トワイライト・スクール

高城 真言

第1話 黄砂の園 上


 黄ばんだ土のようだ。

 初めてそのキャンパスを見た時、俺はそんな陳腐な感想を抱いた。風情も何も無い、ぼんやりと、ただ思った。

 いつもは軽口ばかりの父が、その黄土のキャンパスと睨み合っている時だけは、夏の光を受けたように輝いていた。

 だから――なんて言うとオヤジを調子に乗らせてしまうが――、俺はこの筆を取ろうと思った。そうなんだろうと思う。



 春の風は好きじゃあない。

 やけに賑やかしく清らかを歌っていて、心を踊らせないことが悪だ、とでも言うかのような。そんな図々しい風潮が煩わしく感じるし、そんな風に当てられて浮き足立っている連中はもっと煩わしい。ただでさえ俺たちは多感な年代と言われる。その多感さを助長させ、他人の垣根を悠々と越えてくるのが、この時期なのだ。

「なあなあ――」

 ここにもそんな男が一人。

「オレ、浅間!浅間万摘あさままつみ!隣になったのも何かの縁だ!これからよろしくな!」

 高校二年、始業式。それだけで気怠いというのに。浅間という男に俺の生活が揺るがされることになるとは、この時には思ってもみなかった。



「神田ァ―――!」

 廊下から耳をつんざく大音量。ヘッドホンすらも突き抜けるこの声は、件の浅間、その人だ。朝から元気すぎて煩わしい。敢えて言うことでもないが、俺は目立たない人間ではない。父はフランスと日本の、母はオランダと日本の、それぞれハーフであり、俺はさらにそのハーフ。遠目からでも目を引くだろう金色の髪は地毛だ。これのせいか、教師陣からは目を置かれている。それは遠くから俺を見つけ、

「お、塩谷ちゃん今日もかわいーね!」

 などと律儀に道行く女生徒に声を掛けながらも両腕を振る、あの騒がしい男も似たようなもので――

「って神田ァ!聞こえてんだろうが!無視すんなってのッ!」

 いつものことだ。するりと横を抜けて教室へと入れば、浅間越しに息を切らし走る教師の姿が見えた。確か、美容科の子安だ。

「今朝さ、『めざめのテレビ』でミレー特集があったんだよ!いよいよ神田に描いてほしいタイトルが思い浮かんじまったんだなあ、オレ!」

「……前から言ってるが、俺はお前の依頼を聞く気はねえぞ」

 ツンと返してやっても、浅間のこれみよがしに輝く笑顔はそのままで。背後の子安には一切気づいていないようだ。

「そう言うなって!神田は美術コースの天才じゃん!俺はお前に、現代のミレーになってほしい!」

「そこはダ・ヴィンチとかじゃねえのかよ」

「ミレーをバカにすんなよ!」

「してねえよ」

 この男はミレー信者だ。ジャン=フランソワ・ミレー。19世紀頃の写実主義の画家だ。俺が美術コースだと知った途端、ミレーへの愛を熱弁してきた。今日も今日とてミレーの名を出したということは、おそらく周りが見えていない。ほら、そろそろ来るぞ――

「ミレーよりもまずキミは、マナーを学ぶべきよねぇ、浅間くん?」

「ひょッ!」

 ねっとりとした、見ているだけでも不愉快に思う低音が浅間の肩越しにまとわりつく。美容科教諭の子安朔也こやすさくや。美を追求するこいつは、口調はこうだがれっきとした男だ。

「こここ、コヤセン……!そのべったりしてくんのやめろってェ!」

「あら、だったら今すぐにワインディングの実技計画、出してくれるのよねぇ?」

「ヴッ…… き、今日は家に忘れて」

「先週もそう言ってたわよ。今日は帰してあ・げ・な・い」

「ヒィイ……!」

 これもいつもの光景だ。課題を放棄し教師にドヤされ、それをわざわざ俺の目の前で繰り広げる。ため息をひとつ、連中を交わして席へ向かえば、浅間の伸ばす手が横目に見えた。


 この高校は変わっている、と言われる。何を隠そう、全校生徒数は千五百人を超えるマンモス校だ。一学年が12クラスあることにも驚かれるが、それだけではない。

 通常、高校といえば普通科か理数科などがあるかもしれない。しかしこの高校――県立雑色ぞうしき高等学校は、普通科というものは存在しない。

 かく言う俺は芸術科だ。絵画や工芸、その名の通り芸術全般を専攻する生徒が属する。俺は芸術科の中でも、美術コースということになる。

 今日も煩いミレー信者は美容科だ。子安が言っていたワインディングとやらも、美容科特有のカリキュラムのひとつであり、確かサロンワークに必要な技能……だとか言っていた気がする。

 他にも、教育科、芸能科とあり、大きく分けて四つの学科があるわけだが、その中で細かくコース分けされている。

 ともかく、芸術科や教育科ならばまだしも、美容科や芸能科は普通高校にはないだろう。あくまでもここは県立の高等学校であり、高等専門学校ではない。細かく見れば毛色が異なる。創立十五年のまだまだ若い学校だが、他県からもここを目当てに移り住んでくる者もいるほどに、人気を博しているのは、なんとなく察しがつくだろう。

 そんな特徴から、雑色高校という名前を文字って「色物高校いろもの」などと呼ばれることも多い。――浅間を見ていれば、色物だと呼ばれることにも頷けるが、あれと一緒にされるのは不愉快だ。非常に。

「――んで、朝の続きだけど」

 多様な科に属する生徒だが、クラスは学科毎に分かれていない。学科毎に全く違うカリキュラムで動いているが、朝のホームルームだけは他学科とも顔を合わせることになる。朝だけ、のはずだった。だというのに、無作為に振り分けられたクラスのおかげで、俺はこいつと知り合ってしまった。そのせいで昼休みにもこいつは俺を探しに芸術棟まで押し掛けて来る。俺は静かに、絵だけを描いていたいというのに。

「オレが神田に依頼する絵画、題して――『夢蒔く人』!」

「それを言うなら『種まく人』だろ」

「さっすが美術コース!すぐピンと来たか!」

「誰かさんが毎日ミレーミレー言うおかげでな」

「誰そいつ、友達になりてェ」

「お前だ、バカミソ」

 バカな脳ミソ、略してバカミソ。本気で首を傾げているものだから救いようが無い。この食パンよりもカスカスの脳ミソな男だ。

「――今日は何描いてんだ?」

「見りゃわかんだろ」

「説明してほしーんだろうが!」

「うるせえ。耳元で騒ぐな」

 午前中の課題は木炭デッサンだった。炭でキャンパスを汚し、パンくずで滲ませる。中央に置かれた石膏像を睨みつけながら、何度も繰り返し。本来ならば授業内で終わったものを、どうにも納得がいかず、担当教師に頼み込んで教室を貸し切っていた。無彩色は苦手だ。陰影を学ぶ基本ではあるが、ただキャンパスを炭で染めるのは、黄ばんだ土を思い出す。

「こいつ、何て名前だっけ」

 いつの間にか石膏像の隣に並び、胸像と同じ表情を作るバカミソ。どんだけ人の邪魔をすれば気が済むのか。すると、背後でシャッター音が聞こえた。

「マルスだよ。ボルゲーゼのマルス」

「げ――」

 確かに女の声だった。しかし、マルス像の隣で、浅間の表情が怪訝に動く。女の声に、浅間が顔を顰めるなどとは珍しい。俺の背後で女は息を吐き出し、隣に腰掛けてきた。その手にはカメラ。この女は芸術科写真コースの、烏森梅からすもりうめという。

「万摘、また神田くんに絡んでるの? 懲りないね」

「オレの夢には神田が絶対的に必要なんだよ。梅には関係ねーっしょ」

「他の子に被害が及ばないか、心配をしてあげてるんだよ。元カノとして、ね」

 というわけだ。黒い長髪を大袈裟に掻き上げ、浅間を弄ぶようにも見える。こいつからの被害とは、俺よりも女生徒を案ずるべきだろう。

「おま、そういうの、神田の前で」

「何か問題が?」

「……ないデス」

 この女は浅間の天敵だ。写真コースの烏森といえば、芸術科のきみとも呼ばれる。そう比喩されるほどに、品行方正、そして容姿端麗。その上品な振る舞いと堂々たる言動もあって、男子のみならず一部の女子からも異様な人気を勝ち取っている。いつの時代の女学校かと思うが、そんな女がこの女好き女たらしのバカミソの元彼女だというのだから、やはりこの高校は変わっている。

 烏森が来たならば俺に構うこともなくなるだろう。首に掛けたままだったヘッドホンを装着すれば、二人の口喧嘩を遮断する。選曲はいつも決まってゴールデン・イヤリングのトワイライト・ゾーン。俺にとってはこいつらと同じ部屋で絵を描いている、この空間こそがトワイライトゾーンだ。


 ――と、遮断も束の間。ゴールデン・イヤリングのミドルボイスを搔き消すように、浅間の金切り声がヘッドホンを貫いてきた。

「うるせえ……」

「いやだってよ神田ァ!今の聞いてたか、ありえねーって!オレもうマルスに触れねェ……」

「なんの話だよ」

 聞く気はなかったが、マルスを離れ俺の腕にまとわりつくバカミソを制していれば、芸術科の君と目が合ってしまった。

「神田くんが困ってそうだったからね? ちょっと芸術棟にまつわる不可思議現象の話をしてあげたんだ。怖くなって万摘が来なくなるかもしれないでしょう?」

「この腹黒…… オレがそんなもん如きで神田を離れるわけねーだろ!」

「きもちわる」

「神田ァ――!」

 これ以上まとわりつかれるのも迷惑だ。烏森も決して俺の味方ではない。「神田くんが困ってそうだから」などと言いながら、それを口実に浅間を弄って楽しんでいるのだ。余計に俺を巻き込んでくれるのだからタチが悪い。ほとんど涙目に、浅間の顔が近づく。

「なあ、神田は知ってたか? このマルス、喋るって」

 耳打ちに睨みつけてやろうかと思ったが、あまりに間抜けな言葉に

「は?」

 こちらも間抜けな声が零れてしまった。

「いや、だから、こいつ、喋るんだって。もしかして神田もこいつと喋ったことあるとか……?」

「バカミソ」

 呆れてそれしか言えない。石像が喋るなど、子どもだって信じやしないだろう。

「今時七不思議なんて、流行りもしねえだろ」

「七不思議も魅力的だね。けど残念、これは実話なんだよね」

 言って烏森はカバンからフィルムを取り出す。現像前の、薄茶のそれだ。それを光に透かせば、俺たちに見せつけるようにして

「ここ、わかる? この美術室の様子だ。同じ時間に連続で撮られたフィルムなんだけど、不思議でね」

 連続する映像は、一見すると変わり映えのない情景だ。美術室の中にポツンと置かれた石膏像。今日のように、誰かが石膏デッサンをしていたのだろう。夕暮れ時なのか、西日を受けて細長い影が伸びている。手前のキャンパスはマルスの顔だけが描き終えられていた。

「普通に、美術室の写真に見えっけど……」

 バカミソは言うが、目を凝らせばわかる。俺はそれを突き返した。

「影のせいだろ」

「へえ。孤高の天才画家様も、オカルトものには恐怖するんだね」

 睨みつけてやっても、烏森はにやにやとした笑みを浮かべて。からかい相手が未だに首を傾げているものだから、ターゲットを俺にシフトしたのか。

「影?うーん、何が違うのかわからん……」

「よく見なよ。マルスの口元」

「口……うーむ……え?口、え、ええ!何これ、なんで!え!」

 騒がしい。もう俺は理解しているというのに、バカミソはこちらへそれを突き付ける。

「これ!1枚目と3枚目はこのマルスみたいに口結んでんのに、2枚目と4枚目、口空いてねェ?なんで!え?」

「わかった。わかったから、近えよ」

 浅間の言うように、フィルムに映るそれは、ノミほどに小さいが僅かに口の形が違うことがわかった。しかし、これを撮影したであろう時間とその影から、浮かび上がる陰影を利用したイタズラだろう。俺はそう思う。にやにやと笑う女は、そうは思わせたくないようだが。

「影のせいっていうのもね、私もそう思ったよ。けど、2枚目と4枚目の口の形。明らかに大きさが違うでしょう? 連続してシャッターを切られているのに、影の大きさが一瞬で変わるものだろうか」

 確かに、と思わず頷き掛ける。はっきりと震え上がった浅間はフィルムを女の手に握らせ、なむあむだ、と拝み始めた。

「これ、誰が撮ったんだ?撮った奴は無事なのかよ?」

「万摘は想像力豊かだね…… 残念ながら無事だよ。何事も無く。撮ったのは、写真コースの霧島先生」

「あのイケメン先生か」

 霧島陵きりしまりょう。今年度からの新任教師だ。学科やコースが違えば顔も覚えられない我が校だが、霧島は顔が良いらしく、女子生徒から人気が高い。浅間が顔を顰めるのは醜い嫉妬心だ。

「おい神田。今失礼なこと考えたろ」

 霧島を慕う生徒は多いが、烏森はそうでもないのだろう。無表情に自前のカメラを弄り続けている。

「ただ、この写真を撮ったのは先週らしいんだけどね。それ以来、毎日同じ時間に足が向かうんだって」

「え?」

「そのつもりはないのに、気づくとここでマルスを見つめてるって。何かに取り憑かれたかのように。マルスに恋でもしたのかな」

「え、えぇえええ!なんだよそれ!普通に怖ェじゃん!」

「今日も来るかもね、霧島センセ」

 フィルムをケースにしまい、烏森はまた卑しく笑みを浮かべた。そのまま立ち上がれば、最後までこちらを見てにやけながら去っていく。あの女は何がしたいんだ。それと入れ違いに、子安が駆け込んでくる。またこいつは実技レポートをサボったのか。震え上がる浅間に呆れていれば、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響いた。


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