エピソード1・ふつうじゃつまらないっ!
「へえ、さくらこって、おもしれー」
「二年生のときに、賞をとったの」
「さくらこ、こういうの、また書く?」
「まあ……」
思いのほか陰鬱になった声に、私は視線を伏せた。
「すっげえな。将来、作家になれよ」
「……」
ヤダよ。
才能がある人間なんか、いっぱいいるでしょ。
結果が見えているのに、きつい努力をしなきゃならない理由が見つからない。
――私は、無邪気に作文などできる状況になかった。
「お父さんが帰ってくるの。ごめんね、はるたくん、帰って!!!」
私は焦って、春太をせかした。
「えー、オレ、家に一人だからなあ。それより、まだまださくらこと遊びたい」
春太の家は共働きだ。そのかわりといっちゃなんだけど、いいお家に住んでいる。ご両親が優しいせいか、内面もダバダバの甘ちゃんだ。
事情はうちも同じ。ただ、父親はこのごろ、帰りが早くなっていた。
――と言っても、定時で帰ってくるようになっただけだけれど。
このごろ、なんだかうきうきして帰ってくるのだ。
仕事よりも、気に入った趣味ができたから、らしい。
「ごめん! もうくらいし、帰って!!!」
追いたてるように言ってしまうと、春太はしぶしぶ帰り支度を始めた。
「おくっていくね!」
「いいよ、くらいし」
「だから!」
「だめだって。オレが帰ったあと、さくらこ、暗い道を一人でもどるんじゃないか。だめだよ」
背中越しに言われて、私はまた黙る。
――実は、暗いのも一人になるのも、かなり嫌だったのだけれど、それよりも、父親を春太に会わせたくなかった。こわい人だからだ。
私は、唯一の友達である春太を、傷つけられたくなかった。
「じゃ、またね……」
「うん……じゃーな!!!」
なんだかやたらとハキハキとした声で、春太は肩をいからせながら、帰っていった。
私は、床の間に飾ってある、かけじくを見た。
父の会社の「いあんかい」で、連れていってもらったアスレチックの思い出だった。
がちゃがちゃ動く、虹色に塗装された木製のつり橋におびえていたら、母親がこう言って励ましてくれたのだ。
――大丈夫。虹を渡れば……。
他の子どもたちが、つり橋をゆらしてどかどか渡る中、私は意を決して飛びこんだ。
向こう側にいる、母親の元へと、虹を渡ったのだ――。
そのときのことを書いて、町内会のコンテストにはがきで出したら、思いのほか好評で、父親はそれをずいぶんと喜んだ上、賞状を飾ったほか、習字の腕を発揮して注文し、かけじくにまでしてしまった。
――だいじょうぶ、にじをわたれば、とどくから。
押してある赤い印は、父親のものだった。
――季節は晩春。
私と春太、十四歳のとき、とある古文の授業があった。
そこで、クラスの生徒たちは、どんな形でもよいので
みんな、野生の獣のように、ちりぢりに飛んでったっけ。
公園のベンチから、桜餅みたいな八重桜が、若葉と一緒にゆらめいているのが見えた。
この授業は無理に季語など入れず、観察と客観的視点から文を組み立てる、という簡単なものだった。
しかし、私は精いっぱいの背伸びで、確信こめて一つの詩を詠んだ。
詠んだ……のだが。
「よう、桜子。まじめにやってたのな」
中学へ入っても、一年、二年と同級生であった春太が、後ろからのぞいてきた。
「なになに? 『立ちて見る、八重の葉桜咲きほこる、はるかな峰の花がすみかな』? なんじゃこら」
「ちょっとね……」
「んー、ちっと貸して。いい?」
私がノートを差し出すと……。
――花がすみ、野に咲く花を持つ君と、なみに見えるよ八重桜。
「なにそれ、普通すぎてつまんない」
「つまんないのは、桜子だろー。なんで花がすみごときが峰なんだよ、さきっぽとがってんの」
「もののたとえですぅ」
頬をふくらませて、ぶーたれると、春太は訳知り顔になってため息をついた。
「……
春太が突然言い出したが、私は動じなかった。
それが、このごろとみに忙しくなった母親だったらと思うと、寒気がするが。
――春太とはツーカーだったから。
「誰にも言わないでよ。今のままじゃ無理だし」
「まあ、まだ一年以上あるじゃん」
一年やそこらでどうにかなるレベルだったら、よかったんだけれど。
――私は努めて、マイナスな発言を控えた。
「それでも、私には唯一の希望なの」
「ふーん。落ちたらオレと一緒の高校いこうぜ!」
「は!? 話、聞いてます!? ねえっ」
「聞いてる、聞いてる」
全然聞いてないよ。
花霞っていいイメージがある。花に霞だ。春が来た――って感じする。だから、実は小学生の頃から、憧れていたんだ。
だけど、自分なんかがそれを口にしたら、ぜったいに笑われる。先生だって反対するだろうと思った。
遅刻、物忘れ、注意力散漫。救いようがない要素が他にもたくさん。
「おまえは、詩で推薦がとれたらいいのにな」
「それはムリ」
そのとき春太が、土手の方からヒメジョオンを抜いてきて、私にぽんと手渡した。
「ビンボー草……」
なんじゃこら。
笑ってしまった。
「野に咲く花を持つ君と~~、なみに見えるよ八重桜~~」
春太は片目をつぶって、おちゃらけた。
「やってらんない」
それから、余った時間をくっちゃべってすごし、少しずつ生徒もいなくなってきたので、急いで教室に戻った。
部活の帰りに、いつも通り公園のベンチに座ってぼーっとしていると、頭上で木立が騒いだ。
「桜子、おまえ、何になりたいんだ?」
――そこへ来たのは偶然なのだろうか。
担任の秋田先生はそんなことを聞いてきた。
くちゃくちゃの髪の毛をした、眼鏡の先生が、物思うように眉を寄せ、連なる桜並木の暗い輝きに目をやった。
私はすぐには答えなかった。
無駄なのだ。中学校の一教員に、私の人生のなにがわかる。
――そう思っていた。少なくとも、そのときは。
「今年は、三者面談があるんだぞ。どうするんだ」
「べつに」
「べつにってなんだ」
「私は行けるところに行きますよ。先生だってそれで満足でしょ。たとえ、どこへ行こうと、親だって期待してないだろうし」
――ちなみに、私は絶賛、反抗期中だった。
「それでいいのか、おまえ」
「はい」
そう答えながら、私も散っていく八重の葉桜を見た。
もう今更、飛び出た言葉は取り返しがつかない。
進めるべき駒を、一つずつ間違えていって、そして……致命的に詰んでしまう手だった。
降り注ぐ、
きまぐれな風に、巻き上げられながらも、散り急ぐ、儚い夢。
桜よさくら、私はおまえにはならない。
心のむなしさ押し込めて、一人胸を張る。
どこにいても、なにを見ても、心動かされることのないように。
桜、さくら、散りゆく花。
おまえは、哀しいからこそ、美しい。
ぐっと息をのんでいた。
私が何に耐えていたとしても、何にむなしさを覚えていたとしても、決して降りやむことのない雨。
むなしい。
むなしい。
何を見ても、何を見せられても。
「どうやら、先生は信用されてないようだなあ」
わずか、目の前の景色がブレた。
私の気持ちを、考えてくれるのか――この人は? と。
公園の隅っこに、集まってしゃがみこんでいる一団が見え、それはうちの学校の制服だった。
見覚えのある笑顔が、こちらへ手を振ってよこす。春太だった。
「そんなんじゃ、おまえ。桜子、あんなやつらと同じになるぞ」
秋田先生の断ち切るようなその言葉は、私の中の一瞬の迷いを後悔に変えた。
――あそこにいるのは、ほとんどが保育園からの幼馴染。多くはシングル家庭の子たち。そこに春太もまじっている。
私だって彼らと育ちは同じなのに、仲間ごっこのできない自分がいやだった。傷のなめ合いすらできない臆病さが、本当にいやだった。
うちは両親がそろって、機能不全。
対外的には親子関係が成立しているが、実質的にいないのと同じだった。
――まるで死んだような家庭。
たとえば、朝目覚めれば、冷えたご飯が電子ジャーに入っていればましだったし、味噌をお湯で溶かすだけの味噌汁をありがたくいただく。
それでも、学校へ行けば、健全と言われる生徒にまじり、部活に打ちこんできた。それこそ必死で、頭を空っぽにして。
でも、帰っても家にはだれもいない。
暗くて、ぐちゃぐちゃのままの、広い居間に一人立つ思いは……。
だから、私は夜になるまで公園のベンチで時間をつぶすのだった。
実際、学校の関係者に見つかるのは、まれなことで。
――私、担任につきまとわれてる?
そう感じたのは気のせいか。いや気のせいだろう。でなければ、こんな不用意な言葉を聞かせられたはずはない。
隣にまで来て、「何になりたい」などと尋ねる奇矯なお方が、私の幼馴染たちを「あんな」「やつら」と言った。人品を差別する言葉だ。
胸の底からわきおこる不快感に、思わず声が低くなった。
「私も彼らと変わりませんよ」
「そうは思わないな。先生は――」
同じだよ。
ふざけんな。
どうして区別するんだ、どうしてわかりもしない内面を、よってわけて、違うと言えるんだ。
先生は味方じゃない。私に味方なんていない――。
――あるいは偶然だったかもしれない、不意の出会いが、私の心をどす黒くした。
桜ふるふる、雨のよに。
さくら、ふるふれ、ながめせしまに。
「私はセンセーの恋人じゃありませんから。フラれたからって、未練たっぷりで、有名ですよ」
「桜子っ。おまえー」
私は後も見ずに、雨の中を走り抜けた。
ピンクのトンネルが、花びらが、私の足音をかき消していくようだった。
どうせ、どうせ私の気持ちなんか――だれにも、だれにも!
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