7
「それ」は夏祭りへ行ってから、一週間後に起きた。
時間は夜の二十一時過ぎだった。私は近所の書店から歩いて帰宅するところだった。
道の人通りは少なく、たまに自転車とすれ違うくらいだった。私は音楽を聴いていて、さっきまで立ち読みしていた本を買おうかどうか考えながら歩いていた。そのとき、うしろから呼び止められた。振り返ると、今通り過ぎた向かいの歩道に白い車が停まっていて、その運転席の窓から男が呼びかけていたのだ。私は引き返し、車の運転席にいる男を見た。
男は眼鏡を掛けていて、スポーツ刈りだった。白いポロシャツを着ている。さわやかな印象を与えたが、その一方で人をはねつけるような冷たさもあった。
「ちょっと人手足りなくてさ。アルバイトなんだけど、よかったら助けてくれない?」
「それはちょっと……」
すみません、と私は断る。道を尋ねられたのか、と思ったが、怪しい勧誘にすぎないと判断し、私はすぐにその場から立ち去ろうとする。そんなものに参加できるわけがない。しかし男は、ガコン、と車のドアを開けて、車から降りてきた。私は走ってその場を去ろうとしたが、なぜか素早く走ることが出来ない。二本しかない脚が絡まってしまったように感じた。男と私、という構図に冷静さを欠いてしまったのだ。
男は私の前に立ち塞がり、つかみかかってきた。すぐにTシャツの中に手が入ってくる。男の手の平がカップ付タンクトップをムリに伸ばし、その下にある胸を乱暴に揉んだ。痛い、と思う。男の指が私の皮と骨をえぐり、肉を削ごうとしていた。
私は知らない駐車場の隅に引き倒され、体重を掛けられる。そのとき背中と後頭部にごつごつとしたアスファルトを感じた。まさかこんなところで、と思ったが、犯人に前髪を掴んで引っ張られ、こう言われた。
「おい、歩け。車に乗れ」
それを聞いたとき、私の中に湧いた感情は、恐怖や悲しみではなく、怒りだった。誰がお前のいうことなんか聞くもんか、という幼稚な怒り。私は湧き上がる怒りのままに犯人の腕に噛みついた。しかしワイシャツ越しだったからあまり男にダメージを与えられた気がせず、股間を蹴り上げようと足を大きく振り上げた。しかし、それは空振りに終わった。
「おい!」
男が住宅街であることを気にして、音量を抑えた声で私を脅す。そして私を黙らせようと首を絞めてきた。それは圧倒的な力で、あっという間に私は息が出来なくなる。
私の脳裏に浮かんだのは、レイプされて殺された、女子大生だった。
全裸に剥かれて、首を落とされた女子大生の死体。
それは野山に打ち棄てられていた。
男は私の耳元で囁く。
「大人しくしていれば殺さない」
それを聞いて、抵抗をやめた私に何を思ったのか、男は無理矢理接吻をしてきた。私は不気味なほど柔らかい男の唇と、ねばついて甘い味がする男の唾液が気持ちが悪く、えずきそうになった。入ってきた舌を噛み切ってやろうかとも思ったが、舌は分厚く、生温く、私の歯のあいだでぬるぬると滑り歯を立てることができなかった。男は私が了承したと判断したのか、再び髪を引っ張り、立ち上がらせ、車の中に乗せようとした。
私は車に乗せられたら終わりだ、と、足を空中へ向けて何度も蹴り上げた。うまくしたら男の股間に当たることを祈って。途中でサンダルがすっぽ抜けて、どこか遠くへ飛んでいった。私は裸足になり、軽くなった右足で男の股間をスラックス越しに触る。そこに堅くなった、おそらくペニスだろうと思われる物があった。強く蹴り上げることはできなかったが、デリケートな場所に触れたため、男が尻ごみをしたのが伝わり、私は好機と暴れて男の下から転がり出る。
私は腕で飲み込みたくなかった唾液を拭き、たまたま尻ポケットに入れていたスマートフォンを掴みとって、電話を掛けた。
私は男に向かって叫ぶ。
「私今、電話掛けてる!」
男は暗闇の中で、大きな黒い塊になってこちらの様子をうかがっているように見えた。私は山のなかでクマに対峙したときのように、背中を向けて逃げず、男から目線を離さずに叫び続けた。
「警察に電話掛けた! 警察に電話掛けた! 警察に電話掛けた!」
私は叫び続ける。ケイサツニデンワカケタ! ケイサツニデンワカケタ! ケイサツニデンワカケタ! ケイサツニデンワカケタ!
私はとっさに「110」という簡単な数字が思いつかず、着信履歴のうち、一番上に出てきた、あけるに電話をかけた。「誰かに助けを求めている」ということが男に分かりさえすれば、誰でも良かった。とにかく男に、「誰かがここへくる」ということを伝えなければいけない。電話がつながるまでがじれったく思えて、私はでまかせに架空の会話を始める。
「警察ですかアッ」
電話の向こうは、まだ着信音がなっている。私は犯人に聞こえるように、大きな声を出した。
「警察ですかアッ? 助けてください!」
男は歩いて私のほうへ向かってくる。私の電話が虚偽であることを見抜いているかもしれないが、私は電話口へ向かって叫び続ける。
「レイプされそうなんですよ、レイプされる、早く!」
『もしもし?』
あけるがやっと電話に出る。私は犯人から目を離すことができず、少しずつ後ずさりながら電話口に向かって叫び続けた。あけるが電話口の向こうで困惑している様子が聞こえたが、私は警察に電話していると思わせるため、繰り返し大きな声で叫び続けた。
「早く来てください!」
『どうしたの? もしもし?』
「助けて! 場所は西区です。学校の近くです。早く!」
私は電話から口を離し、男に諦めるよう呼びかけた。
「警察が来る! やめたほうがいい、すぐに人が来る。すぐに人が来るよ」
私の言葉で進退を決めかねていた男が、どうやら諦めたらしい。私はそのまま、後ろ向きに走ってその場を離れる。片っぽだけ裸足のため、小石や草の葉が足の裏へ突き刺さった。
「ブス!」
男が遠くからそう叫んだ。その声が電話越しにあけるに届いたかは、わからない。
「死ねよ、ブス!」
男は自分が乗っていた車に戻ると、勢いよく発進させてその場から去って行った。私は逆上した男に車ではねられるかもしれないと身を固くしたが、あとに残ったのは大きなエンジン音の残響だけだった。私はしばらくレイプ未遂の現場を見つめ、立ち尽くしていた。全身が虚脱感に覆われているが、しゃがみこんではいけない、とだけは思っていた。
『ねえ、どうしたの? なんかあった?』
しばらくすると、暗闇の中でこうこうと輝き続けるスマートフォンの向こう側から、あけるの声が聞こえた。通話がつながりっぱなしになっていることに気づき、私はあけるの呼びかけに答える。
「……もしもし」
『あ、やっと答えた。どうしたの? 何?』
「ううん」
『え、いや、なんかあったでしょ。なに?』
もしも私が本当に警察を呼んでいないことを知ったら、あの男はまたやってくるかもしれない。口封じに殺そうとしてくる可能性だってある。そんな妄想が私を襲い、私はあけるに事情を説明する前に、言葉が口を突いて出た。
「あける、お願い。お願いだから、今すぐ来てくれない? 大学近くのファミリーマート。お願い。おねがいだから。お願い。おねがいおねがいおねがい」
私が今いる場所から、大学近くのファミリーマートまで、歩いて一キロくらいある。私は一度あけるとの通話を切り、できるだけ車がたくさん通っている道路を選んで歩いた。その一キロの道のりの間、私は二回道ばたで嘔吐した。男からされた接吻を思い出し、そのすべてを洗い流したかったのだ。歯の根元に溜まった黄色い歯垢と、臭いのするねばついた唾液のことを考えるだけで、自分が病気にかかったように感じた。私は自販機でミネラルウォーターを購入し、その中身がなくなるまで口をゆすぎ、下水道にむかって吐き出した。
ファミリーマートまで歩く間、私はぐるぐると何度も辺りを見回して、さっきの暴漢がいないかを探した。私を追い越していく車のひとつひとつが、さっき男が乗っていた車じゃないか注意深く見たし、白い車が近づいてきたらスマートフォンをすぐに構えた。
ようやくファミリーマートに着いたとき、コンビニエンスストアの明かりと店員の挨拶でとても安心することができた。しかし、冷房が効いた店内で朝日を待つのは避けたいと思った。私は手汗がにじんだ手の平で携帯電話を握りしめ、あけるから来たラインの返信を見つめた。簡素なたった七文字が、私の心を強く励ます。
いまからいくね
時間は夜の二十三時だ。ほんとうにこんな時間に来てくれるのだろうか、と半信半疑で待っていると、私がファミリーマートに到着してから十五分後、駐車場にあけるの車が現れた。
「あける!」
あけるはすぐに私に気づき、駐車場から雑誌を手にする私に向かって手を振った。私はあけるの存在が待ちきれず、雑誌を戻すと店から出て彼に駆け寄った。でも、いざ彼を目の前にすると、私は何から説明すべきなのかわからなくなった。夜遅くに突然訳が分からない電話を掛けたことを詫びなければいけないし、理由を説明せず呼び出したことを謝らないといけないのに。
「……大丈夫?」
あけるは私から少し距離を取ったところで立ち尽くし、私の様子をうかがうように顔を下からのぞき込んだ。私はすぐに返事をすることができず、何も言えなかった。
「とにかく、心配だったから来てみたんだよ。さっきの電話ちょっとすごかったから……」
私とあけるの足元は、頭上から害虫よけのブラックライトで照らされていた。私たちの足下には、コガネムシが一匹のそのそ歩いている。
気づけば私は、あけるの右腕を強く掴んでいた。
「ねえ、聞いて」
私の声は自分でもわかるくらい震えていた。
「うん、聞くよ。ゆっくりで大丈夫」
「すごく怖かった」
「何があったの?」
「さっき、坂の下の本屋から帰るとき、知らない男に襲われて、おっぱい揉まれた。すごく痛かった。……それだけ」
レイプされかけた、首をしめられた、殺されかけた、と言うと深刻に聞こえたので、私はわざと「おっぱい」という幼児語を使い、茶化すような物言いをした。
「えっ、大丈夫だったの」
「うん。逃げてきたから」
あけるは、「それは……」と言い残し、後に続ける言葉に困ったようで、口を閉じた。私は混乱を整理するために、自分の気持ちを吐き出す。
「自分でも、バカだなって思った。こんな時間にひとりで出歩くのはどうかしてたと思う。でもなんか、大丈夫だろうって思ってた。というか、考えもしなかった。だから、襲われるまでおかしいなって思わない自分もいやだった」
「うん」
「すごく強い力だったんだ。驚いた……なにされてるか全然わかんなかった。それで、着ていたTシャツまくられておっぱい揉まれた。痛かったんだよ。でもさ、私そのとき乳首立ってたみたいでさ、男の手の平に自分の乳首当たって、それが気持ち悪かった。感じてるなんて絶対に思われたくなかった。あけるは知らないだろうけど、乳首って怖くても立つんだよ」
うん、とあけるはゆっくりと同意する。
「それは、なんとなく分かるよ。ぼくにも乳首はついてるからね」
「腕とか、足もすごい掴まれて、折れるかと思った。こわかった。まだ手が震えてるんだよね」
「声まだ震えてるよ。足も震えてる」
さむい? とあけるが聞く。ううん、と私は答える。季節は七月の中旬で、夏でも冷房を点けなければ眠れないぐらいの暑さが連日続いている。今夜も例外なく暑い。でも、体は底から冷え切っていた。それがどこからくる冷えなのかわからない。自分の奥底が、霜が降りたみたいに凍りついているような気がする。
「凄く暑いのに、君は寒そうにしてる。貸せるような上着を持ってないんだ。ごめんね」 彼はそう言って私の隣に並ぶと、繰り返し私の背中をなでつけた。細い細いと思っていた彼だったが、その手の平は厚く、人肌よりもずっと熱があるものに感じた。
「警察に言わなくていいの?」とあけるが聞いた。
「行こうかな、って思ったけどさ、私も悪いじゃん」と私が言った。
「なんで? 相手を挑発するようなことをしたの?」
ちがう、と私が言う。
「私は、ただ夜道を歩いてただけだよ。でもさ、それって悪いことじゃん。ただでさえ、あんな事件が近所で起きてるんだから。自分のばかさ加減は分かっていて、それでこんなに傷ついてるのに、今警察に行って『あなたも悪いのよ』って言われたら、すごく傷つく。だから、警察には行きたくない。それに、実際レイプされなかったわけだし」
「うん……」
「でも、私本当に傷ついてて。たとえば、もしも犯人がひとりじゃなくて複数だったら、とか、逃げるのに失敗してたら、とか、動画を撮られてたら、とか、そんなこと考えると怖い。今この瞬間も、あけるがいなかったら犯人がやってきて、また私をレイプするかもしれない」
「うん、うん」
そう言いながら、私の脳裏に、繰り返し見たアダルト動画のサンプルが再生される。
黒い分娩台に寝かされた、手足が拘束されている女。そして男が代わる代わる現れ、彼女を凌辱していく。苦しそうな女の表情。
あれは私だったかもしれないのだ。
そのことを改めて実感し、架空の自分が踏みつけられたような気持ちになる。私はあけるの肩口に顔を埋めた。あけるは痩せているから、浮き出た骨が頬にあたり、痛いと思った。
あけるの私の背中を撫でる手は止まらない。それは車のワイパーみたいに、規則正しく私の背中をなでつけた。治らない寝癖を寝かせるみたいに、毛羽だった絨毯を落ち着かせるみたいに。私は言葉を続ける。
「たぶんユリも、同情してくれるだろうけど、なんで夜に出歩いてたの、って言うと思うんだ。家族にも電話しようかと思ったけど、親にこんなこと言えないよ。ぜったい心配するし、家に連れ戻されちゃう」
「うん……」
夜の時間にあけるに会うのは初めてだった。あけるの格好は、いつもと変わらなかった。黒くて長いカーディガン、白いシャツ、それからスキニーズボンとスマートなシルエットのスニーカー。でも、顔が少しちがうな、と思った。化粧をしていないのだ。いつもよりも目がすっきりしてると感じたが、それはアイラインをひいていないせいだし、日焼け止めやファンデーションのにおいもしなかった。
「ところで、今の話を聞いてもぼくはやっぱり警察に行った方が良いと思うな。こんな言い方をしたら悪いけど、できるだけその腕の痣が消える前に」
あけるはそう言って私の右腕を指さした。そこには犯人が私の腕を強く掴んだ、赤い跡が残っている。
「レイプを狂言だなんて言う気はない。嘘をついてるとは思えないし、じっさいぼくは電話越しに男が怒鳴る声を聞いた。よく聞こえなかったけど、なにか叫んでたよね? 警察に行くとき、ぼくがついていって証言をしても、構わないよ」
私はあけるの言葉を聞いて、彼の顔を正面から見る。その顔は、真剣に今後の取るべき手続きについて心配してくれているようだった。
「君の証言が、例の殺人事件解決に役立つかもしれないし……セカンドレイプは免れないだろうけど、このままじゃ安心できないんじゃない?」
あけるの言うことはもっともだ。でも、私は思いとどまる。ここで声をあげて騒ぐよりも、じっと黙ってしまったほうがいいんじゃないか、と考えたのだ。私は強姦されなかった。殺されもしなかった。ただ私が黙りこみ、この世の中からなかったことにしてしまいさえすれば、面倒なことにならない気がする。
「もしもジーニーがいたならさ」と私が言う。
「だれ?」とあけるが聞いた。
「ランプの魔神だよ。何でも願いを叶えてくれる。ディズニーのアラジンに出てくるやつ。知らない?」
「ごめん、分かんないや。もしジーニーがいたら?」
「今晩の記憶を消してほしい、っていう。それで何もかも解決する」
「でもそれは根本的な解決になってないよ。この世には強姦魔が一人野放しにされたままだ」
「いいんだよ、それで」
それでいいのだ。強姦魔が一人野放しになったところで、私がレイプされなければ、それでいい。それに、私を強姦しようとした男が仮に捕まったとして、強姦魔が世界中から消えるわけでもない。つぶしてもつぶしても、それは次々と湧いてくる。そして縦横無尽にこの世界を歩き回り、無防備な女性をレイプし続けるのだ。
おおよそそんな感じのことを言おうと思ったが、あまりにも長い主張なので、その代わりに、ふうと長いため息を吐き出した。それを聞いてあけるが言う。
「すこし疲れたね。……今夜は寝られそう?」
「むり。朝まで起きてる」
私は即答する。自分の部屋に戻ったところで、いつ部屋の中に男が来るんじゃないかと思うと、寝られるわけがなかった。
「ねえあけるお願い、一緒にいて」
私は彼の服の裾を掴んで懇願する。自分でも子どもじみた、みっともないやり方だと思う。
「朝までいてほしい。怖いんだ。『あれ』はきっとまた来るから」
「……じゃあ、少し歩くけど、カラオケに行こうか。ぼくは行ったことないけど、たしか坂を下ったところに二十四時間営業のところがあったはずだ」
「カラオケはやだ。ファミレスがいい」
「うん、じゃあそうしよう。お腹空いた?」
「ううん。うん」
「そっか」
あけるは私を引っ張ってファミレスへ歩き出した。あけるの車に乗ることを進められたが、私が拒否したため(さっきの男の影を思い出したからだ)、徒歩二キロほどを歩くことになった。あけるは嫌がらずに従う。時折、私の足に出来たサンダルの靴擦れを気にしながら、ファミレスまでの道を手を繋いで歩き続ける。
日付がもうすぐ変わると言う頃、私たちはファミレスへ入り、二人分のフリードリンクを頼んだ。私は温かい紅茶を持ってきてすすり始める。カップ越しに伝わるお湯の温度が心地よく、飲み下す気持ちになれなかった。あけるはコーヒーを持ってきて、ミルクと砂糖を入れて飲まずに放置していた。遠くの席で飲み会の二次会だろうと思われる連中が、大きな声を出して騒いで少しうるさいと感じたが、今はその騒々しさも私にとってはありがたいものだった。
「なんか食べる?」
あけるが私にそう聞くが、私は首を振った。今は何も食べる気になれない。
「ぼくはフライドポテトを頼もうかな……少しお腹が空いたんだ」
間もなく、鉄板の上に盛られたフライドポテトがやってくる。あけるはそれをサクサクとかじりながらスマートフォンをいじり始めた。あけるは私に話しかけず、「ただそこにいるだけ」を忠実に守った。私はトイレに行くときもあけるに入り口までついてきてもらって、そうして夜中じゅうを明かした。途中で何度か眠ってしまったような気もするし、目を開いたままぼんやりとしているような感覚もあった。
あけるは途中で席を立ち、ファミリーマートまで車を取りに行っていた。
朝の四時頃になると、外はだんだん闇が薄くなり始め、青色に染まってきた。空の向こう側が朝日で明るく照らされ始めていて、私は朝が近いことを知る。店員がテーブルまでやってきて、メニューをモーニングのメニューと入れ替える。
間もなく私たちが座っている窓側の席に朝日が思い切り入り込んできて、私は目をすがめた。そのとき、突っ伏していたあけるがようやく起きた。
まぶしいね、と私が言うと、あけるが笑った。
「ぼくはまだ、少し眠いな」
「うん……わたしも」
朝日の力は強力で、目に見えるあまねくものを光に包み、浄化していくように見えた。私は手を目の前にかざして透かす。この太陽があれば、あの男はもう襲ってこないような気がした。
「キレーだなあ」とあけるが言う。
「毎朝こんなにきれいな太陽が昇ってるのに、ぼくらは毎日それを見ていないんだ」
太陽が昇ってくる時間と同じくして、朝営業になったファミレスの中は、にわかに騒がしくなりはじめていた。スーツを着たサラリーマンや家族連れが入ってきて、人が増え出したのだ。朝が来た、という感じがした。店員も、深夜にいた若い人ではなくなっていた。あけるはテーブル脇に刺されたメニューを抜き取り、私に言う。
「朝ご飯食べない?」
「……うん」
私の指先はまだ少し震えていた。
だけど、と思う。夜はまた来てしまうだろう。もう十二時間もすれば、太陽は再び沈む。もう犯人は来ないというのに。これから先、私はずっとあの男の影に怯えて生きなければいけないのか?
そういうことを言うと、あけるが少し笑った。
君はもう、前の「君」とはちがう、とあけるが言う。
「夜遅くに君はひとりで出かけて、その結果危ない目に遭った。だけど君は少しケガを負うだけで、ほとんど無事で帰ることが出来た。もう君は、よっぽど切羽詰まったことがないかぎり夜道をひとりで歩くことはない。それに多分君はこの後、もっとセキュリティがしっかりしたアパートへ住み替えたり、用心のために防犯グッズを持ち歩いたりするようになるだろう。強姦未遂に遭遇する確率もぐっと低くなる」
テーブルの上で震える私の手を、あけるが柔らかく握る。
「レイプされた君は『どこにもいない』んだ。過去にも未来にも。回答になっていないかな?」
私の手の平に感じたあけるの手は、温かく優しい。私の胸を揉みしだいた男の手とは全然違う。私はあけるの手を握り返して答える。
「ううん。それでいいよ」
「うんまあ……怖くなったらぼくを呼んでもいいよ。それに、君はいやだって言ったけど、ユリも君の話をきちんと聞いてくれると思う。ちょっと位は糾弾してくるかもしれないけど。いざとなればハルマにも事情を話して力になって貰おう。少しとっつきにくいかもしれないけど、彼は信頼できる人間だよ。
君は九死に一生を得たことで、なかなか得ることが出来ない経験値を獲得できた。それを活かすには堂々と生きるしかないよ」
私は徹夜のために頭がぼんやりとしていて、彼の言葉を咀嚼するまでに時間がかかってしまう。あけるはそれに構わず、カラフルなメニュー表を開き、指で辿りながらオーダーを考えていた。
私たちはそれぞれモーニングメニューを注文した。あけるはトーストと目玉焼きで、私は焼きシャケ付の和食セットを頼んだ。みそ汁はすこし塩辛すぎるような気もしたが、冷房が効いたファミレスではその温かさはとても得がたいものに思え、手元から少しずつ生命らしさを取り戻したような気がした。
目玉焼きの黄身を崩しながら、あけるが言う。
「ぼく自身もなかなか得がたい経験をしたと思うよ。こう言ったら気を悪くするかもしれないけど――性犯罪の被害者って、こんな風になるんだな、って思った。昨日の君は何を言っても要領を得なくて、まるで魂が抜けたみたいに見えた」
君が助かってよかった、と言いながら、あけるはちぎったトーストで皿に広がった卵黄を拭う。
「友達がレイプされてつらい目に遭うなんてさ、ぼくまでつらい気持ちになるよ。まったくの無関係じゃないさ」
私たちはファミレスを出てから、ようやく別れることにした。
「ひとりで帰れる? おくろうか」
「ううん、大丈夫。歩いて帰りたい」
「そう? まあ、いいけど」
あけるが眩しい朝日の中で、運転席から私に手を振った。私もそれに振り返す。近くの道路はだんだん人通りが増えてきて、少しずつ私は呼吸が出来るようになってきた。太陽の光は暖かく、とても悪いことが起こりそうには思えなかった。あけるの車がいなくなった駐車場を眺めながら、私は太陽を見た。
もう、どこにもあの男の影なんて見当たらない。
私は自分の胸の中で、なんどもあけるから感じた体温を繰り返し思い出す。たしかに熱い温度をしていた。あの温度がなかったら、私は熱帯夜の中、部屋の中で凍死していたかもしれない。
それでも未だ、心はどこか凍り付いているような気もしている。私は自分のアパートへ向かって歩き出す。足を着地させるたび、傷から滲んでくる痛みが熱を持ち、降りた霜を溶かしていくのを感じた。
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