第2話 学び舎へ
冬休みの数週間前に試験があった。校舎の中はひんやりとし、鼻先がつんと冷たくなった。においやこの空気感は、とても懐かしかった。
試験の手応えはそれなりにあった。特に緊張もなく、模擬授業もこなすことができた。合否は追って連絡します、と言った試験官の表情は柔らかだった。これで不合格ならば、あの試験官の演技と冷徹さには目を見張るものがある。
それから数日が経ち、合格の通知が届いた。これで三学期からの着任だ。お祈りを受けずに済んで良かった。
その日、久しぶりに武藤からメールがあった。
『頑張れよ、先生』
試験を合格した前提の内容だった。ありがとうございます、とかつての相棒に一言だけ返信を送った。
内海は学校の廊下を歩いていた。今日は始業式、内海の着任日でもあった。試験のときとは違い、廊下には生徒たちがいた。きめ細やかな張りのある肌をし、元気いっぱいに友達と冬休みの思い出を語っている。希望桜高校は進学校のため、校則も厳しいらしく化粧をしている生徒を見かけない。髪の毛も長ければ後ろで結ばなければならないらしく、みな似たような髪型だった。
個性を大事にする教育とうたっているわりには、矛盾が散見する。
この厳しい校則は、帝国日本軍における軍事教練の名残であろう。最近は髪型や服装が自由の学校が増えていると聞くが、浜辺の中に混じった翡翠のように珍しいだろう。
職員室の前には喫煙室があった。タバコを吸える場所も、近年は珍しくなっている。喫煙室を設けてくれていて、ありがたい限りだ。先に喫煙室に入りたかったが、ぐっと堪え職員室の扉を開けた。内海の頭の中には、煙を吸い安らいでいる自分の姿があった。脳が、速く吸えと言っているのだ。家にこもっていたときにはない、久々の感覚。刑事をしていた頃以来だ。
職員室に入ると、席についている教員たちがいっせいにこちらに顔を向けた。珍しいものを見るかのように、好奇心でいっぱいだった。内海は小学五年の頃に転校した初日を思い出していた。教師になって、もう一度経験するとは思わなかった。
教頭らしい五十代の禿げた男がやってきた。百七十ある内海よりずいぶんと身長が低い。百六十くらいだろうか。
「教頭の岡野(おかの)です。では、まず校長先生に挨拶に行きましょうか、内海先生」と教頭は言った。
「……はい」内海は先生という言葉に違和感を覚えていた。
なおも好奇心の目に晒されながら、職員室を横切った。教頭が校長室の扉をノックし、返事が戻ってくると扉を開け、失礼しますと言いながら中に入っていった。内海もあとに続く。校長の後藤(ごとう)は香川とは違いやせ細り、目元は鋭かった。だが話し方は柔らかく、愛嬌を感じられた。年配者の余裕だろうか。挨拶をし、校長から労いの言葉をもらうと部屋を出た。
「朝礼の前に先生方に挨拶しましょうか」と教頭は言った。内海は頷いた。
教頭のデスクは教師連中を見据えるように壁際に位置している。その前に教頭が立ち、内海は一歩下がった左側に立った。すると教師連中が一斉に立ち上がり、体をこちらに向けた。
「みなさん、おはようございます」と教頭は頭を下げた。
教師連中も挨拶し頭を下げた。内海はタイミングを逃し、目を少し下げるだけだった。それを前にいた縁のないメガネをかけた四十代の女教師に見られ、訝しげな表情をされた。礼儀のないやつ、と思われたのかも知れない。あながち間違いではないため、弁明の余地もなかった。
「朝礼の前に、新しく入ってこられた内海凛先生のですね、ご挨拶から参りたいと思います。では、内海先生」
内海は一本前へ出て当たり障りのない挨拶をし、頭を下げた。拍手がなり、まばらに消えていくと、教頭は笑みを見せながら言った。
「内海先生はですね、以前まで捜査一課の刑事さんとして働いておられたのです。いやあ、貴重な経験をされた方が我が校にやってきてくれましてね、嬉しい限りです」
へえ、と驚きの声が起こり、ザワザワと雑音が生まれた。驚いているような表情をしているものもいれば、眠った気な目をしているものもいる。内海としては、後者の方が落ち着いた。
教頭は体を捻り、にこにこと笑いながらこちらに向いた。「元刑事ということもあって、やっぱり雰囲気ありますねえ。女デカの気品さといいますか。いやあ、かっこいい」
「いえ、そんなことはありませんよ。刑事だったという先入観がそうさせるだけです」
「そうですかね?」
「ええ、もちろん。それに安心してください、スピード違反をしたとしても、通報はしませんので」と内海は笑みを見せた。
かすかに笑い声が起こった。教頭はますますにこにこし、目を細めた。縁のないメガネかけた先ほどの教師は、いっさい表情が動いていない。教育熱心だが、生徒からは好かれない損な役回りの教師だと、内海はみた。
教頭にデスクの場所を教えてもらい、内海はそこへ向かった。
朝礼の内容は最近の生徒の様子や、近隣住民の苦情を報告するといったものだった。そして教頭が、問題に取りかかるようにと教師を指定した。刑事をしていた頃も、事件があるとそれぞれが命令を受けていた。聞き込みをするもの、遺族に会いに行くもの、署で書類をまとめるもの。そう考えれば、あまり刑事時代と変わりはなかった。
朝礼が終わると、すぐさま始業式があるらしく移動が始まった。どうやらタバコはおわずけらしい。まさか始業式をサボり、タバコを吸うわけにもいかない。内海の頭の中にはまた、煙を吸い安らいでいる自分の姿があった。
教頭に連れられ、体育館へ向かった。廊下には大量の生徒たちが目的地に向かって歩いていた。内海はかつての職業柄、この者たちの何人が犯罪に巻き込まれてしまうのだろうかと憂いた。
首を捻り、この大軍の中からあおいの姿はないか確認してみたが、成果は得られなかった。いずれ顔を合わせることになる。焦る必要はない。
体育館の中はひんやりと冷たく、体温が奪われていくのがわかった。吐き出す息は白い。電気ストーブは焚かれていたが、体育館のこの面積にはあってないようなものだった。特に生徒らはスカートのため、教師たちよりも寒いだろう。それから数分後に全生徒が集まった。約三百人ほどであろうか。綺麗に整列し、私語もなかった。教育が行き届いているということか。
校長の後藤が登壇し、講演台に置かれてあるマイクをコンコンと叩き音を拾っていることを確認すると、挨拶をした。生徒も教師も頭を下げ、おはようございますと言った。今度は内海も出遅れることなく頭を下げた。
「ええ、新年明けましておめでとうございます。まずわたしの話の前に、このたび着任されました内海先生より、ご挨拶を承りたいと思います」
校長は一礼し、降壇した。内海は歩き出し舞台に上がった。刑事時代に染みついた、いかめしい顔を浮かべていた。笑顔を作るのも、いささかおかしな気がしたのだ。
講演台の前に立つと、生徒らを見据えた。約三百人の視線が一点に集中している。だが緊張はなかった。捜査会議などで人前で話すことも多々あった。マル暴の強面連中の前でも行ったことがある。あのいかめしい面々に比べれば、三百人の前で話すなど容易いなことだ。
内海は笑顔を見せている父を思い浮かべ、話を始めた。
「みなさん、初めまして。一年二組の副担任になりました、内海凛です。よろしくお願いします」マイクで拡張された声が、体育館に響き渡った。ハキハキとした力のある声だった。生徒たちを萎縮させたくはなかったが、これは捜査会議で馴染んでしまったもの。今更変化させるのは難しい。
だができるだけ柔らかく聞こえるよう、
「担当教科は社会です。新米で至らないところはあると思いますが、みなさんと一緒に勉強していけたらと思います。
実は私、元々は刑事をしておりました」
生徒たちは隣のものと顔を見合わせ、ザワザワと騒がしくなった。やはり元刑事というのは珍しいらしい。
生徒指導の体格の良い坊主の教師が生徒らに注意すると、ぴたりと話し声は止んだ。生徒指導ということもあり、恐れられている様子だった。教師の方もそれを理解し、腕を組み威張っていた。
「この刑事という経験を生かせるかはわかりませんが、警察に興味がある方、質問大いにけっこうです。どのようにして捕まらず悪さができるかを教えることはできませんが、それ以外は遠慮なく質問してください」
くすくすと笑い声が聞こえてきた。教師たちも笑みを見せていた。いかめしい顔を浮かべ、生徒たちに緊張を与えたままでなくて良かった。媚を売るつもりはないが、せっかく教師をやるのなら、生徒とは上手く付き合っていきたい。誰だって嫌われたいとは思わない。
挨拶が終わり、頭を下げると拍手が生まれた。降壇すると、次に校長が登っていき、話を始めた。やはりいつの年代でも、校長の話というのは、長くテンポが悪くつまらないものだった。眠ろうとしない生徒たちを、褒めてやりたかった。
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