第1話 黄砂の園 中



 黄土のキャンバスに緑が差す。

 あれは植物だろうか。陰影もままならなく塗りたくられ、徐々に輪郭を形成していく。何を見てそれを描いているのか、幼い俺には回りを見渡しても検討が付かず、やがて父に気付かれた。

「目に見えるものだけを描いてるようじゃあ、一人前とは呼べないのだよ」

 にやけた笑みはいつもの父で。それに安堵したのをうっすらと覚えている。今の俺ならば粒ほどに思わないだろう。

 手招く父を振りかぶって部屋から逃げ出した。だからあの絵の完成を俺は知らない。



 いつだって作品を完成させるには根気と覚悟が必要だ。

 たった一つの、ただの課題であってもそう。午前中に終わっているはずだった木炭デッサン。あれさえも、俺はまだ納得できずにいる。担当教師は困ったように「そんなに難しく考えなくても」と笑っていた。

 浅間が言っていたが、俺は「美術コースの天才画家」と呼ばれているらしい。これはきっと近寄り難いだろう俺を揶揄したのだろう。俺は天才のように何もかもできるわけではない。こだわりが強く、頑固で、そんな自分を達観する偏屈な男だ。だから、こんな俺に関心を抱くような人間はいないと思っていたし、そのほうが気楽だと思っていた。

「なー、本当にまた美術室行くのかよ?」

 だからこいつは人間ではない。バカミソのミソカスだ。

「誰も着いてこいとは言ってない」

「オレは神田に用があんの!」

「俺はない」

「神田の絵見んの好きだしな」

「話を聞け。バカミソカス」

「暴言進化してるし……」

 というわけで、昼にもこいつが転がり込んできた美術室――芸術棟の第二美術室へ再度足を向かわせている。第二美術室は第一美術室よりも手狭で居心地がいい。一人であれば、だが。

「そういや、梅がなんか最後怖ェこと言ってたじゃん? 霧島、今日も来るかもねって」

「言ってたな」

「決まった時間って、何時なんだろうな?」

「夕刻の、どっかだな」

「え、マジ?なんで?」

 薄ら笑うマルスの彫像。あんなもの、どこかにトリックがあるはずだが、あれを撮影した写真コース教諭霧島は、何かに取り憑かれたように第二美術室へと足を運ぶのだという。俺の憩いの二美にびで迷惑な話だ。フィルムに確認できた影の長さから、およそ夕方頃だろうとは思えたが、正確な時間はわからない。俺は理系ではないんだ。

「つーか…… 今ドンピシャ夕方じゃん。どうすんよ、マジで霧島がいたら」

「どうもしねえよ。どうせ烏森のホラだろ」

「いや、梅は確かに性格悪ィけど、嘘とかは言わねーんだって」

「性格悪い、は余計だね」

 お決まりのように隣を歩く女。浅間が声にならない悲鳴を上げていた。

「う、梅……おま、ほんと、心臓に」

「あなたたちが歩いているのが見えたから。私も霧島先生の言うことが本当なのか気になってるんだよ」

「……だから、俺は霧島を見に行くわけではなく」

「課題をするんでしょう? 邪魔はしないよ」

 既に邪魔だと言いたい。言いたいが、首から下げたカメラを握る女の拳と、前を見据える真っ直ぐな目に、これ以上巻き込まれまいと言葉を噤む。

「決定的瞬間をカメラに収めなくちゃね」

 ――これは、巻き込まれないようにするほうが難しい。


 西日の差し込む室内は、正午の頃とは風景が様変わりする。

 真っ白な壁は橙色をよく映えさせ、キャンバスのないイーゼルはもの哀しげに細長い影を伸ばす。

 俺以外にも誰かが教室を使ったのか、昼に出た時と殆どレイアウトは変わっていないが、僅かに椅子が動いている。中央に置かれたマルス像と、その周りを囲むように点在する椅子。マルスと真正面に向き合った席はイーゼルが片されているようだが、俺の位置は決まっている。

「写真コースの専門科目は、5限目が最後なんだ」

 手近な椅子を寄せ集め、烏森と浅間が寄ってくる。邪魔をしないのではなかったのか。他の生徒から苦情が出ようが、俺には関係ない。

「ってことは、イケメン先生は6限の時間からフリーなんだな? もしかしたらもう来たあとかもな」

 今は7限目の最中だ。俺を含め、ここにいる三人は6限目で授業を終えている。怖がっていたはずの浅間だが、いつの間にか乗り気になっているようで。再度あのフィルムを懐から取り出す烏森に、寄り添っているようにも見える。

「でも、この影の長さはもう少し…… ほら、このマルスから伸びる影、今よりも長いでしょう? まだ少し時間があるかもね」

「はち会うかもしんねーのか……」

 難しい顔をして意見を交わす二人だが、やっていることは子どもの遊びに他ならない。なんとか帰ってやくれないものか。

「……お前ら、本当に付き合ってたのか」

「うえ」

 間抜けな声で反応するのは浅間だ。何故か顔を赤らめて目を白黒させている。

「そうだよ」

 反して烏森は微笑んで、ここにこいつのファンがいれば赤面するのだろうか。

「私の不思議発見に付き合ってくれる条件でね」

「なんだ、やっぱお遊びか」

「でも別れ話を切り出したのは万摘だよ」

 デッサンの手は休めること無く。浅間に一瞬目をやれば、慌てたように手を交差していた。

「不思議発見って条件が面白そうで、な!ちょっと付き合っただけ!別れ話って大袈裟なもんじゃねェし!」

 そうまで慌てる理由はわからんが、ともかく付き合うきっかけは烏森の勧誘で、それについていけなくなった浅間が身を引いたのだろう。だからこそ烏森に苦手意識があるのだろうか。なんにせよ、少し気まずい空気になった。好機だ。

「喧嘩別れじゃねえなら、もう一度くっつきゃいいのに」

「なんっで、そうなるんだよ!」

 慌てて立ち上がる浅間に、これみよがしにニヤついて見せる。

「芸術科の君を侍らせるなんて、並の男じゃできねえぞ?」

「ふふ。神田くんが何を考えているかは知らないけれど、私は万摘のことを気に入ってるからね。きみが望むなら良いよ?」

「望まねーから!梅とオレじゃ、方向性が違ェの!」

 どこのバンドマンだ。計算通りヘソを曲げた浅間は、そのまま入口へと向かう。もう一押しで退散するだろう。烏森にも去ってもらいたかったが。

「だー!付き合ってられっか!梅と一緒だと、命がいくらあっても足りねェんだよ!神田ァ!校門で待ってっから!終わったら来いよ!」

「なんでだよ」

「ふふふ」

 笑い事ではない。頬に手を付き、笑みを浮かべる女は、あのバカミソよりはマシだろうか。木炭の仕上げに取り掛ろうとパンくずを握りしめれば、7限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。その音に隠れ、

「ひっ」

 と、背後で短な悲鳴が。

「やっぱり来たね」

 ああ、やはり面倒ごとは避けられなかった。ドタドタとこちらに駆け戻る浅間を受け入れ、烏森も立ち上がる。こうなれば、俺も振り向かざるを得ない。

「何か用……ってわけじゃあなさそうだな」

 目の虚ろなイケメン教師、霧島がそこにいた。


 霧島陵という男は、見目は爽やか、言動も優しくポジティブ、という人気を総取りするに相応しい教員らしい。直接教授される機会がないため、風の噂でしか知り得ないが、昨年度末に行なわれた着任式での印象もまあ近しいものだった。

 そんな男が今、虚ろな瞳で二美へと足を踏み入れる。俺と烏森を守ろうとしているのか、それとも足が竦んで動けないのか、前に佇む浅間のせいで視界が阻まれるが、霧島はゆっくりとこちらへ近づいているようだ。

「き、きき、霧島センセ?えーっと、写真コースのあんたが、ココに何の用?」

 浅間の声に、霧島は全く反応を見せない。足を止めることもせず、真っ直ぐに、俺たち――いや、マルスのほうへ。

「万摘」

 烏森が浅間の腕を引く。霧島の動線にいたのだ。慌てて身をよじる浅間を見ることもなく、霧島はマルスの目の前に位置取る椅子へ腰掛けた。

「――――」

 静けさに包まれた教室で、霧島の掠れた声が耳を触る。

「――あなたは――美しい」

 烏森が冗談めかして言っていたか。「マルスに恋をしたのかな」――本当に、そうなのかもしれない。

 じっとマルス像を見つめ、俺たちは間近でそれを見守る。異様な光景。時計のジリジリと動く音だけが、場を包み込む。

 ボルゲーゼのマルスといえば、ローマ神話の軍神マルスを象ったものだ。神話の中でも一二を争う美男神とされているが、このマルスの待遇には二面性がある。ローマ神話では、その勇敢さから理想的な男性像であるとされる。しかし、ギリシャ神話では名をアレスと呼ばれ、狂乱を人格化したものとし、畏怖の対象であったという。

 おそらく教員の中では一二を争うだろうイケメン教師も、もしかしたらマルスと通ずるものがあるのだろうか。なにか、シンパシーからこの奇怪な現象を演出しているのだろうか。

「あなたは美しい」

 霧島が動いた。椅子を立ち、まるで力無くマルスの元へと歩んでいく。拍子にイーゼルが倒された。生徒が泣くぞ。俺のでは無くて良かった、そんなことを思っていれば、霧島はマルスへと手を伸ばし――

「わ、わわわわ、わ、笑ったァ――――!」

 笑った。マルスの石像が、石膏が、ぐにゃりと、真一文字の唇が、口角を上げるようにして。

「嘘だろ」

 思わず声に出ていた。ハッして隣の女を見れば、言葉こそ発しないが不思議発見に頬を紅潮させ興奮を隠しきれないでいる。浅間は浅間で、先程絶叫したと思いきや、目の前の光景に食い入っていた。

「――あれ」

 霧島が動く。マルスに触れた手をじっと凝視して、弾かれたようにその手を離せば後ろへ飛び下がり。

「あれ、僕……また……!」

 二歩、三歩、そのまま椅子へつまずくようにして腰を下ろせば、ぐるりと室内を見回す。

「き、霧島センセ……?」

 浅間の声に、ようやく俺たちへと気づいたのか、瞳に涙が滲んでいた。どうやら正気に戻ったようだ。

「きみたち……えーと、烏森さんと……」

「美容科の浅間っス。こっちは美術コースの神田」

「浅間くんと神田くん…… ええと、僕の……見た……?」

「うん、バッチリ」

 脱力し、項垂れ、霧島は細く息を吐き出す。

「おかしくなった、と言われても仕方ない。いや、そうなってしまったんだろう、僕は」

「あのマルスの写真、撮ってからなんスよね?」

 写真、その言葉に霧島は顔を上げ、烏森を見た。

「烏森さん! ……なにか、わかっただろうか……?」

「残念ながら。目の当たりにしてみても、マルス像の仕掛けなんてものはわからなかったし、霧島先生が何かに取り憑かれたとしか思えなかったね」

 また項垂れる。生徒である烏森に助けを求めていたのか。頼りない、と普段であれば言いたいが、目の前で起きた超常現象には霧島を責めることも調子が出ない。ふと見れば、マルスは元の真一文字の口に戻っていた。

 あれは確かに、影の仕業ではなかった。例えるならば、ねんど細工をこねた時のように、ぐにゃりと動いていた。本当に、マルス自身が動いていたんだ。

「一回、お祓いとか行ったほうがいいんじゃないスか?」

「実は、もう行ったんだ。けれど、霊的な物は感じないって言われて。そこで烏森さんに会って、話を聞いてもらうことになったんだ」

「梅…… またお前、霊地巡りしてんのか」

「ふふ。収穫があったでしょう?」

 なるほど、烏森と浅間が別れるきっかけはそれか、と場違いに納得する。

「笑い事じゃあないんだ! ……いや、ごめん。僕も大人だからね、自分で、うん、なんとかするよ……」

 子どもに話しても仕方がないと思ったのか、霧島はよろよろと立ち上がる。入室時よりは人間味があるが、それでも目は虚ろ気味で頼りない。今のこいつを見れば、女生徒たちは幻滅するか、もしくは悲壮感により庇護欲を駆られるのか。

「あら、霧島先生、また会いましたね」

 と、場の空気を割るかのように、低くねっとりとした声が入口から響いた。美容科の子安。何故こいつは美容科のくせに芸術棟に現れるのか。浅間を見れば、烏森の後ろに隠れていた。……また逃げ出してきていたのか。そういえば今朝そんな話をしていた気がする。

「子安先生ぇ…… 僕はもうダメかもしれません……」

 泣きべそを掻く子どものように、霧島がすがる。子安は子安で彼をあやし、俺たちは何を見せられているのか。

「また例の石膏像のおばけです? 霧島先生かっこいいから、石膏像にも惚れられちゃったのかしらねぇ」

「最近は夢にまで出てくるんです……」

「それはそれは…… かわいそうに。ささ、こんなとこ離れてしまいましょ」

 霧島の肩を抱き、子安は踵を返す。が、すぐに立ち止まれば

「浅間くん。明日の朝、早朝レッスンをしましょうね?」

 首だけをぐるりと向ける子安は、笑うマルスと同じくらい恐怖を駆り立てた。


「うん。さすがは神田くん。木炭一本でよく描けているよ。まるで今にも動き出しそうだ」

「大袈裟ですよ」

「いやいや! 授業でこんなに真剣に完成させてくる生徒も他にはいないしね! 一部の生徒からは根っからの天才だと言われているみたいだけど、ぼくは神田くんを努力の天才だと思うね」

 俺をべた褒めしてくるのは、美術の成田教諭だ。細身の初老、そろそろ定年かと言われるが、まだまだ指導してもらいたいことは山ほどある。それほどに、芸術への教養を蓄えた信頼出来る教師だ。

「なあなあ、じーちゃん先生」

 この無礼KYミソカスがいなければもっと作品への話をしたかったのだが。

「浅間くんは美術科室が好きだねえ。今日はどうしたんだい?」

「ふふん、じーちゃん先生はミレーの良さをわかってっからなあ!」

「ミレーを悪く言う人はいないと思うなあ」

「だよなだよな!……って、今日はそれじゃなくてさ。じーちゃん先生、二美のマルス像の噂、知ってる?」

「噂?」

 こいつは成田教諭まで巻き込むのか。じとりと睨みつけてやれば、へらへらと手で制された。

「うーん、十五年間ここにいるけど、マルス像が笑うだなんて話、聞いた事ないなあ…… 誰かのイタズラじゃないかい?」

「霊的な物は感じない、って霧島先生も言われたんだよね」

 烏森もいたのか。成田教諭は困ったように笑っていた。二人を連れて美術科教員室を出れば、思わず溜めていた息が漏れる。

「イタズラだとして、霧島にそんなことをしようと思う奴がいるのか?」

「お、神田がやっと乗り気になった」

「お前は嫌だ嫌だ言いながら、早々に乗りやがったな」

「しまった、梅に乗せられた」

 しかしイタズラにしては随分と精巧だった。あれが例えばねんど細工だとしたら、見よう見まねで石膏像を模して形作ることはできたとしても、質感を同じくして、ましてやあんなギミックを加えるなど、素人ではできやしない。

 子安と霧島が去った後、浅間と烏森が石膏像を調べていたが、変わったところはなかったと言う。――まあ、俺が石膏像を動かすなと念押ししたために、重さや裏面までは調べられなかったが。それでも、俺のデッサンと比べても、それが動かされたとは思えなかった。

「霧島先生にイタズラをしたい、と思う人間ならば、いろいろといるんじゃあないかな」

「イケメン先生嫌われてんの?」

「逆だよ。好いているからこそ、意地悪はしたくなるものでしょう?」

「好きな子には優しくしなきゃだろ」

「万摘のそういうところ、私は好きだよ」

「そういうのいいんで」

 好きだからこそ、虐める。烏森が言うとやけにしっくり来てしまう。

「んー、じゃあ、イケメン先生のこと好きな子が犯人ってことか?」

「石膏像に何かしらを仕込む技術を持つ者でもあるね」

「そんなんいるかよ……」

「これだけ生徒数も多いんだ。ひとりずつ当たれば見つかるかもね?」

「うげ……」

 烏森の冗談はさておき、あの不可解なマルス像については気になることが多すぎる。

 俺の憩いの二美での怪奇現象。何の謎も解けぬまま、その日はモヤモヤとした思いを抱えて帰路についた。

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