リンドバーグ翼の日


 ~ 五月二十一日(木) リンドバーグ翼の日 ~


 ※坎井之蛙かんせいのあ

  井の中の蛙、大海を知らず



 昨日立たされた件の反省文って。

 試験中だってのにお構いなしかよ。

 なんだあの石頭。


 しかも書きながら文句言ったら。

 原稿用紙がわんこそば方式。


 『以上です。』って。

 何回書いてもお代わり寄こすから。


 『この人異常です。』って言葉で結んだら画用紙渡されて。

 水彩絵の具で反省文の表紙書かされた。


 しかも製本までさせられるとは。


「まさか薄い本デビューすることになるとは思わなかったぜ……」


 限定一冊。

 現品限り。


 著者の許可なく転載しないで下さい。



 ――ようやく苦行から解放された頃には。

 空が赤くなり始めて。


 カバンを取りに戻る道すがら。

 静かな廊下から時折視界に入るのは。


 赤茶けて、八ミリ映画のような色合いに染められた誰もいない教室。



 そりゃそうだよな。

 テスト明けに、こんな時間まで残ってるやつなんかいやしねえ。


 とっととカバン持って帰ろう。

 そう思いながら扉を開くと。



「…………まさか、待ってた、とか?」

「と、友達だから……、ね?」



 飴色の髪に栗色の瞳。

 夕暮れの風景に溶け込むような色彩で描かれた美女。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 その、鈴のような美声が。

 何度も何度も。

 耳の中で繰り返される。



 『友達だから』



 ……うれしいな。


 中学の頃は。

 そんなこと言ってくれるやつはいなかった。


 いや、中学受験を控えた五年生の頃から。

 ずっと、ずっと待ちわびていた。


 俺の友達。


 そんな彼女が。

 おそらく、暗くなって読みづらかったんだろう。


 机の上、文章に指を添わせたままの姿勢で。


 優しく。

 俺に微笑んでくれた。



 ………………。



 舞浜。



 聞いて欲しいことがあるんだ。



 今。

 自然と胸から湧きあがったこの言葉。


 おそらく、一生に一度しか口にしないであろう言葉。



 飾ることなく。

 偽ることなく。



 俺は、心の命ずるままに。



 お前に。

 この言葉を伝えようと思う。




「……こういう時は、文庫本かハードカバーの二択」




 なにそのコピー用紙の山。

 それ読んでたの?


 しかも何語で書いてあんだかわかりゃしねえ。


「すげえな、読めんの? なにそれ?」

「り、量子力学の専門書……」

「すげえな読めんの!? え? なにそれ!?」


 ……極端に頭が良くて。

 極端に変なやつ。


 その認識を裏付けるどころか。

 さらに加速させるこの光景。


 坎井之蛙かんせいのあって言葉が似合う程常識知らずなくせに。

 井戸の中だけとは言えそこまで知識を極めれば誰もがひれ伏すっての。



 俺が目を丸くさせてるとも知らねえこいつは。

 帰る準備のつもりだろう。

 専門書とやらをでかい茶封筒にしまい始める。


 そんな机の上に、一枚だけ。

 俺にも理解できる物理の専門書。


 おとといの、物理の答案用紙。

 もう返って来たんだ。


 ……しかし。


 当然というか、呆れたというか。

 百点ね。


 舞浜、ひょっとして俺より頭いい?



 俺の視線に気付いたせいかどうなのか。


 舞浜は答案を半分に折って鞄にしまうと。


「保坂君、の。預かってた……」


 几帳面に四つ折りにされた。

 俺の答案用紙を手渡してくれた。



 ……これ。

 見るの怖えな。


 友達って。

 女子って。


 男子が自分より成績悪かったら。

 どう思うんだろ。


 今まで友達いなかったからな。

 その辺の塩梅が分からねえ。


 でも、物理の試験は自信ある。

 立たされたままだったとは言え。

 全問正答してるはず。


 舞浜がわざと視線を外してくれてることを感じつつ。

 四つ折りの一片だけを。

 ペラリとめくると。



 げ。



 98点。



 どこを間違えたのやら。

 もう少しだけ広げて確認すると。


 あちゃあ、イージーミス。

 漢字間違いで減点とか。


「……どう、だった?」

「うおっ!? ……か、完璧だったけど?」

「ほんと? 凄い、ね」


 満点さんが。

 凄いって。


 嫌味か。


 ……なんて、一瞬思ったが。

 いつもの仮面じゃねえ。


 こいつは、本気で俺を褒めてるようだ。


 おいおい、これ。



 バレる訳にいかなくなったんじゃね?



 でも、慌ててこいつをしまうと怪しまれる。

 平静を装わねえと。


 自然に、自然に。


 俺は椅子に腰かけて。

 答案を机の上に置いて、折れ目に沿って指を擦らせた。


「……テスト、結構難しかったよ、ね?」

「いや? ぜんぜん? 三十分で終わったし。立って受けたし」

「そうだった、ね。……ほんと。すごい」


 くぁ……っ!


 こいつ、目ぇキラキラさせて。

 俺のこと見てやがるが。


 二人っきりの教室とか。

 夕日に照らされていつもより二割増しでこいつが綺麗とか。


 その上、バレちゃいけねえ爆弾抱えてるとか!


 緊張して頭が上手く回らねえ。

 なんだか、ウソに尾ひれ付け始めてる気がするが。


 手の動きはどうだ?

 不自然か?

 無意識のうちに、パタパタ答案を折りたたんでる気がするけど……。


「勉強、できるんだ、ね?」

「ま、まあな」

「良かった……。分からない所があったら、頼って、いい?」

「お、おお。いくらでも聞いてくれ。もう教科書の範囲は完璧だから」

「……全教科?」

「あ、あたりめえだろそれくらい」


 ちょっと、どうしよう。


 そろそろ後戻りできねえとこに足を踏み入れてる気がする。


 他の話題に誘導してえのに。

 思考が空回りして。

 どうしたらいいのか分かんねえ中。


 手だけが落ち着きなく。

 テスト用紙をパタパタ折り続ける。


 ……ん?

 折ってる?


「うわっ!? なんかできとる!」


 これは、小さい頃、飽きるほど折った。

 長時間飛行するタイプの折り紙飛行機。


 折り方なんて、とうに忘れちまって。

 あやふやだったはずなのに。


「……それ、飛ばす、の?」

「お、おお。今日は、リンドバーグ翼の日だから」

「へえ。……私が、尊敬してる人」

「リンドバーグ?」

「うん」


 体験学習とか。

 物理とか化学とか。


 そんなもんが好きな舞浜らしい。


 でも、俺にとっちゃ。

 文学的に好きな偉人だったりする。



 ……まてよ?

 これ、勉強ができるところを見せるいいチャンスなんじゃねえか?


 よし。


 いつも澄ましたその態度。

 なんだか機械みてえなその心を。



 尊敬の念ってやつに変えてやるぜ!



「……本物の自由は、文明の中ではなく自然の中にある」

「…………それ、リンドバーグの、言葉?」

「そう」

「へえ……!」


 よしよし。

 舞浜のやつ、目ぇ見開いて。

 感心してやがる。


「ほ、他には、どんなのがある、の?」

「我々は、キリストの、老師の、ブッダの教えからそれぞれ学ばねばならない」

「うん。……いい言葉、ね」

「そうだな」

「……ねえ、飛行機、飛ばして?」


 なんだよ。

 可愛いこと言い出したな。


 まあ、リンドバーグの話して。

 紙飛行機見たら。

 そんな気分になんのも分かる。


 多分、室内なら。

 綺麗に手元に戻ってくるはずだ。


「よし、じゃあ行くぞ!」

「……うん」


 右に六十度ちょい傾けたサイドスロー。

 勢いよく振った手から飛び出した飛行機は。


 教室一杯、ぐるりと旋回して。

 単独無着陸飛行。


 そして今、俺の手元に。


「ごひん!」


 ……帰投せず。


「うわ! わりい!」


 お隣りさんの。

 おでこを直撃。


 さらに、のけぞった舞浜の。

 丘陵地帯へ軟着陸。


「翼よ! それがパリの灯か!?」


 しまった、俺のバカバカバカ。

 ついおもしれえこと思い付いて。

 反射的に叫んじまった。


 さすがにニュアンスが伝わったか。

 こいつ、珍しく。

 ぷくっと頬を膨らませてやがる。


 ……でも。


 そんなふくれっ面が、急に素の表情。

 どういうことかと視線を追えば。


 舞浜のパリに着陸した俺の飛行機。

 その翼にくっきり書かれた機体ナンバー。



 『98』



「どあああああああっ!」

「……あれ?」

「そ、その、それはだな、あの……!」


 うわあ、万事休す!

 こうなっちまったら下手な言いわけしたってしょうがねえ。


 どう思われるかなんてわからんが。

 ここは素直に頭を下げよう。


「す、すまん! 調子に乗ってウソついた! これで完璧とか……」

「え? ……完璧、が、ウソ?」

「ああ、お前が百点だったから、つい見栄張っちまった」

「別にそんなの、謝らなくても……」

「いいや、お前にウソついたんだ。小さなプライドにしがみついてひでえことしちまった」


 心底情けねえ。

 さすがに呆れられるだろ。


 怖くて顔も見れないまま。

 頭を下げてたら。



 くすくすと。


 鈴の鳴るような笑い声がして。


 そして。


「…………悲しんでいるあなたを慰めたい」


 格言じみた言葉を吐いた舞浜が。

 柔らかい笑顔で俺を許してくれた。



「……悪かった」

「うん」

「でも俺、こういう下らねえ事、これからもやっちまうと思うんだ」

「うん。……じゃあ、その時は怒ることにする、ね?」

「……そいつぁ、いい友達持ったもんだ」


 俺の返事が嬉しかったのか。

 こいつは仮面を脱いだ笑顔でスカートを翻して。


「じゃあ、帰ろ?」


 俺の紙飛行機を手に。

 頭の上へ浮かべながら。


 赤い空へと。

 今、飛び立った。





「……さっきの、リンドバーグの言葉?」

「ううん? リンドウの花言葉」

「うはははははははははははは!!! ダジャレか!」


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