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 真夏の強い日射しが私のうなじを焦がしている。私は誰もいない、雑草が茂った空き地の隅で、青いポリバケツを覗いていた。そのポリバケツは目が痛くなるほど青い色をしていて、中には八部目まで水道水が汲まれている。水面には、一匹のクロアリが溺れていた。クロアリは体を仰向けにひっくり返し、六本の足を空に向けて、力の限り暴れている。私はその動きを見て、よく疲れないなと思った。

 そのクロアリは私が捕まえて落としたものだ。指先に乗せ、腕に登らせた後、腕ごと水に浸して水の中へ落とした。クロアリは沈むことなく、足下の不安定な水面で無力に暴れている。私はときおり、指でつついてアリの体を水中に沈めようとしたが、浮力が勝ってしまいそれが叶わない。私はコンクリートの上でもがくクロアリを見つめたときと同じように、凌辱の視線を水の上に向ける。アリは水の上で力一杯にもがく。

 じたばた、じたばた、じたばた、じたばた……。

 これもやはり、私が小学生だったころの記憶だ。幼心にクロアリをいじめることに罪悪感を持ってはいたが、やめることができなかった。しかし、この遊びを他人に見つかってはいけないとも分かっていたので、見つからないうちに、すぐやめていた。バケツを倒し、水を乾いた地面に染みこませ、アリは水と一緒に地面へ流れてしゃかしゃかと駆け出していく。もしも時間が許していたら、私は一日中もがくアリを見つめ続けていたと思う。

 大人になった今は、もうその遊びはやっていない。正確に言えば、思春期を越すころにはアリをいじめる遊びはいつのまにかやらなくなっていた。しかし、それらの記憶はふと、日常の合間に立ち現れて私のなかに衝動を生む。誰かの生殺与奪を手にし、恥辱と凌辱の視線を目いっぱいに浴びせてみたいと。


「風鈴なんて、買ってみようと思わなかった」

 あけるが私に、そう言った。時間は日が暮れかけた十九時すぎだった。

 あけると私は、大学近くにある神社に来ていた。今日は夏祭りのため屋台が出ていて、学生と子連れのファミリーと、カップルで賑わっていた。

 この神社では大量の風鈴を飾り付け、提灯でライトアップをする。神社前の入り口の天井には、色の濃淡をつけて風鈴が飾られており、心地の良い風が吹くたびにりんりんと鳴る様子は、美しかった。あけるがその光景を写真に撮ろうと奮闘していたが、大勢が風鈴の下であけると同じようにスマートフォンを構えていたために諦めていた。

 神社の鳥居をくぐるとき、真っ赤な鳥居の根元に、真っ黒の服を着た警察官がいた。それを見て、私はふと思い出す。

「あの警察って、多分殺人事件のせいだよね」

 私が言うと、あけるは、ああ、とたった今気がついたかのように警察を見る。

「見回ってても、起きるときは起きちゃうと思うんだけどな」

 それはあけるらしい、クールでドライな意見だった。そうだ、どれだけ気をつけていても起きるときは起きる。流行の風邪と一緒だ。むしろ、気をつけていれば気をつけているほど、起こると言ってもいい。

 春先に起きた強姦殺人事件は、二ヶ月が経過した今でも犯人は捕まっていない。事件はもうとっくにワイドショーでは扱われなくなり、地元の人間でさえ忘れ始めようとしていた。

 後に残った爪痕は、被害者の女子大生が住んでいたアパートを覆う鮮やかなブルーシートと、見回りをする厳つい警察官くらいだった。


 あけるは屋台で風鈴をひとつ購入していた。その風鈴には、ミズクラゲのガラス細工がついている。ミズクラゲは、頭のてっぺんが透き通った水色をしていて、体と足は気泡が混ざった無色透明をしていた。あけるは風鈴を指先にぶらさげ、上下左右にゆらして小さな鐘を鳴らす。一人暮らしなのに、どこに飾るの? と聞くと、帰省したときに妹にあげると言っていた。

 右手には赤くつやつや光るいちご飴を持っていて、「あんまりおいしくないな」と言いながらかじっていた。「甘すぎるんだよ、これ」

「だからやめときなって言ったのに」

「でもさあ、並んでるときはすごくおいしそうに見えたんだよ」

 あけるはぶつぶつ言いながら飴をかじっている。私は屋台で五個入りの唐揚げを購入していたが、あけるにひとつあげたら、残りはすぐに食べきってしまった。

 この夏祭りには、本当はあけるとユリと私の三人で来るはずだった。しかしユリがどうしても自動車学校の学科授業を受けなければならない、とキャンセルした。ユリがいないから、と夏祭りの約束をキャンセルするのもおかしいかな、と思って、私はあけるとふたりでこの夏祭りに参加した。

 きっと、私とあけるのふたりは、端から見ればカップルに見えるんだろうな。

 あけるは私のことを意識しているのか、していないのか、無数に並ぶ風鈴にはしゃいで写真を撮っていたり、まずいまずいと言いながらいちご飴をかじったりしている。「意識していない」と言われればそれはそれで寂しい気持ちもするし、「意識している」と言われれば、なんだか居心地の悪い気分になる。

 ユリがいないと、私とあけるのふたりでは会話がもたないことにも気づく。ひとしきり祭りの情景を褒め、人混みに感想を言って、風鈴を褒めたらそれでおしまいだ。あとは屋台の並ぶ通りが途切れるまで、言葉少なに歩くだけだ。

 私は横目にあけるの服を見る。

 今日のあけるの服装は、白いTシャツに、デニムのオーバーオールを着ていた。顔の半分を覆う金縁のめがねはお洒落のためにかけているのか、実用のためにかけているのか分からない。オーバーオールの裾からは、あけるの足首から下が剥き出しになっている。足は麻の葉柄の鼻緒がついた草履を履いていた。

 爪は透明のトップコートだけが塗られていて、いちご飴の長くて細い持ち手に添えられると、その指はより長く、整ったものに見えた。きれいに塗られた爪は美しいし、かすかに化粧をされた頬はけぶるように発光している。

「飴、口の端にすごいついてるよ」

 私はあけるの口元を指さし、いちご飴のかけらがついていることを指摘する。

「ホントだ。ありがとう」

 そういって手の甲であけるが唇をさする。きらきらした飴のかけらが落ちて、石畳の上に散らばっていった。

 夏の日射しは日没後もしつこく残り続けたが、夜の十九時をすぎるとようやく暗くなって、いよいよ風情が出てくる。

私たちは帰る前に、境内でお参りをした。お参りをしたあとで私があけるに「何をお願いしたの?」と聞くと、リンリン、と風鈴を鳴らしてあけるが答えた。

「せかいへいわ」


 私たちはおおかた祭りを見終えたので、帰宅することにした。私もあけるも、電車に乗り込む。夏の電車は、これから祭りに行く学生と、仕事帰りのサラリーマンやOLで混み合っていて、汗臭く蒸していた。そんな中でもあけるは涼しい顔をして、窓の外を眺めている。風鈴が鳴らないようにその紐をうっ血するほどに手の甲に巻いていた。

「屋台が出てるだけなのに、なんであんなに楽しいんだろうね」

 そう私が喋りかけると、あけるは笑う。

「屋台が出てるから、だよ。あの場所にスーパーで買った物を持ちこんで食べても、きっとおいしくないんだ」

 あけるは私をアパートの入り口まで送った。別にいいよ、と繰り返す私に、あけるはダメダメ、と繰り返す。

「たとえば、もしもぼくが君と別れたあとで、悪い男に殺されたとするだろ。そうするとぼくは罪悪感で眠ることが出来なくなるんだよ。もしもあのとき、ぼくが君を玄関まで送り届けてあげられたら、なんてね」

 だからこれは自分のためなんだ。そんな風にあけるに言われると、私は断る理由がなくなってしまう。

 ばいばい、と私たちは部屋の前で手を振り合って別れる。

 私はあけると別れると、部屋の中に滑り込むように入り、鍵を掛けた。


 私は、あけるのことが好きなのだろうか、と自分に聞いてみる。

 その答えは出てこない。イエスともいえたし、ノーと言うこともできた。

 彼は男だ。でも、まるで男だ、と感じることがない。

 

 あけるは私とセックスしたいと思っているのだろうか?


 答えは出ない。それは本人に聞いてみないとわからなかった。でも、私はなんとなく、彼は「ノー」と言うんじゃないかと思っている。彼の態度は親しいようでよそよそしかったし、私を見ているよりもミズクラゲの風鈴やいちご飴を眺めている時間のほうが多かったような気がしている。


 私はあけるとセックスしたいと思っているのだろうか?


 私はあけるとのセックスを想像する。私が知っているセックスであれば、ベッドで(あるいは、ベッドではないところで)私が寝そべって、そこにあけるが覆い被さってヴァギナに固くなったペニスを挿入するのだ。しかしそれは、私が望んでいることではないような気がした。成人向けの漫画では、それは声が出て体をよじるほど気持ちが良い物として描かれているが、実際はそうならないことを私は知っている。あそこは月経のたびに収縮して痛み、生暖かい血が出てくる、狭くて意固地な穴に過ぎない。

 あけるが服を脱いだところを想像してみる。彼の体格は小柄だが、それでも私よりは身長は高く、体重も多いだろう。細い腕をしているが、彼に力比べで勝てる自信はあまりない。

 どうしてそんな彼に、私が組み敷かれてやらないといけないんだ?

 そのことを不満に思った私は、自分があけるの体の上にまたがってみる。だけどその姿はユーモラスな光景として私は捉えた。それはあけるも同じらしく、重いよ、と鼻で笑った。彼の体にくっついたペニスは力なくしおれている。こうじゃないのに、と私は思う。

 私が求めているのは、こういうものではないのに。

 私は彼の暴れる四肢を押さえ込み、気取った顔が見る影もなく歪むところが見てみたい。しかしそれには私の腕は細く、頼りなく、折れそうだ。暗闇の中で私は彼の顔面に向かって自分の右腕を伸ばす。その右腕は私の視界の中でやがて太く頑丈に育ち、骨が太くなり筋肉が厚くなっていく。私はその頑健な腕であけるの前髪を強く掴み、勢いよく持ち上げ、思うままぐらぐらと揺さぶるのだ。

 それはきっと、胸がすく光景に違いない。

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