14 あと、二日

 客室用電話機の呼び出し音で僕は目を覚ました。モーニングコールは頼んでいないんだけどなあ。そう思いながら電話に出ると、来客があると教えてくれた。時計を見ると六時半だった。

「タンジイが危篤だよ。さっき、連絡があったんだ」

熊のマスターの言葉で、僕は一気に目が覚めた。頭がジンジンしてきた。だって絵がまだ完成していない。あの絵が完成するまで、タンジイは死ぬはずがない。嘘だ。これは夢だ。僕は慌ててもう一度布団に入った。マスターは、僕の布団を剥がしてもう一度言った。

「タンジイがもうすぐ亡くなるんだ! 」

熊のマスターは固まってしまった僕の背中をポンとたたき、起きて服を着替えるように促した。

タンジイの家へはここから十分ほど歩いたところにある。マスターと僕はその間、一言も言葉を交わさなかった。タンジイの家に一秒でも早く向かわなくては。ただそれだけだった。

家に着くと、タンジイは布団の中で、ぜーぜーと苦しそうに呼吸し、白衣を着た医者らしき男が手首の脈を取っていた。繭ばあはその顔をじっと見つめていた。その目線をタンジイに向けたまま言った。

「丹木じいはお前さんが来てから本当に楽しそうやった。お前さんのことがたいぎゃ好きやったとなあ。それを見て、私もたいぎゃ嬉しかったばい」

毎日通っていたこの家で今、僕の本当のじいさんが息を引き取ろうとしている。向日葵が玄関から叫んだ。

「繭ばあ、迎えに来たよ。一旦うちに帰ろう」

ばあさんは大きく息を吸い、目を瞑りながらゆっくりと立ち上がった。

「亡くなったら、お前さんが体ば拭いてやってくれんね。こやつも喜ぶと思うけん。どうか頼みます」


 熊のマスターの奥さんがひっきりなしに親戚や知人に電話をしていた。しばらくして、マスターもそこに加わった。慎は幾つかのアルバムの中からタンジイの遺影となる写真を探していた。

「おっさん、ぼーっとつっ立ってないで手伝え。この手ぬぐいを濡らして、タンジイのこと拭いてやってよ」

「お、おう」

タンジイを前にして座っても、まだ実感は湧かなかった。目を瞑り合掌をして右手を取った。まだ生暖かい肌がゴムみたいに感じられた。

「終わったら、これに着替えてもらって」

慎が、仏衣を僕の隣に置いた。

「僕が、やってしまっていいのかな。僕、他人みたいなもんだし……。繭ばあはもう帰ってしまったのかな」

慎が僕の頬を二回叩いた。

「何言ってんだ合田のおっさん。タンジイが逝った後、繭ばあもすぐに逝ってしまったって向日葵が電話してきたじゃないか。しっかりしろよ! 」

なんて日なんだ今日は。僕は、手ぬぐいを持ち直してその服を一枚一枚脱がしていった。

 しばらくすると、迎えの車が来てタンジイはセレモニーホールに運ばれて行った。僕がへたり込んでいると、慎が、喪服を持ってやって来た。

「どうせ持っとらんのだろ。これ、工場の先輩から借りてきた。ちょっと大きいかもしれんけど我慢な」

僕は、慌ただしく片付けをしている慎の様子などお構いなしに話しを始めた。

「自分で言うのもなんだけど、幼いころから頭が良かったんだ。有名大学を優秀な成績で卒業して、大手証券会社に就職した。でも、小学生のときに見たゴッホの絵がずっと忘れられなかった。僕は親に隠れて絵を描くようになった。本当は美大に進みたかったんだ。でも、学校の成績が良かったから、親からも教師からも有名大学に行くのが当然だと思われていた。僕はその期待を裏切れなかった。その時は、絵を描くことは趣味でいいと思うことにしたんだ。その後、世界不況が始まってね。この仕事だってこの先どうなるかわからないと思い始めた。その時に僕は、心の中に押し込んでいた絵への憧れが再び燃え上がるのを感じた。やりたいことを今やらないと一生後悔するんじゃないか、ってさ。それから夢中で作品を描いた。そしたら立て続けに入選することが出来た。自信をつけた僕は、満を持して妻に仕事を辞めると言ったんだ。結局それ以後、僕の作品が受賞することはなかったし、売れることもなかった。生まれて初めての挫折だった。生きることは辛いことだと感じた。でも、この人生を失敗だと思いたくない自分がいた。毎日惨めな気持ちに押し潰されそうだった。潰されるくらいなら最期くらいいっそ、自分から潔く潰れてやろうと思って、今僕はここにいる」

溢れてくるいくつものしずくが頬を伝った。

「辛いことはそうやって吐き出せばいいんだ。俺らもう親友やろ。頼れよ」

心の底の方から、ぽこぽこと熱いものが沸き上がって来た。僕はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。二十歳も下の友の言葉に流れるコイツを止めることができないでいる。

「俺のシャツは何でも吸ってくれるんだ。安もんだからな」

慎は僕の頭に優しく手を置いて自分の胸に引き寄せた。

「ばかやろう」


「そうだ。猫は? 」

あたりを見回した。あの猫が見当たらない。タンジイが亡くなったってことは、猫もきっとどこかで死んでいるはずだ。見つけてやらないと。僕は部屋のあちこちを探した。楠木神社にも行ってみたけれど結局見つけることは出来なかった。

 

 二人の通夜に出席してきた僕は、タンジイの家に戻ってきた。そして一つ、また一つと、ゆっくりカンヴァスに筆を置いた。僕、何でここに来たんだっけな。そう、ホタルを見たかったからだ。目がしゅぱしゅぱする。吐き気も少し。母さんもあの石橋を渡ったかな。タンジイとさき子さんのこと、嫌いになっちゃったから家を飛び出したのかな。うまいもん食いたいな。そうだ、焼き肉。でも今食ったら吐く。

 旅館に立ち寄り、鶴間川へ向かった。相棒の光はすっかり小さくなっていた。

「いよいよ、お前とも明日でお別れだな。今までずっとカゴに入れてて悪かったな」

カゴの蓋を開けると、その弱々しい光はゆらゆらしながら外に飛び立っていった。その日、僕は完成したカンヴァスの前で眠った。


 タンジイがもらっていた手紙、本当は……、そうだったのか。蚕は繭を作る蛾の幼虫だ。ずっと蝶と思っていたのは、実は蛾だったんだ。だって繭ばあの家からはタンジイと通っていたあの中学校がよく見える。タンジイが練習していたのはつまり、鶴間川だったはずだ。繭ばあは家からタンジイの練習している姿を毎日見ていたんだ。その忘れられない人ってのがタンジイだとすると、繭ばあはきっとタンジイでカウントダウンしていた? そう、繭ばあは自分の死ぬ時がわかっていたんだ。繭ばあ、それじゃ切なすぎるよ。それじゃあまりに報われないじゃないか。

 目を覚ますと、ちょうど滴が髪の毛に吸い込まれていくところだった。人差し指でその通り道を拭うと、僕はまた目を瞑った。

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