あやし匣

三木有理

一人祭

 山間へドライブに行くのが趣味であった。

 鉄道も通らぬ田舎の果ての町や村を通り越して、ひたすら山へ分け入っていくという楽しみを持っていた。

 車の通れる道がなくなったり、あるいは気が済んだりすると引き返し、気分次第で直売所の野菜など買って帰る──そういうことを度々していた。

 平素暮らしている街から離れ、別世界のような田舎の道を奥へ奥へと進んでいくと、アスファルトを平然と砕いている木の根や、打ち捨てられて山に侵食されつつある廃村などに出会い、この国にはまだ人間の支配の及ばぬところがあるのだと感じられて、私は妙に満足するのだった。

 その日も私は、山間に張り付くような集落を抜け、ひたすら山の上へと車を走らせていた。天気は良かったが、空気はやや冷たかったように思う。

 人とも車とも出会わなかったが、ずいぶん山を上って、ガードレールが途切れがちになった頃に、ふと、ドンドン、と音が聞こえてきた。

 ドンドン、トン、ドンドンドン

 私はすぐにそれを太鼓の音だと思ったが、場所が場所である。こんな所で誰が何をしているのか。わざわざ太鼓を運んできて打ち鳴らす意味がわからなかった。

 地元の祭りか何かか、と思いながらハンドルを切って、私はすぐにその正体を察したが、同時にいっそう不可解な思いにとらわれた。

 アスファルトの切れた先、ガードレールもない崖の手前の土の上に、子どもの後ろ姿があった。

 地べたに座った子どもが、ドンドン、と太鼓を叩いている。

 夏の夜でもあったなら、妖怪変化の類かと疑いたくなるような光景であった。子どもは一人きりで、周りには誰もおらず何もなかった。

 私は道の端に車を止め、車外に出た。やはり子どもの他に目につくものはないようであった。

 子どもはひたすら、ドンドン、トントン、と太鼓を叩き続けている。こちらに背を向けているので、私に気付いているのかどうかもわからない。だが、車が坂道を上ってきたのが聞こえないということもないように思われた。

 私はどう声をかけたらよいのかわからず、遠巻きに子どもに近付いた。坊主頭の、十かそこらの子どもである。回りこんでみると、子どもは真面目な顔をして、ひたすら太鼓を打ち続けていた。

「君──」

 声をかけても子どもはこちらを見もしなかったが、存外はっきりとした声で言った。

「なんじゃあ、おっちゃん、よその人じゃね」

 いかにも地元の子どもという口ぶりに、私は幾分ほっとしながら言った。

「そうだけど、君、こんなところで何してるんだい。練習かい?」

「違う。すまんけど邪魔せんでくれ」

 子どもが真剣な声で言うので、私は何と言ったらいいのかわからなくなってしまった。

 よく見ると子どもは浴衣を着ていた。街の子どもが夏祭りで着ているような、安物のありふれた浴衣である。それを自分で着付けたものか、不格好な着こなしであったが、子どもであるからそれも可愛げがあるように思われた。

 季節外れな装いだが、子どもの思いつきなら何が出てきてもおかしくはない。私はしばらく子どもの演奏を眺めていたが、すぐそこが急斜の崖になっていることが気になって、再び口を開いた。

「なあ、ここは危ないから場所を変えたらどうだい」

「ここでええ」

 子どもの返答は簡潔だった。ドンドン、ドン。太鼓のテンポは変わらない。

「……何をしてるのか知らないけど、こんなところに一人でいるのは放っておけないよ」

 そこで子どもは、初めて私をちらっと見た。くっきりとした黒い目に、一重のまぶただった。

「おってもええけど、大事な祭じゃ」

「祭?」

「おう。じいちゃんの小さい頃は村をあげてやっとったそうじゃが、今はもう誰もせんから、俺がやる」

 じいちゃんの小さい頃、と言われて、私は六十年ほど前を想像したが、この年頃の子どもの言うことであるから、もっと最近の話かもしれなかった。

「何の祭だい」

「神さんに捧げもんをする大事な祭じゃ。メシアゲの何とか言うたが……名前は忘れた」

「ふうん」

「本当は三年に一度せんといかんのじゃ。なのにもう、ずっとやっとらんから、神さんが腹を空かしとる。こんままじゃみんな食うていけん」

「みんなって?」

「村のみんなじゃ。俺の村はほとんどの家が農業か林業をやっとる。でも去年の台風で山の木がずいぶんやられた。若木は根こそぎ流された」

「……」

「うちの畑も今年はイノシシに駄目にされた。近所の田んぼは苗が病気で腐った。なのに大人はわあわあ言うだけで何も聞かん。だから俺がやる」

 私はじっと子どもの横顔を見つめた。空想や冗談を言っているようには見えなかった。

「やるって……その、祭をかい? 豊作祈願の祭ってことかい?」

 子どもはまた私の顔をちらっと見た。

「神さんが腹を空かして弱っとるから、山や畑が荒れる。神さんが元気になれば、農家は働いた分だけは食うていける」

 私は要領を得なかった。信仰にはとんと縁のない人生であった。

「祭をすれば神様は元気になるの?」

「そうじゃけど、ちょっと違う。祭は神さんを起こして、来てもらうためにする。神さんは捧げもんを食うて元気になるんじゃ」

「何を捧げるんだい」

「俺じゃ」

 私は口を開けて子どもを見た。子どもはずっと太鼓を叩いている。

 ドンドン、トン、ドンドンドン

「十三より若い子どもしか神さんは食わん。うちは兄ちゃんも姉ちゃんも十四を過ぎとるから俺しかおらん」

 私はつばを飲もうとしたが、口が乾いていてむせそうになった。

「……家の人が言ったのかい? その、祭をやってこいって?」

 子どもはうんざりしたような顔をして、そっけなく言った。

「だから言うたじゃろ。大人は何も聞かん。話にならん。俺しかやるもんがおらんのじゃ」

 私は、すぐ目の前が崖であることがひどく不安になった。背中がうそ寒い気がして、ごまかすように肩を震わせた。

 子どもは小さい。いざとなれば抱え上げて走ることもできる。そんなことを考えて、自分で馬鹿馬鹿しいと思った。

 こんな小さな子どもの言うことを、真に受けてしまっている。

 ドンドン、トン、ドンドンドン

 祭り囃子を思わせる太鼓の音が、急に不快に感じられてきた。しかし、やめろと言うのは大人げないように思われて、逡巡しているうちに子どもが先に口を開いた。

「もうすぐ来るぞ」

 そう言って、子どもは崖の向こうを指さした。えっと思って顔を上げると、いつの間にか西日が真正面にあった。私はあっけにとられた。

 見たこともないような巨大な夕日だった。目の前に溶鉱炉が口を開けたように見えた。黄色と赤と橙が渦を巻きながら、辺り一面を照らしていた。

 唖然とする私の横で子どもが立ち上がって、崖の方へ二歩三歩と進んだ。とっさに引き留めようとしたが、子どもは崖とは反対の方を見て、言った。

「ほら、神さんが来た」

 子どもの見ている先には茂みがあった。その茂みがガサガサと激しく動いたと思うと、中から獣が飛び出してきた。

「うわっ」

 私は最初それを犬だと思ったが、虎かライオンほどの体長があったので、オオカミかもしれない、と考えた。とにかくその獣はまっしぐらに駆けてきて、尻ごみする私を無視して子どもに飛びかかった。

 何もかも一瞬の出来事であった。獣は子どもの細い首に食らいつくと、もろともに崖の向こう、溶鉱炉に吸い込まれるように落ちていった。

 私は這いつくばるようにして崖の下を覗いたが、そのときにはもう何の音もせず何の痕跡もなかった。岩と土と茂みがあるばかりであった。

 振り返ると、持ち主を失った太鼓とバチがしんと取り残されていた。私は恐ろしくなって車へ駆け戻ると、とにかく山道を下り始めた。

 あんなに明るかった西日は、釣瓶のように落ちていった。私は山を下りることしか頭になく、国道の標識を見て初めて、自分が来た道とは見当違いの方向へ走っていたことを知った。その頃にはポツポツと民家の明かりが灯っており、やがて民宿の文字が見えてきた。私は少し迷って車を止めた。ここからまっすぐ帰っても、三時間はかかる。すでに日は落ち切っていた。とても平静に運転できる精神状態ではなかった。

 民宿の戸を叩くと、ふっくらとして目の細いおかみさんが歓迎してくれた。とにかく早く休みたい旨を伝え、風呂と食事を頂戴すると、私は二階の端の部屋で客用布団に潜った。それまでに何度か山の上で見た子どもの話をしようかと考えたが、正気を疑われるような気がしたし、何より口にするのが恐ろしかったので、私は言わずじまいであった。

 横になってみるとどっと疲れが押し寄せてきて、私は思いの外簡単に眠った。しかし、夜中に人がしきりに玄関を出入りする音がして、浅い眠りの中で、どこそこの坊が、とか、なんとかちゃんが、とか、せわしない会話が交わされているのを夢うつつに聞いた。

 翌朝は雲ひとつない快晴であった。私はおかみさんに丁寧に礼を述べて宿を出たが、おかみさんは昨夜に比べると幾分疲れている様子であった。

 私はおかしな夢から醒めた思いで、寄り道もせずに真っ直ぐ家に帰った。その日からニュースや新聞記事をあれこれと気にかけて見たが、どこにも山間の田舎の子どもの話はなく、私はすぐに日常に戻ることができた。

 翌年、小さな記事がとある農村の豊作を伝えたきり、私が車で遠出することはなくなった。

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あやし匣 三木有理 @miki0101

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