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 濃い緑色をしたハマヒルガオの茎をつまんでちぎると、茎の断面から粘性のある白い汁が出てくる。その白い汁は断面を覆って丸いしずくとなった後、やがて溢れ出して茎を伝う。

 私がまだ小学生だった頃、その汁を使って、クロアリをいじめるのが好きだった。

 灰色のコンクリートで覆われた駐車場の隅、コンクリートとコンクリートのすき間からわずかに見える砂地の溝をクロアリが這いまわって巣作りをしている。私はそこにしゃがみ込み、ちょうど近くに咲いていたハマヒルガオの葉をちぎった。そして、足元を通過した一匹のクロアリに狙いを定め、ハマヒルガオの白い汁を頭や手足にくっつける。そうすると、蟻は手と足がくっついて動けなくなってしまい、力の限りもがくようになる。

 人間にしてみれば、野草から出た白い汁の粘性などたかがしれている。手指についても少しベタベタして、気持ち悪いと思うくらいだ。でも小さな虫にとってはその粘性が命取りになる。ほんの数ミリグラムの汁を手足にくっつけられただけで、身動きが取れなくなるのだ。

 私はその興味深い事象をじっと見つめていた。いつかクロアリがその拘束を自力でほどいて、再び歩き出すだろうと思って。しかしクロアリはいつまでも、みっともなくもがいていた。そしてその横を仲間のアリがしゃかしゃかと通り過ぎていく。助けようと手を貸す様子はいっさいない。

 クロアリはもがき続ける。夏の日射しに焼かれ、私という残酷な侵略者による凌辱の視線を小さな体にいっぱい浴びて、それでもなお生きたい、ともがいている。そうしていると、やがて私のなかに罪悪感が生まれてくる。私は松の葉を拾い、蟻の手足をその先端でつついて拘束を解いてやる。アリは拘束が解けた途端、再び元気いっぱいに六本の足を動かし、私の視界から消えていく。

 クロアリを見送った私は、懲りずに新しいクロアリを探す。侵略者の視線なんて夢にも思わず、自分の巣へ餌を運ぶため、せわしなく歩き回っている純真無垢な一匹のクロアリ。私は彼らの細い手足の自由を奪うことに、罪深さと表現しようがない悦びを感じていた。

 これは、私が小学生だったころの記憶だ。こんなふうにうっすらと残酷な思い出を、私は頭の中にいくつか隠し持っている。そしてそれらは、日常のふとした瞬間に立ち現れては消えていく。


 私は、地方の国立大学に通う大学二年生だ。地方の国立大学は都会の大学とちがって、人数のわりにキャンパスが広いので、のびのびとしたキャンパスライフを送ることが出来る。学生たちも派手な人間はおらず、羊のように大人しい学生が思い思いの怠惰なキャンパスライフを送っていた。

 しかし、最近は随分ものものしい雰囲気を醸し出している。キャンパス内の広い敷地で立ち止まって雑談する学生は、今はいない。みんな、どこか暗い顔をして足早に歩き、おのおの必要としている講義室へ行き、受講して帰途につくだけだ。

 一週間前までは、「こう」じゃなかったのに。

 私は二限目の講義を終え、昼休みになるといつもの講義室へ足を運んだ。いつもの席である、向かって右側、前から五番目の席でお弁当を広げていると、ユリが入ってきた。私は割り箸を割ろうとする手を止め、ユリに向かって手を振った。

 ため息を長く吐き出して、いやだね、とユリがいった。

「ここに入ってくるとき、またカメラがいたよ」

「いたね。いやだね、さすがに毎日こんな感じだと、気分も滅入るよね」

 一週間前、大学近辺の一般住宅街で、凄惨な強姦殺人事件が起きた。被害者は同じ大学の二年生だ。犯人はまだ捕まっていない。

 週刊誌やニュースサイトでは、事件に関するどろどろした情報が流れていた。なんでも、その女子大生の死体は、惨たらしい有様だったという。体中に殴打の跡があり、絞殺され、首から上をすっぱり落とされていたらしい。そして、死体は隣の区にある野山に打ち棄てられていたそうだ。

 この事件は周辺住民と大学生たちを震え上がらせ、間もなく大学や地域にマスコミがあふれるようになり、警察が見回りを始めた。

 大学や、大学近くのよく見知った通りが、昼間のワイドショーで映されているところをテレビで見た。観光番組で取り上げられるならうれしいけど、こういう映され方をされては、あまり良い気分がしない。

「もうさ、こんなこといつまで続くんだろう」

 ユリはそう言いながら、コーヒーラテをストローですすった。ユリの昼食は、アボカドとサーモンのサンドイッチだった。サンドイッチから鮮やかな緑色をしたサニーレタスが、フリルのようにはみ出ている。

「法学部の子がさ、殺された女の子と友達だったんだって。そのことで、マスコミからすごい取材受けたんだってさ。犯人に心当たりはあるか、とか、女の子の交友関係とか、写真は持ってるか、とかさ……」

 私はユリの言葉に心を痛める。どうして加害者ではなく、被害者がそんな風に不躾な詮索に会わないといけないんだろう? その女子大生がいったい何をしたというのだろう? どうして、ほっといてあげられないんだろう? 殺されて裸体を多数の目にさらされた後で、そんな風に責められるなんて、あんまりじゃないか。

「友達が殺されてショックなのもあるし、もしかしたら自分が殺されてたかもしれなかった、って、いまその子、講義全部休んでるんだ。代わりにプリント持っていったりノートあげたりするのは全然構わないんだけどさ、なんか、申し訳なさそうにされるとこっちもつらいんだよな」

「そうだね……」

 私はユリの話に共感しながら、自分の昼食に手を付けた。私の昼食は、生協で購入した大盛りの海苔弁当だ。箸の先で海苔をちぎり、醤油味の佃煮を白米に乗せ、口へ運ぶ。

「しかもさ、まだ犯人つかまってないでしょ? レイプされるかもしれない、なんて自意識過剰かもしれないけどさ、でもホント安心して歩けないよ。夜歩けないのもそうだけど、真昼間に誘拐されることもあるかもしれないじゃん。そんな男がこの辺りにいるって考えるだけで怖いよ」

「男ってサイアク」と、私が相づちを打つ。

「『オトコッテ、サイアク』」

 そのとき、私とユリの間に間延びした声が届いた。その声は男のもので、私の発言を茶化しているとわかるような言い方をしていた。

「そこまで言われると、なんだか居づらいなあ」

 声の主は、ユリの隣にいたあけるだった。あけるは紫色をした野菜ジュースのパックから紫色のジュースをストローですすりあげ、笑っている。

 あけるは私と同じ学部の学生だ。ついさっきここに来たが、会話を邪魔しないように、ユリの隣へ静かに席についたのだ。

「ぼくに着席を許していて良いの? ぼくだって君たちのこと、メチャクチャにレイプするかもしれないよ」

 こんな風に。あけるはそう言って野菜ジュースのパックを掴んでいた手を離し、その手の平を隣に座っているユリの顔面に向けた。その指先は丁寧に塗料が塗られた爪が光っていて、獰猛なものに見えた。ユリはあけるの手の平を交わす真似をし、おかしそうに笑った。

「あけるはそんなことしないでしょ」

「そういう油断がよくないのにな~」

 そういってあけるは再び野菜ジュースを啜り始める。

 私はあけるの七分丈のジャケットから覗く腕を見る。その腕は毛が生えていなく、つるつるとして清潔だ。シミもなければ、ほくろもない。

 私とユリがあけるに心を開いているのは、おそらくあけるの容姿のせいもあるだろうな、と思う。


 あけるはこの大学内で、その見た目から少し有名人になっていた。彼はあえて女性的な服装を好んで身につけた。骨格も男性にしては小柄なため、彼が身につけても気味の悪い女装にはならなかった。本人の話では、セルフィーを載せたインスタグラムも運営しているそうだ。

 彼自身、そういう格好をしていることについて「ゲイなの?」とか、「オカマなの?」といった問いかけが為されるらしい。しかし、性別の境界は指先でぼかされ、あとには彼の穏やかな微笑だけが残った。

 あけるの今日の服装は、七分丈のズボンと、スニーカー。それに、シンプルなジャケットを着ていた。ズボンやジャケットから覗く細い足首や手首は女性らしさを際立たせ、耳元で揺れる小さなイヤリングがさらに性別を曖昧にさせた。手指のしっかりした感じ、声を聞けば男だとはっきりするが、黙っていればよくわからないのが、あけるという人間だった。


「私はさ、やっぱり性犯罪者にはGPSチップをつけるべきだと思うよ」

 強姦殺人事件に話を戻したユリが、語気を強めてそう言った。

 この主張は、強姦殺人事件が起きてから、ユリからだけではなく、周囲でよく聞かれるようになった。アメリカのある州では、GPSチップを性犯罪者の体内へ強制的に埋め込み、行動を監視し続けるという。そしてGPSが入った性犯罪者が近づくと、周囲の人間が所持しているスマートフォンへ通知が行き、危険を知らせるということだ。効果的な策だが、過剰なようにも思える。

「性犯罪者の再犯率は八十パーセントを超えるんだって。だから、レイプ犯を捕まえて裁判したところで、意味ないんだよ。またどうせやるんだから。日本もさ、人間の理性や反省に期待しないで、もう二度と性犯罪ができないようなシステムにしたほうがいいと思う」

 ユリの主張を聞き、「これは別に、男を代表して言うわけじゃないんだけど」と、あけるが困ったように笑った。

「GPSを埋めるっていうのは、死刑よりもむごいよね。人間として生きているのに、人間じゃないって言われてるみたいだ」

 あけるの意見に、ユリが鋭く噛みつく。

「じっさい、人間じゃないでしょ。ケモノと変わらない。性犯罪者なんて頭がおかしいんだからさ、人権なんてなくていいんだよ」

「まあまあ……たとえば、その犯罪者にだって考慮すべきことはある。もしかしたら、冤罪かもしれない、とか。その人も誰かに脅されていたかもしれない、とか。あとはわからないけど、とにかく色々。ぼくたちが想像できる範疇を超えた、何らかの事情を抱えていたとする。そうすると、GPSを埋められない場合もあると思うんだよね」

「ねえ、でも、八割の確立で再犯するってデータが出てるんだよ」とユリが主張を強調する。

「GPSを付けないと、それだけ高い確率で再犯するんだ。加害者にどんな事情があっても、GPSを付けて、被害者を安心させてあげるべきじゃない?」

「そうかもしれないね」とあけるが同意する。「ぼくにはどうしたらいいかわかんないや」


 私はふたりの会話を聞きながら、犯人の異常性と、その性欲について考えてみる。

 人をひとり殺せるほどの性欲というものが、私には想像が出来ない。 

 私は海苔弁当をつつく手を止め、箸を握った手の内側を見つめる。

 私は非力だ。しかし、それはたまたま外的要因として持ち合わせていないだけだ。

 もしも私に人を殺せるだけの力があったら、私はそれを奮うだろうか?

 私は箸を持っていない左手でうなじに触れ、GPSを埋め込む手術のことを考える。

 私は麻酔で眠らされ、手術室へ運ばれる。うつ伏せに寝かされ、メスでうなじを開かれ、血液で濡れた肉の中にGPSチップを置かれる。GPSチップは、肉の中で明らかな異物として黒光りをしているが、医者は無慈悲に皮膚を閉じ、縫い合わせていく。

 そんな手術から目覚めた私は、いったいなにを思うんだろう? 

 私が町へ出ると、周囲の人間が所持しているスマートフォンからいっせいに警告音が鳴る。そのまま公園に行くと子どもが蜘蛛の子を散らすように逃げ、保護者の元へ駆け寄る。保護者は怯える子どもをなだめながら侮蔑の目で私を見つめ、子どもは私を視界に入れようとさえしない。

 そんな光景に出くわしたとき、私はいったい何を思うんだろう? 


「あける」

 名前を呼ばれて、あけるがユリとの会話を中断して振り向く。あけるを呼んだのは、長身で細身の青年だ。講義室に入ってきたときから、その体格からすでに目立っていた。白いTシャツと深い紺色のジーパンがよく似合っている。彼は席に着かず、私とユリにこんにちは、と挨拶すると、あけると会話を交わした。

「これ、辞書。ありがとな」

「ああ、うん。でも今日使わないから、荷物重くなってやだな」

「いーじゃんそんくらい」

「ていうか、焼けたね。まっくろじゃん。黒コゲ」

「この間のロードレースで焼けたんだよ。結果は散々だったけど……」

 彼の名前はハルマといった。彼はあけると違い、私やユリとそこまで親しくはない。しかし、あけるにとっては大学で再会した幼なじみらしく、ときどきこうやって現れてはあけると親しげに会話をした。ハルマは大きな手の平で大きな辞書を掴み、その背表紙でトントンとあけるの肩を軽く叩いた。その手の甲はグローブ焼けのため白くなっていて、その分、日焼けした手首との境界がくっきりと見える。

 ハルマは高校時代にバスケ部の主将を務めており、大学では自転車競技部に入っているということだ。あけるによれば、近々、ストリートダンス部と兼部することも考えているという。運動というものがめっきりできない私にとっては、ハルマという男はおよそ理解ができない人種だった。 

 私は箸を止め、ハルマを見る。ハルマが身につけているTシャツから、惜しげもなく太い腕が晒されている。その腕には、手の甲から肘に向かって青い血管が隆々と伸びていて、生命力と逞しさを感じさせた。そしてそれを持たない自分の体を残念に思う。あれは才能だ、と私は私に言い聞かせる。天から与えられた、類い稀なる贈り物。


 もし私が、あの腕を持っていたらどうするだろう?


「***?」

 名前を呼ばれたことに私が気づいたとき、ユリが私に向かって手を振っていた。

「どうしたの? ちくわに何か入ってた?」

「いや、別に……」

 私はちくわの磯辺揚げを、前歯で挟んだまま考え事をしていたらしい。呼ばれてから慌てて噛み切ると、ハルマが私を見ていたことに気づく。ハルマは私のことには触れず、あけるとの会話を再開した。

「俺さ、この部屋居辛いからさっさと退散するわ。悪かったな」

「そう?」

「だってさ、人文の女子ばっかじゃん……ここに平然といられるお前がヘンなんだって」

 ハルマはそう言って苦笑いをする。そういって肩から掛けていた鞄を再びかけ直し、じゃあね、と私たちにも挨拶をして立ち去っていく。私はさきほどの沈黙が恥ずかしくて、慌てて磯辺揚げを飲み込むと、細切りされた沢庵と白いご飯を口に詰め込んだ。あけるがそんな私の様子を見て、一番に切り込んできた。

「***はさ、ハルマのこと気になってるの?」

 ちがう、と私は首を振る。白飯を頬に詰め込んでいるせいで、声に出して返事が出来ない。

「ハルマくんかっこいいもんね。わかるよ」

 ユリがあけるの言葉に悪ノリをした。大げさに首を縦に振るユリが憎たらしくて、私はぶるぶると首を振り、咀嚼した白飯の向こうから「ちがう」と叫んだ。くぐもっていたので、それがはっきりと二人に伝わったかは分からない。

「残念だけど、ぼくはハルマに彼女がいるかどうか知らないんだよね。前に彼女いないって言ってたのも半年前だし、いまはどうかわからないな~」

 私がハルマのことを気になっている、という前提で話が進んでいく。私が、ちがう、ちがう、と否定しても二人はからかう調子で話すことをやめようとはしない。ハルマもさっき私のことを見ていたが、気があると思われたのだろうか? それは何だかすごく屈辱的なことのように思えた。告白する前から、振られたような気分だ。

 ちがう、ちがう、ちがう。私はハルマのことが気になっているのではない。私が気になっているのは、彼の腕なのだ。太くて固く、何でも持ち上げられそうな丸太のように太い腕。それにくっついた、何でも掴んで握りつぶすことが出来そうな、大きくて広い手の平。私は持っていない物。そしてこれからも持つことが出来ない物。

 もし私があの腕を持っていたら、私は、私は――


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