第4話 約束の橋

 カップラーメンを食べたあと、ゆっくりと時間をかけタバコを二本吸った。何度も酒の方に目がいったが、ぐっと堪えた。晩に出かけなければならない。内海は潔く酒を諦め、少し眠ることにした。半年ぶりに活発に動き、多くの人と触れ合ったため疲れたが出たのだろう。ベッドに入ると、すぐに意識を失った。


 夢を見た。内海が教卓に立ち、生き生きと生徒に授業をしていた。生徒たちも笑顔で授業を受け、教室の中は和気あいあいと輝いている。内海は満足し、教員になれたことを感謝した。黒板から目を離し、廊下を見てみると、父が温かな目をして微笑み、頷いていた。内海はまた、教員になれた喜びを噛み締める。


 目覚めて、内海は夢の内容に驚いていた。心のどこかでは、このような願望があるのかと。まるで夢見る少女のようだ。


 約束の時間になり、内海は外に出た。半年前の事件のあと、中原家は引っ越した。内海はそのことを忘れ前の家に向かおうとし、急いで舵を切り直した。

 あおいの父である直哉(なおや)は、親から引き継いだメッキ工場を切り盛りしている。商売が上手いらしく、このご時世でも業績を伸ばしていた。あおいもたまに手伝いを行い、お小遣いを稼いでいるようだった。

 それから数十分後にあおいの家についた。車を敷地内に停め、降りる。玄関扉の横にあるチャイムを押した。スピーカーから香織の声が聞こえ、内海は名を告げた。


「ああ、凛ちゃん。入って入って」

 内海は返事をすると、扉を開け中に入っていった。靴を脱いでいると、香織が出てきた。茶色い髪の毛は後ろで結び、おでこをすべて見せていた。左胸に赤いバラの刺繍が入った黒いエプロンをつけ、両手を拭いている。四十代前半のはずだが、肌も若々しく艶があり、三十代に見えた。それを告げてやると、大いに喜ぶのだ。

「いらっしゃい、凛ちゃん!」と香織は笑顔で言った。元気があるところは、あおいとそっくりである。

「ご馳走になるよ、香織さん」

「いっぱい食べてね。さあ入って」


 靴を脱ぎ、香織についていく。

 リビングは広く、フローリングは床暖房を備えているようでほんのりと温かかった。入口から入ってすぐ左手にはキッチンがあった。黒色の木目のテーブルが真ん中にあり、その奥には四十インチほどのテレビが壁にかかっている。高視聴率を取っているクイズ番組が映っていた。

 あおいの父である直哉は椅子に座り、テーブルに肘をつきテレビを見ていた。効果音と共に正解が映し出され、出演者と同じタイミングで驚きの声を上げた。


 こちらに気がつき体を向けると直也は笑った。「お久しぶり、凛ちゃん」

「お久しぶりです、直哉さん」

 香織は内海の背中に優しく左手を添えると、体を前のめりにし顔を覗き込んだ。「さあ、凛ちゃん座って」

「ありがとう」

 内海がテーブルに向かうと、香織はキッチンへ向かった。椅子に座ると、食卓に並んでいる料理を見た。真ん中にある鶏の唐揚げは、ゆらゆらと湯気を立ち登らせ鎮座していた。他にもポテトサラダや漬物などがあった。


「あおいももうすぐ来ると思うわ」と香織は言った。「凛ちゃん、昔から唐揚げ好きだったよね? いっぱい食べてね」

「うん、ありがとう」内海は気恥しくなりながら言った。

 香織はスープを入れており、運ぶのを手伝おうと立ち上がると、直哉が手で制し、お客さんは座っておいてよと言った。直哉は立ち上がると、スープを取りに行き、内海は仕方ないので座り直した。


 スープを運び終えたところで、あおいがリビングに入ってきた。内海を見ると人懐っこい顔で笑った。

「いらっしゃい、内海先生」

「お邪魔してるよ、あおい。けど先生先生って、あまり茶化さないでくれよ」

「へへっ、それはどうだろうね」とあおいは悪い顔を浮かべ、内海の隣へ座った。

 香織が夫の横に座ると、直哉は手を合わせ頂きますと言った。それに合わせ内海たちも手を合わせた。

 久しぶりの家庭料理である。思えばこの半年間、ろくなものを食べていなかった。酒の量は増えたが、体重は五キロも減ってしまった。

 唐揚げを一口食べる。歯で突き刺した身から肉汁が溢れ、口全体に醤油と生姜の旨みが口いっぱいに広がった。しっかりと味が染みている。ピリピリと舌が熱くなった。

「どう、凛ちゃん、美味しい?」

「ええ、とても。ビールが飲みたくなるよ」

「飲みなさい飲みなさいって言いたいところだけど、飲酒運転をさせるわけにはいかないしね」

「そうね。元刑事で、しかも現教職員が飲酒運転をするわけにはね」

 直哉はごくりと唐揚げを飲み込み、ビールをあおると、

「凛ちゃんが先生になるとはなあ」と言った。「驚きだよ、しかもあおいと同じ学校の先生だなんてな。けれど凛ちゃんがいてくれたら、俺たちも安心できるよ、本当に。なあ、香織」

「そうね。本当に心強いわ……もうあんなことは……」


 すると、沈黙がこの場を包んだ。


 テレビでは今売り出し中のアイドルが問題に答え、かすかな間のあと不正解の効果音が鳴った。香織は気まづそうに視線を逸らした。直哉はちらりと落ち着かなさそうにあおいを見ると、ビールを飲んだ。あおいが立てる箸と茶碗の音が、部屋に響いている。

 この家庭も、まだ半年前の事件を引きずっているのだ。忘れろというのが無理な話である。


 沈黙のベールを破ったのは香織だった。「でも私は嬉しいなあ、凛ちゃんが、兄さんと同じ教師の道を進んでくれるんだもの。凛ちゃんなら、いい先生になれるわ」

「ありがとう。でもなにか失態があれば、保護者会で庇ってね」

 香織は口に手を持っていき声に出し笑った。「そうするわ」

「凛姉ちゃん凄く立派だったんだよ、お母さん」とあおいは言った。

「どうして?」

「全校生徒の前で挨拶したんだけど、堂々と話してね、笑いも取ったんだよ? 新人なのに」

「それは凄いね。やっぱり凛ちゃんは教師に向いてるんだよ、兄さんの子供だもの。凛ちゃんもそうは思わない?」


 父と娘の繋がりというのを、どうやら香織は確かめたいらしい。葬式のときにも涙を見せなかった内海から、ちゃんと兄を愛しているのか聞きたいのだ。大好きな兄を想うからこその確認だった。


「そうかも知れないね」と内海は言った。

 香織はほっとしたように微笑んだ。「そう思うよね。兄さんはできた人だったし、熱意もあったから──」

 香織は心地良さそうに遠い目をし、回顧していた。思い出の野原を、香織は駆けているのだろう。


 食事会は楽しいものになった。昔話や世間話に花が咲き、出題されたクイズを出演者と一緒になって考え、一喜一憂した。

 食事を終えると、あおいは薬を取り出し飲んでいた。元気があるといっても、まだ精神科に通っていた。あの薬を飲まなくてよくなる日は、いつやってくるのだろうかと、内海は考えた。

 また食事会をすることを約束し、内海は中原家をあとにした。


 車に乗り込み、エンジンをつけ発進する。

 夜空に星がぽつぼつと浮かび、車のテールランプが闇の中で光っていた。夜も眠る準備に入っているらしく、静かだった。走る車の音も、いつもより小さく感じる。

 ラジオをつけると、父も母も好きだった佐野元春の『約束の橋』が流れた。幼い頃、ドライブに連れていってもらうと、この曲がいつも流れていた。内海は後部座席で、楽しそうに歌っている父と母の横顔を見ていた。


 母は小学五年の頃に亡くした。顔はもちろん覚えている。写真に残っているからだ。だがどんな声だったか、どんな仕草をしていたかは、忘却に喫した。夢の中では再生されるが、目覚めると霧がかかっていた。歳を重ねれば、やがて父の記憶もそうなっていくのだろうか。

 父が亡くなったのは最後の事件が起こる、一月ほど前だった。署内でも顔には出さないように努力していたが、心は軋む音を立てていた。

 約束の橋が終わり、ラジオDJが喋り出した。またどこかで約束の橋を聴くとき、内海は父と母の思い出を再生する。それまでに霧がかかっていないことを、願うばかりだった。

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