6

 あけるがハルマに閉じ込められて、三週間目が終わろうとしているときだった。

 とつぜん、「海に行こう」とハルマが言った。

 うみ? とあけるが聞き返す。「なんで?」

「ペットなら、たまには外に散歩に行かせた方が良いだろ」

 あけるとハルマはそのとき、夕食後にバラエティ番組を見ていた。ハルマがビールを飲み、スーパーで買ってきたパック入りの枝豆を食べながら、上機嫌に答える。

「昼間は暑いし、目立ってだめだから、朝に行こう。おれ車出すよ」

 あけるはそのとき、ベッドの上に寝転がって、ハルマから貸して貰ったゲーム機でRPGをプレイしていた。こうげき。こうげき。こうげき。ぼうぎょ。こうげき。こうげき。こうげき。こうげき。ハルマはあけるがゲームに夢中になっていることが不満で、手の平であけるの両目を塞いだ。

「明日は早起きになるからさ、早く寝た方が良い」

 酒を飲んだせいか、その手の平はいつもよりも赤みがかって熱く感じる。どの呪文を使おうか迷っていたあけるは、頭を振って手をよけると、ハルマがいじけた声を出した。

「なんだよ、ドラクエばっかり。つまんねえ」

 その声の剣呑さに、機嫌を悪くしたか、と振り返ると、ハルマはゴミをまとめて台所に立っていった。あけるはそのときのハルマの言葉を、ただの思いつきだろう、としか思っていなかった。ゲームに夢中できちんと話を聞いていなかったせいもある。あけるは再びハルマの言葉を気にも留めず、再びモンスターの討伐に精を出した。そのあともダンジョンを進め、それから眠った。


 次にあけるは、体を強く揺さぶられる感触で目を覚ました。地震だろうか、と起き上がると、暗がりのなかでハルマがうっすら笑っている。ハルマの手の平があけるの体をつかみ、パン生地を捏ねるみたいに、ごろごろとベッドの上で転がしていたのだ。ハルマが言う。

「言ったろ、海。行こうぜ」

 あけるがぼやける頭を何とかたたき起こして壁時計を見ると、三時五十五分を示していた。カーテンの外はまだ日が昇っておらず、暗い。

「えー?」

 ハルマは眠い眠いと騒ぐあけるをなだめ、乱れた髪を手ぐしで梳き、機嫌を取る。

「髪の毛すごいな。まあ、いいか。誰にも会わないだろ」

 ハルマはそう言って散歩の準備を始める。あけるをトイレに行かせた後で、クローゼットの奥から引っ張りだしてきた、パーカーと半ズボンをあけるに着させた。パーカーは小柄なあけるの体よりもずっと大きく、袖が余り、腹や背中にはたくさん空気が入り、動く度にすうすうとした感触があった。

「あとコレ」

 ハルマはそう言って、手錠を取り出した。それはうす暗い室内で見ると、一層ぎらぎら光って禍々しい物に見える。ハルマは片方の手錠をあけるの右手首につけると、もう片方を自分の左手首につけた。手錠の鎖は四十五センチほどの長さがあり、あけるとハルマの距離を丁度良く保って繋いだ。

「首輪つけて引っ張ると、さすがに目立つからさ」

 ハルマはそう言って、屈んであけるの足枷を外す。入浴時以外に足枷を外されたのは初めてだった。あけるは右足首のこりをほぐすために、ぐるぐると足首を時計回りに回す。

「別に、逃げたりしないのに」

「逃げるかどうかじゃないよ。リード付けないでペット散歩させたらだめだろ」

 ハルマは長袖のTシャツと財布を突っ込んだハーフパンツという格好で玄関に向かい、あけるも鎖に引っ張られて玄関へ向かった。

「手錠はできるだけ袖の中に隠して。もし人が来たらフード被って」

「……うん」

 玄関を出るとき、手錠をしているにも関わらず、ハルマはあけるの手を繋いだ。逃げないように、ということだろうか、とあけるは勘ぐったが、それにしては、ハルマの手は子どもの手を引くように穏やかなのだ。まるであけるが逃げることなど、想定していないみたいに。

 ふたりは手をつなぎながらアパートを出た。あけるは久しぶりに外の空気を吸ったな、と思う。大きいパーカーのすき間から朝の冷たい風が入ってきて、あけるは身震いをした。外はまだ薄暗く、街灯の光のほうが眩しい。

 あけるは自分が監禁されている建物と、周辺地域を見定めようとしたが、見覚えのない建物ばかりで断念した。ハルマと初めてあったときに「この喫茶店の近くに住んでいる」と話していたので、そう遠くもないところなんだろう。

「車乗って」

 ハルマはあけるに、車まで案内して乗り込ませる。ハルマの車は、埃っぽく、あせた緑色をした小さな普通車だった。ハルマの年齢から考えるとやけに渋い趣味をしているので、多分中古車だろう。

「ぜんぜん車ないから、信号無視してもよさそう」

 ハルマは車を発進させる前に、サイドボードからアイマスクを取り出した。

「帰り道覚えられると困るから、これつけて」

「うん」

 別に帰り道を覚えたところで逃げなんかしないのにな、とも思うが、大人しくハルマの指示に従う。あけるはポリエステル素材のテカテカしたアイマスクで目元を覆い、後頭部にゴムをまわしてつけた。ハルマの監禁なんて、本気を出せばいつでもにげることができるのに、捕まえているつもりなんだ、とも思う。

 やがてハルマがサイドブレーキを倒し、車を発進させる。ハルマは両手で運転したため、右折をするたびにあけるの右手も一緒に持ち上がった。あけるの体感で右折を二回と左折を三回した。信号には二回捕まった。着いたよ、とハルマが言ったとき、あけるは眠りこけていて、アイマスクが顔から半分ずり落ちていた。

 あけるが目覚めた場所は、海岸公園の駐車場だった。ふたりは手錠でつながっているから、あけるは身を縮めて助手席から運転席に抜けて外へ出た。パーカーの前面についたポケットに手をつっこんでいると、ハルマがあけるの腕を掴んで抜き取り、手をつないだ。

「行こ。海に出て、歩いて戻ってこよう」

「うん……」

 あけるはスニーカーで、ハルマはビーチサンダルを履いている。ハルマのサンダルがたてる、ぺたぺたという音が、静けさに満ちた早朝では必要以上に大きく聞こえる。七月初めといえども、まだ外は寒く、あけるにとってハルマの熱い手の平がありがたいものに思えた。

 海岸に出ると、より強く潮風のにおいがした。そしてまだ朝の四時過ぎだというのに、遠くのテトラポッドに人影があることにあけるは驚く。足下に大きな四角いクーラーボックスが置いてあるので、釣り人だろう。

 しかし遠くに見えるそれらを覗けば、あたりはとても静かで、繰り返す波の音しかしなかった。あけるはハルマの熱い手の平にゆるく引っ張られながら、ゴミをよけて彼の後ろをついていく。

 砂浜には、流れ着いたゴミが数多く落ちていた。ハングルが書かれたお菓子の袋やペットボトル、波で洗われて角が取れたガラスの欠片、ガーデニングに使う網なんかだ。それらに混じって、大きな貝殻や巻き貝、ヒトデの死がいといった、いかにも海らしいものも流れ着いている。あけるが後ろから見ていると、ハルマはビーチサンダルで二回ヒトデの死がいを踏みつけ、四回大きな貝殻を踏みつけていた。

 遠くで、バイクが走る音が聞こえた。こんな時間に走っているんだから、きっと新聞配達のバイクだろう。遠くからではあるが、向かいからランニングしている人も見えて、あけるは念のためフードを深く被った。

 誘拐犯と、その被害者。DV男と、その被害者。ふたりの関係性は自慢できたものではないのに、寄り添って浜辺を歩くあけるとハルマは、端から見たら恋人同士に見えるよう振る舞う。

「あ、めのうだ」

 そう言って突然ハルマが立ち止まり、あけるはその背中に強く鼻をぶつける。

「……なに?」

「めのう。しらね? 手出して」

 ハルマはそう言って、あけるが差し出した左手の平の上に、海水で砂を洗った「めのう」を落とした。それはあけるから見たら、ただの濁った茶色をした石だった。

「なにこれ」

 きれいな貝殻や石を期待していたあけるは、落胆した声を出した。珍しい形をしているわけでもない。

「そっちじゃなくて、ひっくり返してみて」

 ハルマに言われたまま石を裏返すと、ある一箇所だけ、曇りが取れたように透き通った場所があった。

「それ、瑪瑙(めのう)っていう石だ。きれいだろ。昔そればっか集めて家に持ち帰ってた」

「ふうん……」

 あけるはハルマからもらった瑪瑙を、ふりかぶって海に向かって投げ捨てる――ふりをすると、ハルマが慌ててあけるを止めた。

「ばか! 何すんだよ。せっかく見つけたのに」

「冗談だってば。これ、ぼくがもらっていいの?」

「別に、捨ててもいいけど。やるよ」

「ありがとう」

「今太陽見当たらないけど、空にかざしてみると透けるよ」

 あけるはハルマに言われたとおり、めのうをかざしてみると、明るくなってきた空の光が瑪瑙を通じて入ってきて輝いたような気がした。

 なんだ、こんなもの……。

 そのことを確認すると、あけるは半ズボンの尻ポケットに瑪瑙を落とす。それは確かな重みとなってポケットの布を揺らし、たわませた。

「向かいのテトラポッドまで歩こう」

 そうハルマが遠くを指さして言う。

「けっこう遠くない?」

「そんなことないよ。……もしかして疲れた?」

 あけるの芳しくない反応に、ハルマが機嫌を伺うように聞く。しかしあけるは首を振った。

「別に平気。行こう」

 とおい、と思っていたテトラポッドまでは、あけるが思っていたよりもすぐに着いた。歩くスピードをハルマに合わせているからかもしれない、とあけるは思う。途中でランニングをする女性とすれ違い、手錠がばれないかドキドキしたが、俯いて走る彼女の目には映らなかったみたいだった。

 テトラポッドに着いて、あけるがふと振り返った時、赤く燃える太陽が空に昇り始めていた。それに従い、だんだんと辺りが明るくなっていることに気づき、あけるは目を細める。そうだ、ぼくは監禁されてるんだから、日の光が当たる場所にいたら、いけないんだ。あけるはこの散歩を通して、久々に「この状態から逃げ出したい」という原始的な欲求を思い出した気がした。


 もしかしたら、とあけるは思う。出会い方こそ最悪だったけど、ぼくはもしかしたら、ハルマのことを好きになりかけているのかもしれない。一緒に海に出かけて、このことを幸せなんだと思うくらいには。

 幸いにも、あけるに職はなく、世界の誰もあけるのことを呼ばなかったし、また、あける自身も誰かを呼んでいなかった。そんな状態でハルマに拾われたことは、ある意味ではあけるにとって幸福だったのかもしれない、とさえ思う。

 あけるは、ハルマにつけられた体中の無数の傷跡のことを今は忘れようと思った。ハルマのあけるに対する接し方はどう考えても間違えているものだったけど、慣れ始めていることも認めずにはいられなかった。


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