第1話 黄砂の園 下



 父のアトリエは、いつも扉まで絵の具で濡れていた。

 派手に飛び散らかしているわけではなく、絵の具のついた手で周りのものを触りまくるからだ。

 完成を知らないあの黄土のキャンパス。あれを描き終えた頃、いつもよりも清々しい顔で扉から出てきたことだけは覚えている。あのときの扉は、たしか群青色だった。

「見えないものを具現化する。それはアーティストにしかできないことなんだ」

 誇らしげに語った父に、「じゃあ見えてるものを描いちゃあ、いけないの」――あれは初めての反発だった。



 昨日と打って変わって、第二美術室は閑散としていた。マルスは片付けられ、石膏像の仲間が並ぶ戸棚の上へ追いやられている。今日は水彩での静物画だ。木炭よりもこちらのほうが気合いは入る。チェストの上に敷かれた、格子模様のハンカチーフ、その上には黄色いケトルと空のグラス。

「ケトルには水を入れてあります。その水をグラスに注ぐも注がないも、みんなの自由です。入れない人は、グラスの中の空気を描くことになる。ぼくはそっちのほうがオススメだけれどね」

 見えないものを描く。グラスは何も入っていないわけではない。

「目の前に置かれたものが、どういうものなのか。ただ見ただけでは思い込みが先行してしまいます。実際に触れて、質感や用途を確認してから描いてみましょう」

 各々がケトルに触れる。その軽さ、弾いた時の音の響き。ひとり出遅れた生徒は、成田教諭に駆け寄った。

「見たままだと思うんですけど…… 思い込みって、どういうことですか?」

「きみは今、見たまま、と言ったよね? じゃあ、あのグラス、材質はなんだと思う?」

「グラスだし…… ガラスじゃないんですか?」

 教諭は首を振った。グラスを手に取れば、その軽さに苦笑する。よく見れば、継ぎ目がある。

「これはぼくが授業のために買ってきたんだ。たくさんあるし、重いと嵩張るから、ガラスはやめたんだ」

「100円のアクリルグラス……?」

「正解。ね、触ってみたり、確認しないとわからないこともあるだろう? きみはこれを知らないと、ガラスだと思ったままだった。そうすると、ひとりだけガラスを描くことになってしまう。これはガラスだ、そう思い込むと、課題とは違う回答になってしまうんだよ。ぼくはみんなに、本質を描いてほしい」

 見えないものを描きつつ、見えているものは正確に。成田教諭の教えはよくわかる。あのときの父の言葉と、相反しているように俺には思えた。


「マルス、今日はいないんだな」

「あそこにいるぞ」

 やはり昼に訪れるバカミソへ、棚上を指差してやれば大袈裟に身をよじる。未だに例の実技計画を提出していないらしく、芸術棟は身を潜めるに適している、などと零していたがそれはどうだろう。昨日も子安は来ていたわけだ。

「今なら調べても構わないよね?」

 言いながらマルスを持ち上げ、烏森は「ん?」と顔を顰める。

「重いね……」

「石膏だからな」

「我が校はしっかりとしたものを用意するんだね」

「石膏とねんどじゃあ、質感が違う。成田教諭は本質を描いてほしい、らしいからな」

「へー。じゃあ、やっぱマルスに仕掛けがしてあったわけじゃねェのか……」

 購買の惣菜パンを食い散らかし、浅間はまた俺の絵を覗き見る。今日の水彩画は、昼の段階ではまだぼんやりとした輪郭しか描き終えていない。

「神田ァー、油彩はやらねーの?」

「ミレーだって水彩も使うぞ」

「知ってるわい!」

「万摘のミレー好きに、すっかり神田くんも慣れてしまっているね」

 あれだけ毎日言われれば嫌でも、だ。相変わらず、今朝も今朝とてなんだかよくわからないタイトルの絵を描いてほしいとねだられた。画家に無償で頼み込むなど、筋違いも甚だしい。

「あのマルス像ってレプリカだろ? 作者の霊が乗り移った〜ってわけじゃねーよなー……」

 惣菜パンの次は焼き菓子。食いカスを飛ばしてこないか肝が冷える。

「マルスにではなく、霧島先生に憑いてる可能性もあるね。私たちだけのときは何も起きなかったわけだし」

 たしかに、と話に流されそうになり、首を振るう。

「バカバカしい。そもそも、本当にそんな怪奇現象が起きていたのかも怪しい」

「いや、神田だって昨日見たじゃん」

「思い込みかもしれない」

「は?」

 今日はやけに成田教諭の言葉が響いているらしい。本人がいないところで良かった。浅間は納得がいかないのか、遠くからマルスを睨みつけてはううんと唸り続けている。

「神田くんが言いたいのは…… つまり、私たちは全員が『マルス像が笑う』と思い込んだことによる、集団パラドックスのようなものに陥った、ってことかな?」

「集団パラドックス?」

「みんながそう思っているんだから、そうなんだろう。自分だけそう思っているはずがないだろう。といった、思い込みの連鎖だね」

 不思議発見者は難しい話が好きらしい。やはり首を傾げる浅間に笑えば、マルスの頭をとんと撫で

「マルスが笑うわけが無い、けれど実は笑うかもしれない。霧島先生は笑う現場を目撃したのだから、また霧島先生が来れば笑うかもしれない。……この場合、『霧島先生が来る』というのがトリガーになったわけだ。私の発言のせいだね」

「梅のせいかよ」

 くつくつと笑う烏森は、面白がっているようにしか思えない。また今日もあの怪異が起きてしまったら、もしもそれが校内に知れ渡ったら――今日の課題も、早めに片付けてしまわねば。

「でも、その集団なんたらの理屈はなんとなくわかったけど、イケメン先生はどうなんだよ? ひとりでここで最初に写真撮ったんしょ?」

「そうだね。そして何度も足を運んでいる」

「やっぱ取り憑かれてんじゃねーの……って、これも思い込みかァ?」

 パラドックスのゲシュタルト崩壊だ。筆を置いて俺も昼食に入る。目の前のモチーフ以外の、情報量が多い。バランス栄養補助食たる某ブロックをかじり、仕方ない、こいつらに向き直る。

「誰かに言われて来たんじゃねえか?」

「誰かって?」

「知らん。が、霧島に好意を寄せていて、やけに異学科に来る奴ならいる」

「オレはイケメン先生興味ねーぞ」

「お前じゃねーよ」

 烏森はピンと来たのか、ほうと息を吐き出すと浅間の焼き菓子を盗み取った。

「万摘と引き換えに、話を聞いてみようか」


「浅間くん、やっと持ってきてくれたのね?」

「え、いや、あは、あははは……」

 美容科教員室に来るのは初めてだ。美術科教員室とは雰囲気が随分と異なる。美容科美容コースの教員は派手な連中が多く、子安のような変わり者も多い。やけに飾り付けられた自分のデスクで足を組み、子安は浅間をじとりと見つめた。

「え――っと、計画表はもうちょい、もうちょいでできっから、ちょっと待って!」

「あのねぇ、それを聞いてもう3日経ってるんだけど?」

「ぐ…… 苦手なんだよ、計画立ててとかさ……その場の勢いっていうか、ノリでやるもんじゃん」

「それじゃあクライアントに迷惑が掛かるの。わかる? 将来の練習なのよ」

「わかるけどさぁ……」

 浅間の説教を見守りに来たわけではない。子安を見れば、ウインクを投げられた。困る。

「子安先生、昨日お会いしましたね。芸術科写真コースの烏森です。霧島先生とは仲が良いんですね」

「ご丁寧に。烏森さん、あなたキレイよねぇ。お肌のケアとか何使ってるの? 今度美容科のショーに出てみない?」

「私は被写体を撮る側なので」

「残念〜 ええと、霧島先生? ふふ、仲良く見える? だったら嬉しいわね。前に食堂で一緒になってねぇ、それからよくお喋りするのよ」

 食堂は全科共有のものがある。たまに使うが、教員と席を並べることもあり、気まずさを伴うことも。霧島も子安も、ある意味で目立つ者同士だ。……子安を前に食うのは、なかなか強烈だとは思うが。

「コヤセン、なんで最近オレのことすぐ見つけんの? 芸術棟とか前は来なかったじゃん」

「浅間くんのことならなんでもわかっちゃうんだから」

「うげ……」

 浅間のこと、だとしたら俺のところに来ると思われているということか。巻き込まれ損が過ぎる。顔をしかめていれば、烏森はまた笑い、

「霧島先生って、かっこいいですよね」

 その言葉には浅間と子安の目の色が変わった。

「……烏森さん、あなたも霧島先生のファンなのかしら」

「あなたも、ということは、子安先生もです? 私、このあとの3時間、霧島先生とマンツーマンなんです」

 子安の目が恐ろしい。獲物を狙う、肉食動物のような。烏森は微笑んだまま、たじろぎもしない。子安の反感を買い、泳がせようとでもいうのか。

「……浅間くんがまだ課題を出せないことはわかったわ。明日の実習、厳しくしてあげるから覚悟なさいね」

「な、何故―――!」

 大袈裟に頭を抱える浅間と、蛇睨みの子安、そして余裕の笑みの烏森。今日中に課題を終わらせるのは難しそうだ。俺も、浅間も。


 今日の水彩画は明日に持ち越される。自分の作業を忘れない為にと、スマホで撮影していれば浅間に取り上げられた。

「せっかくなら梅に撮ってもらえば?」

「あっちはまだ授業中だろ」

「写真コースは7限多いよなー、超大変。オレ7限の日は腹減って死にそーになる」

 俺の美術コースも週に1度だけ7限授業がある。主に学外授業が行われるが、終わりが16時を回るため、生徒からは不評だ。写真コースは学外授業が多いためか、7限も週に2度行われるらしい。そうだから、烏森が霧島とマンツーマンというのも嘘ではない。

「あ、戻ってきたっぽい」

 窓から身を乗り出し、浅間が腕を振るう。烏森もこちらを見たようだが、反応は無かった。

 ――烏森の考えはこうだ。

 本人は教師に愛情も羨望も抱かないらしい。それでいて子安にあの言葉を投げたのは、「女の嫉妬は、本性を見せるからね」とのことだ。子安は女ではないと思うが。

「梅があんなこと言うなんてビックリしたけど、これでコヤセンが関係無かったら、梅の恨まれ損じゃね?」

「そんときゃそんときなんだろ」

「コヤセンの怖さ知らねェからってよ……」

 子安を怒らせる浅間が全面的に悪いとは思うが、あの目は恐ろしかった。

 しかし思い返せば、美容科教諭である子安が第二美術室に用もなく真っ直ぐ訪れたのも疑問だ。昼休みに浅間を見つけたから、と言われても、短い昼休みで無駄足無く来れたのもおかしい。きっとマルス像の件も、子安が霧島に言い聞かせた、それこそパラドックスなのだろう。烏森の狙い通り子安が霧島の元へ訪れれば、おそらく、間違い無く。

 二美を出て、写真コースの暗室へ。撮影したものはそこで現像作業をするらしい。暗室の中は、外から光が漏れないようにカーテンが引かれていて、廊下から確認することも難しい。扉へ耳を当て、浅間が中の様子を窺った。

「んー…… まだ授業の話っぽいな。ネガをなんたら〜って言ってる」

「子安の声はねえのか」

「なさげー」

 時間はもう16時前になる。7限もあと20分ほどで終了だ。このまま子安が来ないのであれば、あの教師は霧島に執着しているわけではない、ということになるだろう。何も無ければとっとと家に帰り、スケブでも開きたいところだ。

「ん?……んんん?」

「なんだよ」

「なんか、……音、聞こえにく――」

「浅間」

 浅間の腕を引き、隣の映写準備室へ滑り込む。来た。

「霧島先生…… 浮かれた生徒たちにまで優しく慈しむだなんて、嫉妬の女神は恐ろしいのよ…… んふふ」

 コツリコツリ、ヒールの音が廊下をこだまする。暗室の前で立ち止まった女――いや、男だ――は、趣味の悪い口紅を塗り、戸に手を掛けた。

「やっべェ…… マジでコヤセンの仕業だったわけ……?」

「静かにしろ」

 子安はなかなか動かない。戸に手を掛けたものの、すぐに離してはコンパクトミラーを取り出し、自分の顔を確認したりなどして。

「…… なあ、神田ァ。オレ、いたずらの犯人はコヤセンじゃないと思う」

「来たじゃねえかよ」

「とりあえず聞けって。コヤセンってさ、美意識めちゃくちゃ高ェの。引くぐらい。だから今も化粧直しとかめっちゃしてるじゃん? でさ、美意識っていうのは、別に化粧乗りとかのことじゃなくて、『その人らしさ』とか『個性』を尊重するためのものって言ってて」

 そろそろ7限の終わりのチャイムが鳴る。子安は未だに戸を開けようとはしない。

「だからコヤセンの『らしさ』は、化粧していつもよりキレイになること、らしいんだけど。だとしたらさ、操られたみてェにマルスに擦り寄るイケメン先生は、『らしく』なくない? コヤセンは、そんなことしねェと思う」

 終礼のチャイムが鳴り響く。それを待っていたのか、子安は鐘の音と共に勢いよく扉を開け放ち――やけに冷たい空気がこちらまで流れ込んできた。暗室は機材のために、室温管理を怠らないとは聞くが。俺たちも子安に続こうとした刹那、子安の野太い悲鳴が鼓膜を突いた。

「コヤセン!」

 慌てて浅間か先陣を切る。俺も暗室に踏み入れて言葉を失った。

「梅!大丈夫か!梅!」

 烏森だけではない。霧島も、他の写真コース生も、皆が冷やされた暗室に倒れていた。そして霧島に駆け寄った子安の視線を追えば、俺たちは思い込みのまた思い込みに追いやられていたことに気付かされる。

「……マルス」

 写真コースの暗室に、マルス像があるはずがない。

「やっぱ霊的なそれじゃねーかよォ! インチキ霊媒師にかまされてんじゃねェよチクショウ!」

 もうこれは、集団パラドックスではない。冷ややかな風をこちらへ浴びせ、マルスの石膏像が宙に浮かんでいた。音も無く、ただ風を発して、その視線は霧島を見ているように思える。

「霧島先生が言ってた石膏像のおばけって、これのことね……」

 霧島先生、その言葉に風が強さを増す。バラバラと、その場のフィルムが巻き上げられた。まるで暴風域だ。

「やっぱコヤセンがやってたわけじゃねェんだな!」

「なんでそうなんのよ!」

 声を上げながらも、子安はおもむろにマルスへと近付く。子安の動きを追うかのように、風は更に勢いを増す。風を受けながらも、子安は石膏像を手のひらで掴み覆った。

「あんた、何がしたいの?」

「コ、コヤセン……?」

 マルスに向かって話し掛けている。ひんやりとした風が、一瞬怯んだ気がした。

「言いたいことがあんなら、怖がらせてないで自分の言葉でちゃんと言いなさい。そんなんで人の心を動かせるとでも思ってるの?」

 石膏像に向かっての、説教だ。まるでそれが何者なのか、わかっているかのような口ぶり。

「好きな人に恐怖を植え付けて、それを一生背負わせるの? そんなの愛って言えるのかしら」

 そういえば、霊障というものは何も、死者の霊だけが引き起こすものではない。ましてやこの創立も浅い雑色高校で、新任教師に対して。子安は拳を振り上げた。

「愛ならば、真心でぶつかりなさい。見えないところで安心してんじゃないわよ」

 そのまま拳が石膏像へと振り下ろされる。風が――。



 暗室のカーテンを開けば、空は青と茜のコントラストを描き出していた。見事なまでのトワイライト・ゾーン。音楽が聴きたくなってきた。

「マルス像が見えたと思ったら、意識が遠のいたんだ。そんな楽しいことになっていただなんて、私も見たかったな……」

「霊地オタク…… いやもうマジでビビったし、コヤセンがいてマジでよかったァ……」

 子安が殴ったマルス像は、見るも無惨に砕け散っていた。石膏像が砕けるなど、どんな怪力かと思うが、これも霊障のせいなのだろう。破片を掴めば脆く零れた。砕けた欠片は、黄砂のようにさらさらと山を成していく。

「みんな本当に、巻き込んでごめん。たぶん、僕の元カノの怨念だと、思うんだ」

 子安に支えられ、霧島は泣きそうな顔で笑う。随分と嫉妬深く、粘着質な恋人だったらしい。生霊までよこしてくるとは、恐ろしいものだ。人気がある、というのも考えものなのだろう。

「いつか別れようと思ってて、子安先生に相談していたんだけど、それを彼女に聞かれてね。その時に勢いで別れ話をしてしまって…… 子安先生と付き合うことになってからも、無言電話とかストーキングとか、警察にお世話になったりとかで――」

「ちょちょちょ、ちょっと待っ! え!コヤセンとイケメン先生、付き合ってんの!」

「あっ……」

 頬を赤らめるな。身を寄せ合うふたりからして、そうなのだろう。

 つまり、子安が芸術棟に訪れることが増えたのは、ふたりが帰路を共にしていたからで。やけに取り繕っていたのは、二人の関係を秘匿していたからで。烏森が霧島に気があるフリを見せた時の目は、恋人としての嫉妬心からで。暗室にやけに洒落めいてやって来たのも、そのままデートにしけこんでやろうと考えてのことで。

 何から何まで、俺たちは見えているものしか掴めていなかったわけだ。霧島たちが撒いた種に、ものの見事に巻き込まれただけだった、というわけだ。

「っは――。でもなんか、良かった。ふたりとも幸せそーじゃん?」

「本当にごめんね、三人とも」

「解決して良かったね、霧島先生」

「あ、そういえば烏森さん? そういうわけだから、霧島先生は渡さないわよ」

「結構です。冗談ですから」

 妙なことに体力と時間を消費してしまった。霧島も子安と同じく、ある意味での色物教師だった。そういうことだ。おそらくこれで、こんな屈強な恋人がいると理解されたならば、霧島をまとう不穏なものは取り払われるだろう。俺の二美の安泰も守られたということだ。

「あ、マルス……」

「あ」

 後ほど報告に行った先で、成田教諭が涙目になっていたのは言うまでもない。

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