本当は人間がいい
トウヤ
1
あけるはとても気味が悪い夢を見て、目が覚めた後にその内容を思い出そうとした。
しかし、思い出そうとすればするほど、その輪郭は遠ざかっていく。濃い霧を手でかき分けるみたいに、はっきりとした実体が掴めないのだ。
ぼくはついさっきまで、いったい何に怯えて、何に悲しんでいたんだっけ?
あけるはうす暗い室内にある、ベージュのシーツで覆われたベッドの上で目を覚ます。カーテンがひかれた窓辺からは陽光が漏れ、それを見てあけるはますます暗い気持ちになる。自分を除いたまま、世界が規則正しく動いていることを知るからだ。
壁に掛けられた時計は十時すぎを指している。あけるはそのまま、音もなく、滑るように回る秒針をしばらくの間見つめていた。
それから、あけるはそのままの姿勢で自分の右足のつま先を曲げ、左の脹ら脛を触った。足の指を使って、ゆるやかで固いふくらみを上下にさする。昨日はひどくされたから、そこは痣ができているはずだ。
あける自身は、あの男を顔や声ではなく、手の平で覚えている。だけどその手の平はいつも暗闇の中にあった。前触れなく見えないところから現れ、あけるを捕まえて好き勝手に荒らしていく。
その手の平は、いつも遠慮がない。いつだって子どもじみていて乱暴だ。あけるの外側と内側をかき回していく手つきは、くじ箱に手をつっこみ、がしゃがしゃ探っていく様子によく似ている。そこに何もないとはっきり分かるまで、手首を軸にして延々と回し続けた。そして手の平で皮を掴み、指先で次々と肉を裂いていくのだ。
あけるはベッドから降りて、キッチンに行く。格子柄のトランクス一枚しか身につけていないから、少し肌寒さを感じて、椅子の背もたれにかけてあったバスタオルを取って肩に掛け、冷蔵庫を開いた。そこから水を取り出しコップに汲んで、口をつける。
「いて」
あけるはコップから唇を離し、小さく声を漏らす。口の中に出来ていた傷口に水が染みたのだ。コップの淵には唇で判子を押したような血液の跡がついている。どうやら口の中と唇を切っているようだった。コップの中の水にも血液が混ざって、底の方へ落ちていったが、あけるは気にせず飲み下した。水も血液も、結局自分自身の糧になるんだから、たいして変わりはないはずだ。そういう風にあけるは考える。
あけるはコップをシンクの中に置くと、つぎに体の点検を始めた。右腕を前に伸ばし、手の甲を上に向けたあとでひっくり返す。腕の内側に大きなあざがひとつ。二の腕に青あざがひとつ。左腕も同じように点検する。左肩に噛み跡を見つけて、あけるは唇を尖らせる。こんなの、いつやったんだ?
トランクスを捲りあげ、左右両方の太ももを確認する。太ももは柔らかくて傷がつきやすいから、傷つかないことがなかった。そしてあけるが予想したとおり、赤い跡が残っている。昨日、強くはたかれたんだっけ……。
脹ら脛は先ほどつま先で確認したとおりの痣が浮かんでいた。指先で押しこむと少し痛む。その内出血の跡が痛々しく、意味がないことはわかっていても、あけるは痛みを癒やすように息を吹きかけた。
姿見をのぞき込み、顔も確認してみる。そうすると、左の目元が青くなっていて、右顎が赤くなっていることが確認できた。
あけるの体につけられた傷跡ひとつひとつには、ハルマが棲んでいた。ハルマが不在である今でさえ、その傷跡はあけるにハルマの存在を覚えさせる。あけるは目を閉じれば、いつだってハルマのことをありありと思い出すことができた。
ハルマがどうやって自分の服を脱がせて、どういう風に体を開いていくか。どんな声を出して、どんなことをしてくるのか。させたがるのか。なにが嫌いで、何をしてほしくないのか。あけるは今なら、忠実な犬みたいにハルマの要望に応えることができる。敢えて機嫌を損ねることも、思いのままだ。
最後に、あけるは右の足首を左のつま先で触った。そこには頑丈な鉄の輪がはまっていて、足の指をひっかけて触っても外れる兆しはない。鉄の輪には屋外で飼う犬につけるのと同じ、長い鎖がつけられていた。鎖はあけるがさっきいた寝室の壁にくっついていて、あける一人の力では外すことができない。
ハルマはこんな風にあけるを監禁し、気まぐれで暴行して、好きなだけ強姦している。
あけるとハルマは今から二週間前に出会った。
そのときあけるはヒマで――なんにもすることがなくて、行きつけの喫茶店にいた。
時間は午後三時くらいで、中は閑散としていた。あけるは窓ぎわの席に座っていて、雨が降り出しそうで降らない、という空を見上げていた。ついさっきまで強い雨が降っていたが、既にその雨足は弱まっている。店の中にはあけると、子どもを連れたお母さんがいた。子どもはときどき、「あー」とか「うー」とか、特に意味を為さない声をあげている。
今日は水曜日で、お盆休みや年末でもなく、社会はふつう通りに動いている。
そしてあけるはそのとき無職だった。三ヶ月前に会社を退職し、失業給付をもらう生活を送っている。しかし、失業給付の支給期間は九十日を限度としているため、この少しずつ消耗していく生活も今日で終わりを迎えた。
あけるはついさっきまで対面していた、ハローワーク職員の難しい顔つきを思い出す。
「まあ、あなたは若いんだから、前向きに頑張って……」
あけるとしては、失業給付が切れて、嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちをしていた。失業給付は三ヶ月を限度にお金がもらえる制度だが、その代わりに就職活動をしている報告を行わなければならない。そのために指定された日の指定された時間に必ずハローワークへ行って面談を行わなければならず、それがとても億劫だったのだ。
それに、あけるは当面仕事をしたくない、と考えていた。そのため、履歴書に心のこもっていない志望動機を書いたり、気が進まない面接に出かけたりするのも面倒だった。でも、失業給付が切れてしまえばその必要もなくなる。ハローワークから求人を紹介する電話もかかってこなくなるだろう。
あけるは降り止まない雨を眺めながら、空いた右手でスマートフォンをタップする。何回確認しても、誰からも着信はないし、誰からもメッセージは届かない。あけるはコーヒースプーンを唇で挟んでぶら下げ、柄の部分をぶんぶんと何度か上下させた。
(今、ぼくには誰も用事がないし、ぼくだって誰にも用事がないんだ)
あけるにとって、それはとても良いことのように思えた。いま、あけるは羽が生えたように自由なのだ。
あけるは頼んだドリアを食べ終えると、喫茶店に備え付けられた雑誌を読み始める。男性向けのファッション雑誌だ。あけるはファッションにたいして興味は湧かないが、なにか目を引く記事はないかと捲っているとき、ふと雑誌に大きな暗い影がかかった。
「ここ、座ってもいい?」
「え?」
あけるは雑誌から顔をあげ、声をかけられた方向を向く。
そこには痩せ型の男がいた。男はあけるよりも背が高く、少し年上であるように見えた。あけるがオーケーを言う前に、男は向かいの席に座って店員を呼び、コーヒーを頼んだ。
ブレンドコーヒーを、ホットでひとつください。かしこまりました。
あけるは店員が立ち去ると同時に、男に声を掛ける。
「あの、すみません。ぼくら――知り合いでしたっけ?」
「いや? おれは今日初めて話しかけたと思ってるよ」
男はテーブルへまっすぐ腕を伸ばし、店員が持ってきたお冷やを口に含んで飲み下した。男の振る舞いは、あけるがこの男と旧知の仲であったように錯覚してしまうぐらい、堂々としている。
男は清潔感にあふれた見た目をしていた。短くカットされた前髪、剥き出しになっていて綺麗な頬、薄い唇と平たい目。それに白いシャツを着ている。そのシャツに皺はない。身につけているチノパンツは折り目が正しくついている。靴に目立った汚れはない。その男に悪いとこなんてどこにもない。しかし、あけるは男から嫌な予感に似たものを感じ取っていた。大体、知り合いでもないのにいきなり話しかけてくる男を信頼するわけがない。
面倒な男につかまってしまったな、とあけるは苦々しい気分になる。確かにヒマそうにはしていたが、見知らぬ男にいきなり話しかけられるほど隙を見せていたのか、と落胆した気持ちにもなった。
男は笑みを崩さずにあけるへ話しかける。
「名前、なんていうの?」
あけるは男の問いかけに答えず、伝票を手に取って席を立とうとした。
「タロウです。それじゃ」
しかし、男はテーブルに付いたあけるの右手首を掴み、それを引き留めた。
「まってまって、タロウ」
「なに、離して」
「おれがコーヒー頼んだからさ、それ飲み終わるまで付き合って。会計もおれが全部払うから」
「いやだよ。はなせ」
あけるはすげなく断り、掴まれた手を外そうとした。しかし男の手は、あけるが少し引っ張ったくらいでは全く外れなかった。強い力で掴んでいるというよりは、しっかり嵌まった、という感じがした。
「いいから、いいから……」
男はあけるの手首をさらに強く引っ張り、再びあけるを席に着かせる。男は人差し指を立てて、空っぽになったドリアの皿と、中身が三分の一ほど残っているカフェオレカップを順番に指さした。
「少しだけおれの話聞いてよ。そしたらこのドリアとカフェオレが無料になるんだから、悪くないだろ」
「はあ……?」
あけるは男に掴まれた右手首をさする。もう男の手は外されたのに、なぜかまだ掴まれているような気がした。熱い体温と、滑らかな皮膚と硬い骨。その感触があけるの細い手首を握ったまま、離れていこうとしない。そのことが気味悪くて、あけるは準備運動で手足をほぐすときのように手首をぶらぶらと振った。
ややあってから、店員がホットコーヒーを持ってきた。男はコーヒーにピッチャーからミルクを全部入れると、砂糖は入れずにすすった。
しびれを切らしたあけるが、用件は何ですか、と聞くと、男はあいまいに笑った。
「おれ、警戒されてる?」
あけるはその質問に答えなかった。ふたりの間に、しんとした静寂がかたまり状になって漂う。男はその沈黙の重さをなんとも思っていないように、ゆうゆうとコーヒーの二口目を啜って、それからやっと用事を口にした。
「タロウさ、おれに飼われてみない?」
男の言葉に、一度あけるの思考が凍りつき、正しく理解するためにもう一度質問を繰り返した。
「……なんて? かう?」
「うん、そう。『飼う』。ペットみたいに」
男はコーヒーカップから指を離し、その指をあけるに向ける。
「おれ、この近くに住んでるんだけど、喫茶店に来るタロウのことよく見てたんだ。それで、飼いたいと思った。ご飯もあげるし、寝るところも作るよ」
男は顔色を変えずに、気取ることもなくそう言った。
この男は、人間を、それもこの「ぼく」を飼いたいと言っている。
――正気なのだろうか?
男はあけるが返事をしないことにも構わず、あけるを飼いたい理由を続けて述べた。
「小さい頃から生き物を飼うのが好きなんだ。実家では犬と金魚を飼ってたし、ヒマがあればトカゲとか、カブトムシを飼ってた」
男はそう言いながら足を組み替えた。
「ただ、働きだして一人暮らしすると、生き物の世話をする時間が取れないんだ。それが結構ストレスでさ……。だから、ほっておいても大丈夫なものを飼おうと思ってて」
「それで人間を飼うことに決めたんですか?」
あけるは男の話が終わる前に、皮肉を込めて、糾弾するように言ったつもりだった。でも、男はそのことに気づいているのか、あえて気づいていないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか、気圧される様子もなく言った。
「そうそう。人間なら、ちょっとくらい世話をさぼっても大丈夫だから。死ぬこともないだろ。家にいてくれて、ご飯をあげて……たまに散歩につれていくんだ。気が向いたらかわいがる」
罪の意識をまったく感じていない表情で男はそう言った。まるであけるがノーと言うことを想定していない口ぶりだった。
「そういうこと、ぼくはしない。他の人をあたって」
あけるは今度こそ男の制止を振り切り、伝票を取り上げてテーブルを立った。レジで自分が食べたドリアとカフェオレの代金を払うと、足早に喫茶店を出る。
この喫茶店は雰囲気が良い割に人の出入りも少なく、あけるが気に入っていた場所だった。しかし、あんな男に見張られていたのかと思うと気持ちが悪くて、もう二度と使うことができない。
あけるは喫茶店を出て、歩きながら傘を差す。もしかしたらこの後、男に尾行されるかもしれないから、どこかに立ち寄ろう。そんな風に考えたとき、あけるの後頭部に強い衝撃が走った。
「――だから、人の話聞けって」
あけるは自分が握っていたはずのビニール傘が手の中から抜けて、濡れた地面の上に逆さまになって落ちていくのを見た。少し遅れて、あけるは自分が誰かに何かで頭を強く殴られたということに気がつく。
「大丈夫? 死なないで。病院とか、連れて行けないから」
倒れたあけるの腰と背中を支える男の手は、広く温かく、思いやりに満ちているような気がした。でもけして忘れてはいけないのは、あけるはその思いやりに満ちた手で頭を殴られたということだ。
あけるは雨と衝撃のせいでぼやけていく視界を眺めながら、さっきまで自分と会話していた男の声を聞いた。
「本当はさ、こんな手使いたくなかったんだ。昆虫採集じゃないんだからさ……」
地面に落ちた傘を拾い上げられ、あけるは濡れた地面に横たえられた。そのことを濡れた頬にあたる、ごつごつしたアスファルトの感触で知る。連れ去られてしまうのか、とか、抵抗しないといけない、とかを考える前に、あけるが最後に心配したのは男が飲んだ珈琲代のことだった。
次にあけるが目を覚ましたとき、彼は知らない部屋に寝かされていた。ひどい頭痛に叩き起こされる形で目が覚めたため、気分はこれ以下を考えられないほどに悪かった。
頭の痛みは強く殴られたときの、外傷による痛みだった。しかし精神的なショックにより内側からも痛んでいて、あけるの頭は内からも外からもひどく痛めつけられた。あけるが右手を頭の後ろに伸ばして痛みの元に触ってみると、ぬるぬるとしたものに触れ、血が出ていることを知る。あの男に殴られたときのケガだろう。
まだ生きている、とあけるは思う。
しかし、まだ生きてしまっている、ともあけるは思う。
それからあけるは頬にちくちくとした肌触りを感じ、自分が見覚えのない絨毯の上に寝そべっていることを知る。絨毯は薄い安物だが、白地に赤と緑を使ったペルシャ柄の文様がプリントされている。頭を起こすと、けがをしたところから流れた血で絨毯が少し汚れていた。
あけるは体を起こして、今自分がどんな場所にいるかを見定めた。
部屋にはベッドがひとつ、カーテンがひとつ、書き物をするための机がひとつあった。
ほかにもティッシュや殺虫スプレーといった日用品が置かれた棚や、姿見などがある。あけるの体には合わなそうな、サイズの大きいダークスーツも椅子の背もたれにかけてあった。一人暮らしをしている、と話していたが、その割に片付いている。
あけるはその部屋の隅にしかれたカーペットの上に、物乞いのように寝かされていた。
ぼくはあの男に殴られてから、この場所に連れてこられたんだろう、とあけるは考える。しかし、まわりを見渡してもあの男は見当たらない。自分があの男から見知らぬ誰かに引き渡されてしまったのかもしれないし、いまだあの男の管轄下にいるのかはわからない。そのことにあけるは足下が揺らぐような恐怖を覚える。
次に、あけるは自分の体を見てみる。身につけていたはずの衣服は一枚もなかった。トランクスだけを穿いているが、そのトランクスも見覚えがあるものではない。おそらく着ていた服――ジャケットや、シャツや、靴下なんかも、あの男がいちど全部脱がせてから、トランクスだけを穿かせたのだろう。自分が気絶している間に服を脱がされた気味の悪さに、あけるは身震いをする。
そして、いちばん絶望的だと思ったのは、右の足首に足かせがついていたことだった。それは冷たく、分厚く頑丈で、指でひっかいたくらいでは取ることは難しそうだ。そしてそれには輪っかがついていて、鎖がぶら下がっている。鎖の先は、壁に嵌めこまれた輪っかにつながっていた。それは壁にしっかりとボルトで固定され、取り付けられている。鎖をひっぱってもびくともしない。
現状を確認すればするほど、あけるは自分がいやな事態に巻き込まれたことを認識していく。
あけるは今、知らない男に拉致されて、衣服を剥かれて監禁されているのだ。
あけるが寝そべっている絨毯の対角には、ドアがあった。擦りガラスになっていて、その先は分からない。しかし、しばらくすると、そのドアの向こうが俄に騒がしくなった。靴を脱ぎ捨てて三和土に落とす音や、鍵が揺れてぶつかる音がした後で、部屋のドアが開いて元凶の男が顔を覗かせた。
「あ、起きた?」
男は買い物袋を床に置くとあけるの前まで歩いてきて、長い足を畳んでしゃがみこんだ。その顔は喫茶店で初めて会ったときと同じ、人好きのする笑みを浮かべている。
「タロウを飼うことになってさ、色々買ってきたんだ。服とか、下着とか、歯ブラシとか。他に欲しいのある?」
男はまるで親しい友達のようにあけるに話しかける。あけるは男の、残忍なまでに陽気な態度を心底気味が悪いと思い、堅く口を閉ざす。男はあけるの様子に構うことなく、あけるの頭を掴み、頭の傷がよく見えるよう無理に後ろを向かせた。
「あー、まだ頭の傷、血が止まってないね。一応包帯巻いておく?」
自分が付けた傷なのに、本当に心配しているかのように男は振る舞う。
男がフレンドリーに話しかけるのに反し、あけるは顔をしかめ男から顔を背けた。しかし、男はあけるの態度に気を悪くした様子はなく、むしろますます面白がるように笑みを深めた。
あけるの頭を撫でながら、男が言う。
「ねえ、名前教えてよ。本当の名前。タロウじゃなくてさ」
知ってるくせに、とあけるは苛立つ。鞄も盗られているから、この男は財布のなかに入っている運転免許証を見たはずだ。あけるは頭を振って男の手から逃れようとしたが、男は強く右手で頭のうしろを掴むと元の位置に戻した。男の有無を言わせない雰囲気に、あけるは少し怯む。
「……知ってるだろ」
あけるがそう素っ気なく返事をしても、男は執拗に懇願を繰り返す。
「そうじゃなくてさ~、タロウの口から聞きたいんだよ」
男は愛撫のように、あけるの右耳を少し引っぱった。
なまえ、教えてよ。
名前を言うまで男は引き下がらないことを察し、長いため息を吐き出したあとであけるが答えた。
「あける」
「あける?」と男が復唱する。
「明るくなる、の漢字一文字で、明(あける)」
あける、あける、と男が気に入ったように繰り返す。
「おれはね、ハルマ」
男が聞いてもいないのに、勝手に名乗る。
「ハル、って呼んでいい」
あけるが何も答えないでいると、ハルマはあけるの顔を真正面から掴み、親指で右の頬を、残りの指で左の頬をつぶして、あけるの唇を中心に向かって歪ませた。
「ハルって呼んでよ」
「……ハル」
「そうそう」
あけるが名前を呼ぶと、ハルマは「いい子いい子」と言って、まるで本当の犬にするように寝ぐせのついた髪の毛をかき混ぜる。
「じゃあ、メシ作ろうかな。なんか食えないモンとかある? カレーにしようと思うんだけど」
ハルマは立ち上がり、買い物袋の中身を冷蔵庫の中に詰め込み出す。あけるはハルマからの呼びかけに答えず、背中を向けて絨毯にうずくまった。空調が効きすぎていて、下着しか身につけていない体には堪えたのだが、あけるはそれをハルマに言う気持ちになれなかった。
こうしてあけるはハルマに捕まり、飼われることになった。
よく雨が降る六月の、水曜日のことだった。
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