15 あと、一日
六時半に目が覚めると、いつもと同じ朝だった。小さい鞄をひとつと虫かごを手に部屋を出た。廊下に出ると、焼き魚のにおいがぷんとした。
タンジイの家には誰もいなかった。あたりに香るメディウム。小さな丸椅子。猫の毛布。タバコの吸い殻。やたらと物が多い古びた家。タンジイの生きた証を心に焼き付けた。
カランコロン。
「やあ、今日も佐和サンドかい? 」
ニッカリ笑う熊のマスターに胸が痛くなった。
「いえ、今日はお別れの挨拶に」
千と暮らすために明日から部屋を改装するのだと教えてくれた。
黄色い蝶が草花の上をひらひら飛んでいる。これは蝶……ではない? 鶴間川はいつもと変わらずぽかぽかしていて気持ちがいい。最期の場所はここと決めている。僕は、決してゼロになれない自分を受け入れた。
慎とあのラーメン屋でまたバカ言いながら餃子を食いたい。向日葵のぱあっと咲いた笑顔を見たい。熊のマスターや奥さんとタンジイの話をしたい。毎日、川のせせらぎを聴き、鳥の鳴き声で季節を感じ、若草の艶に触れ、肺に生命の息吹を思い切り吸い込みたい。この町の、人の、音の、絵を描きたい。そう、僕は生きたい。もう遅いけれど。今日、死んでしまうのだけれど。すーっと意識が抜けていくような気がした。
「おっさん! おっさん! しっかりしろ。どこにカウントダウンされたんだ」
目を開けると、一つのヒカリがすーっと僕の前を横切った。
「どろにカウンロラウン?」
うまく呂律がまわらない。
「カウントダウンのとき、繭ばあにどこを触られたかってことだよ」
「あぁ、確か背中のこのあたり……」
僕は肩甲骨あたりを指差した。慎は、僕が来ていたシャツを無理やり脱がせようとした。
「おい、何するんだよ」
「いいから、黙ってろって! 」
慎は嫌がる僕を力ずくで押さえ込み、シャツをめくった。
「何だよ。ちゃんと説明しろよ」
「やっぱり。おっさんのカウントダウンは止まってたんだよ」
「ますます意味ががわかんねぇよ」
「繭ばぁが死んじゃっただろ。それが唯一、カウントダウンを止める方法だったんだ。今、おっさんの背中には一匹の蝶みたいなアザがある。ちゃんとカウントダウンが終ってたらこれ、消えてるはずなんだ」
わしゃわしゃと髪の毛を掻き回して、ふぅーっと息を吐きながら自分の顔にビンタをした。何も感じなかった。ぐぉぎゅるううう。
「慎、腹が減った。餃子食いに行こう」
完
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