧憲法は、強大な国家権力というものを、国民の幸福のための公器たらしめていたのです。
公器であるということは、国家権力は決して一部の人々のためのものではありませんでした。
旧憲法前文を読めば、この国の主体は国民であったことは明らかです。また、階級的な社会を否定し、公共的な社会を志向していたことがわかります。
そこには国の垣根すら超えた全人類的な視点が既にありました。
戦後、日本には新たなフィクションが生まれたと言えるでしょう。
確かにそれは自然なことではありません。ですが、それで良いと私は思うのです。
階級的な『凄い』や『偉い』から『みんなの幸せを願う心』が権力の根拠になっているのです。
だとしたら、人はだいぶ良くなれたのではないでしょうか。自分だけではなく、他人の幸せも願えるようになったのですから。私はそう思っているのです」
しかし、それは今や昔のことだった。本当に大切なものを手放した果てに自分たちは居るのだと、寛は思った。
そう思うと、薄ら寂しいような感覚の一方で、学校で習ったことがまたもや自動的に頭の中に浮かんできた。
「でも、中には旧憲法は押し付けられたものだったって言う人もいますよね?」
「懐かしいですね。確かにそういうことを言う人はいました。今の支配層がそうです。
歴史的に見て、GHQが大きな役割を演じたことは確かです。しかし、マッカーサーが当時の日本政府に改憲を示唆し、提出されたものが大日本帝国憲法の本質と変わるものではなかったため、憲法の全面変更案を提示されたという情けない経緯があります。
これによって、ようやく国民主権が登場するのです。
また、日本の有識者達が憲法研究会という研究会を組織し、独自に作成した草案をGHQは参考にしたという話もあります。
きちんと調べてみれば、一方的に押し付けられたとはとても言えないと思うのです。
しかし、なによりもまず考えてみてください。一部の支配層のための憲法と多くの国民のための憲法は一体どちらがより多くの人を幸せにするものでしょうか。
また、戦後憲法下にあっても支配層は十分幸せな立場に居たはずです。富める者がより多く富みたいからといって、多くの貧しい人々から搾取することに正当性はあるのでしょうか。
一体誰が押し付けられたなどと言っていたのかを考えてみるのもいいでしょう。それは戦前からの支配層とその取り巻き、あとお友達だと思いこんでいた人々でしょう。それだけで彼らの思惑は推して知るべしでした」
「なるほど。確かにそうですね」
寛は憑き物が落ちたかのように、一転、納得した。それはなにより悲惨な現状が実感としてあるからだ。
今では国民は支配層のための現憲法を押し付けられるどころか、尊重しなければならないとされている。つまり、『一部の支配層だけの幸せを願う心』を尊重しろというわけだ。権威も権力も福利すらも国民は奪われて、奴隷にされてしまった。
そして、どうも自分の心にも奴隷の刻印が刻まれてしまっているらしい。寛の心には薄ら寂しい感覚の一方で、憎しみがますます湧いていた。
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