祈りながら生きてきた

タマ木ハマキ

一章 元刑事から教師へ

第1話 元刑事

 内海(うつみ)凛(りん)が警察バッジを置いて半年が経つ。この半年間はなにもしないでいた。目標を失ってしまったからか、やる気も元気も出ず、中身のない毎日を送っていた。警察だけでなくタバコも辞めてしまおうと画策し挫折したのが、数十回とくだらない。そんな中身のないくだらない日々だった。

 酒も毎日のように浴び、素面より酔っている時間の方が長い。一般サラリーマンが酔っている時間と、内海が素面でいる時間を比べれば、いい勝負になりそうだった。

 たまに知り合いから電話がかかってきても、新しい洋服を買っただとか、旦那が最近冷たいだとか、極めてどうでもいい内容だった。それに合わせどうでもいい話をするが、あくびを何度噛み殺したかわからない。

 ただし中身のない毎日でも、人生を豊かにする素晴らしい毎日でも、半年という月日が経つのは早いものだ。時間の流れはみな同じ。半年という時間を棒に振るかどうかの違いである。


 内海は目覚めると、時計に目をやり朝の八時半であることを確認した。寝室を出て、リビングに入る。昨日の晩、寝る前に飲んでいた赤ワインがテーブルの上に置いてあった。けっして上物ではない酒屋で買った安物のワインだが、陽の光でキラキラと輝き、存在を示していた。飲んでくれと、訴えかけている。グラスを取り、ワインを注いでいく。赤く黒い液体に鼻を近づけ、匂いをかいだ。アルコール特有の刺激の強い匂いがした。ワインの匂いは、内海の眠気を確実に追い払った。

 もちろん、朝から酒を飲むのは良くないことだと知っている。このままではダメ人間になってしまうと、ずいぶん前から警鐘が鳴り続けている。今もだ。

 だが飲んでしまうのだ。ダメ人間になってしまっているのだ。


 一口飲み、満足げに吐息をつく。グラスをいったんテーブルに置き、洗面台に向かった。

 洗面台には水滴がついており、電気を入れると淡いオレンジの照明に合わせるようにいっせいに光だした。なぜか水滴たちが笑っているように見えた。それだけ笑いというものに飢えているのかも知れない。

 蛇口を捻るとその水滴たちは巻き込まれ、渦となり排水口に吸い込まれていった。頭に鳴り響いていた笑い声は、ぴたりとやんだ。

 両手を蛇口にもっていき、顔をじゃぶじゃぶと洗った。目を瞑っていると、最後に担当した事件の映像がまぶたの裏に流れた。相棒だった武藤(むとう)慎也(しんや)の丸い顔、署のデスクで悩み目を瞑っている自分の姿、山奥の丸太で造られた家、そして従妹である中原(なかはら)あおいの憂いを帯びた笑み……。車内から見る景色のように、次々と映像が流れていった。


 …………

 目を開け、鏡を見れば生気のない目をした自分の顔があった。水滴が、その生気のない目や、弱々しく閉じた口のそばを滴り落ちていく。あまり見たくもない顔。酒を煽りたくなる顔。

 ハンドタオルで顔を拭き、リビングに戻ってくると、ソファーに座りワインを飲んだ。テレビをつけるとワイドショー番組がやっていた。政治家の汚職や殺人事件といったお馴染みのニュースを報道している。カメラを見据え、鹿爪らしい顔でコメンテーターはお馴染みのコメントを述べている。主婦たちがいかめしい顔をして、テレビの前でこくこくと頷いているのが容易に想像できた。

 内海はメンソールのタバコを一本取り出し、くわえた。ライターが見つからず、体を捻り探していると、スマートフォンに着信があった。見慣れない番号からだった。


「だれ……」と内海は呟いた。


 目を細め三秒ほどスマートフォンを眺め、手に取った。考えていても埒が明かない。

「もしもし」と内海は火のついていないタバコをくわえながら言った。

「もしもし、内海凛さんの携帯電話で合っていますでしょうか?」

「はい、そうですが」

 内海は体を捻りライターを探し続けた。頭は煙の気分でいっぱいだった。

「ああ、良かった。覚えていますか、香川(かがわ)保(たもつ)です。河ヶ崎高校の校長の」

「ああ、香川さん……」内海は捻っていた体を戻し、真面目な声で言った。くわえていたタバコをテーブルの上に置いた。

 最後に担当した事件で、河ヶ崎高校とは関わりがあった。あおいが以前、通っていた高校だ。

 昔、ラグビーをしていたらしく香川は恰幅の良い体格をし、身長も百八十と高かった。子供たちが恐れてしまいそうな風貌だが、偉ぶる様子もなく、目尻にしわを寄せて笑う顔は、見るものに安心を与えた。彼には愛嬌があった。

 だがどうして電話番号を知っているのだろう。以前の同僚の誰かから教えてもらったのだろうか。そうだとしても、用件はなんなのだろう。


「突然のお電話申し訳ない」と香川は言った。「電話番号はお願いして武藤さんから聞きまして」

「やはりそうですか。それでご用件は?」

「はい、内海さんは教員免許を持っておりましたよね?」

「ええ、そうですが」

「でしたら教師になりませんか」

「教師?」

「ええ、姉妹校が教員を募集していましてね、わたしは内海さんを推薦したいんです」

「は、はあ、そうですか」

「元刑事のかたに指導して頂けましたら、生徒たちの今後のためにもなると思いまして。あちらの関係者に話しましたら、大いに賛同してくれました。もちろん試験はありますが、どうです?」

「そうですね……」


 内海は視線を下げ、考えた。いや悩んだ。

 学生の頃、父親と同じ教師を志したことがあった。だから教員免許を取得した。だが自分に教師は向かないと思った。柄ではないと。そうしてもう一つの夢だった警察の道を選んだ。その道も熱意を持ってやれると確信していた。結局は、警察にも向いていなかったのだが。


「その学校の名前は希望桜高校です。聞いたことありませんか?」

「希望桜……、確かあおいが通ってる女子校の……」

「そう、そうなんです。内海さんが教師としていれば、新しい環境に向かったあおいさんの力にもなると思います。確かあおいさんとはいとこでしたよね? 内海さんも心配なされてるんじゃないですか?」

「ええ、まあ」

「ならどうです?」

 内海はなにも答えず考えた。いい話であることは間違いない。香川の言った通り、あおいの心配もある。だが教師は一度諦めた道。子供たちのエネルギーに触れるというのも、生半可な気持ちではできないだろう。


 そのとき、内海は父の顔を思い出した。

 生徒のことを楽しそうに話し、恥ずかしそうに自分の教育理論を語っていた表情。メガネをかけ、家で勉強していた姿。それらが必然的に思い出された。父は教師の道を進んだことに後悔はなかっただろう。なにも言わなかったが、娘にも教師の道を歩んでほしかったはずだ。警察になると父に告げたとき、瞳の中には確かに悲しみがあった。

 思えば、ろくに親孝行もできないままだった。棺の蓋を閉め、父を送り出し、内海の中にはその後悔しかなかった。


「その話、受けさせていただきます」

「本当ですか、それは良かった」香川は嬉しそうに声色を明るくしたが、元からわかっていたかのように驚きはなかった。「きっと内海さんならいい先生になれますよ」

「ありがとうございます、ですがまだ受かったわけではありませんので」

「はは、それもそうですね。けど便宜は図らせてもらいますよ。では試験の日時などは追って連絡します。この電話番号でいいですよね」

「ええ、お願いします。それでは」

「はい」


 通話を終えると、吐息をつきスマートフォンをソファーに置いた。

 内海の専門教科は社会である。便宜を図るといっても、勉強をしなくてはならない。

 希望桜高校は女子高だったはずだ。女子生徒の扱いは、それこそ不良少年よりも難しいという。ある程度、予備知識なり振る舞い方を身につけなくてはならないだろう。

 それにしても、教師か──

 グラスを手に取り、反射する顔を見た。まぶたは眠たげに落ちていたのに、今は瞳をしっかりと見せ、かすかではあるが口角も上がり、生気というものが感じられた。わかりやすい変化だ。香川に感謝しなくてはならない。

 とりあえず、今はタバコを吸い、ワインを飲もう。もし教員になれば、朝から飲むことなどできないのだから。

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