12 あと、四日

 客室用電話機の呼び出し音で僕は目を覚ました。モーニングコールは頼んでいないんだけどなあ。そう思いながら電話に出ると、来客があると教えてくれた。時計を見ると六時半だった。

「やっぱり立ち会ってもらえないかな。妻に話すよ。僕一人だと上手く伝えられるか心配なんだ」

僕は眠い目を擦りながら、その申し出を承諾した。

「今日の昼に伺うんでもいいですか? 」

「もちろんだ。仕込みがあるからどうしてもこの時間じゃないとお前さんに会えなかったんだ。朝早くから起こして悪かったな」

熊のマスターはそう言うと部屋を出て行った。僕はまた布団の中に潜り込んだ。


「今日はとても天気がいい。ちょっと散歩しませんか」

猫を抱きなおしたタンジイは、きれいに編まれた麦わら帽子を手に取った。

「早く来んか。置いてくぞ」

そう言うと、先に出て行ってしまった。僕は苦笑いしてその後を追った。

「青年、ここに来てもう何日になるかの? どこに行った? どこが好きじゃった? 」

僕たちは鶴間川沿いを歩きながら話をした。

「うーんと、もう十日くらいですかね。ここらの道もだいぶわかってきました。楠木神社には一緒に行きましたね。あと、慎に海へ連れて行ってもらいました。青い海と、透明な海。僕はずっと東京で暮らしていたから、こんな自然の近くで生活するのは初めてなんです」

タンジイは自分で質問しておきながら、僕の話はそっちのけで地面の草花を何本か引っこ抜いていた。僕は気にせず続けた。

「この島の中で鶴間川が一番好きです。葦が茂っていて、鳥がたくさん飛んでる。この間はカモの親子を見かけたんです。それに、あの古い石橋は寝転がると気持ちがいい。時々、野良猫にちょっかい出したりもするんですよ」

タンジイは摘んだ花の茎を取り、猫の耳に飾った。

「べっぴんさんじゃ」

そう言って頭をなでると、猫は少しだけ目を開けて鳴き声で返した。

「あ、あそこ、繭ばあの家ですよね。タンジイは繭ばあと仲良かったそうですね」

指を指しながら言った。

「あのばあさんは昔っから私によく突っかかってくるおせっかいたい」

「絵だけは上手かったって褒めてましたよ」

「なんば言いよるとか。私は勉強もスポーツも何でもできたっぞ。足はさき子が早くしてくれたばってん。今度会ったら、文句ば言ってやらんと」

タンジイは水辺に下りて石切りを始めた。でも、猫を持ったままだから、あまりうまく投げることが出来ないようだった。

「青年、ちょっとおいの命ば頼む」

僕がそれを受け取ると、今度はしゃがんで入念に石を選び始めた。丸くて、適度な重みがあり、平べったいものがいいのだそうだ。

「腰を入れて、こう滑らすように。いくぞ」

タンジイが投げた石は五回水面を弾いた。そして、また同じような石を探し、僕のもとに来て言った。

「今度はお前さんがやってみろ」

猫を返し、代わりに石を受け取った。思いっきり投げたが、僕のは一回跳ねただけだった。

「下手くそ。石の無駄遣いばい」

タンジイははそう言い捨てると、僕を置いてまた、もとの道に戻って行った。

 僕とタンジイとの関係は、これまでと何も変わらなかった。ある日肉親だとわかったところで、身内としての愛着が湧くわけではない。そもそも僕に身内に対する愛着なんて存在しない。ただあるのは、僕がタンジイのことを好きだという事実だけだ。


 カランコロン。お昼には少し早かったけれど、約束の佐和珈琲に行くことにした。熊のマスターはおらず、奥さんだけが迎えてくれた。店内には僕、一人だけだった。

「いらっしゃい。今日は何にしようか」

奥さんの目の下にはクマが滲んでいて、ひどく疲れている様子だった。

「おすすめありますか。それをお願いします」

奥さんは厨房に向かって二、三歩進んだところで引き返してきた。

「合田さん、やっぱりあなた何も知らないのよね」

「え……ええ。知りません」

僕は今にもマスターの秘密を言ってしまいたくなったが、その気持ちをぐっと堪えた。

「彼、必ず家でシャワーを浴びてから戻って来てるの。一人でふらっと出かけて、戻ってくると必ずシャボンの香りがする。もう一月以上続いてるわ。行き先を訊いても教えてくれないし、私、もう限界。今日、これからあの人に別れを切り出そうと思っているの。合田さん、立ち会ってもらえないかしら」

「ちょ、ちょっと待ってください。ちゃんとマスターに訊いてみましょうよ」

困ったことになったなあ。僕はおすすめのチーズカレーを頬張りながら、この話し合いを一体どうしたらいいものかと考えていた。

 カランコロン。

「ただいまー。お、合田君、来とったんだ。そのカレー、僕が何時間もかき回しながら火の番をしたんだよ。味付けやらなんやらは全部妻だけどね」

何も知らないマスターは奥さんに向かってニッカリと笑顔を向けた。僕は何とかして今の状況を伝えようと思ったが、奥さんはカウンターに出ていたし、マスターは奥さんの方を向いているしで、結局何も出来ずに事が始まってしまった。奥さんが、扉外のプレートを「Closed」に返し、話を始めた。

「ねぇ、私たち別れましょうか」

熊のマスターは突然始まったこの状況が上手く飲み込めず、まるで雀があたりを窺うように奥さんを見て、僕を見て、自分自身を見た。

「あなたはここ最近、何か別のことに気が向いているようね。私は考えに考えたわ。今、あなたが漂わせているシャボンの香りはなに? 他に好きな女性が出来たのなら、私は……。私には、あなたが幸せでいてくれることが一番大事なの」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 僕は君以外に好きな人なんておらん。君が最近疲れていることには気付いていたけれど、まさかそんなことを疑っていたなんて思ってもみなかった」

「だって、あなたわかりやすいもの。だからもし、あなたが他の人を好きになっても私はあなたを責めたりしないし、それに……」

「だから、ちょっと待ってくれよ。ちゃんと話すから」

マスターはカウンター席に腰かけ、奥さんにも座るように促した。そして、大きく息を吸った後に話を始めた。

「ちょうど一月前くらいやったかな。僕はホームセンターに古くなったフライパンの替えを買いに行ったんだ。その帰りに、楠木神社を通って店に戻ろうとしたら、途中でくぅーんと鳴き声がするんだ。声の方に行くと、小さい犬が捨てられてとってね。君、僕たちが一緒に飼っていたコーギー犬の『桜』を憶えているかい。その桜によく似ていたんだ。なんだか放っておけなくて、牛乳と食パンを買ってきて与えたんだ。クンクンしながら食べる姿がもう可愛くって。膝に抱いて頭を撫でると、あくびをして眠りこくったりしてさ。僕が面倒を見れないときは近くに住んどるハルがエサをやってくれた。こいつをどうしても保健所に入れたくなかったんだ」

「もしかして、ハルっていうのは背がこれくらいの小学生の女の子ですか? 」

僕は腰くらいの高さに手の平を合わせた。

「そうそう。この間、合田君が会った子。」

「知り合いに飼ってもらえんか頼んでみたけど、どこも難しいと断られた。道端に立て札を付けて置いてみたけどこいつ、いつまでたっても拾われねえんだ。僕は時間を見つけては会いに行った。何度も会うに連れてどんどん愛着が湧いてきてしまって……でも、それと同時に君に対して申し訳ない気持ちが募っていった」

僕は、あの日もマスターからその説明を聞いたのだけれど、その時から疑問に思っていたことがあった。

「なぜ、奥さんに黙っていたんです? 正直に話して飼ったらよかったのに。前にも犬を飼っていたことがあったんでしょう? 」

熊のマスターは僕の方を向いて、穏やかな声で話し始めた。

「それにはまず、桜の話をせんといけんね。子供のおらん僕たちにとって、桜は子供みたいなもんだった。七年間、二人でとても大切にしてきた子なんだ。ある日突然、妻にアレルギー反応が出て、その原因が桜にあることが分かったんだ。やけん僕たちは、しぶしぶ知り合いに預けた。君には伝えていなかったけど、桜は貰われた先で一月も経たんうちに死んでしまった。環境が合わんかったのか、寿命だったのかはわからない。そればずっと言えずにおった」

奥さんのアレルギーは僕が思っていたよりひどいものだったようだ。

「私、知っていたわ。あなたは嘘が下手だもの。桜は私のせいで死んでしまったの」

マスターは目をまん丸にして彼女を見、ひとつ咳払いをした。

「それは、どうしようもなかったことたい。桜と離れてからの君はとてもふさぎこんでしまったね。やけん、僕はもう一生犬は飼わんって決めた。それなのに、僕は君を傷つけることをしてしまった。シャワーを浴びて戻って来るのは、君がアレルギー反応を起こさんようにするためさ。君、敏感だからちょっと犬を触っただけでもすぐに反応してしまうだろ。けど、こうして隠していたせいで君を追い込んで、辛い思いをさせてしてしまっとった。本当にすまない」

沈黙が空間を包んだ。レトロな柱時計がカチコチと時を刻む音がやたらと響いた。五分、いや、それ以上の時間、誰一人言葉を発さず、また、物音ひとつ立てなかった。

「ゴ、ゴッホは……僕の好きな画家のフィンセント・ファン・ゴッホは『夫婦とは二つの半分になるのではなく、一つの全体になることだ』と言いました」

そう言ってとすっかり冷えてしまった食べかけのチーズカレーを口にかき込んだ。そして、スプーンを右手に持ち、それを掲げて続けた。

「桜が二人を繋いでいたのなら、まだ二つの半分なのではないですか。僕は妻と別れました。僕は彼女を無理に僕色にすることで一つの全体を作ろうとしたんです。でも、それは間違っていました。僕自身、まだ答えは見つけられていないのだけれど、きっとマスターと奥さんなら答えを見つけることができると思うんです。一つの全体を見つけることができると思うんです。だって、奥さんはこんなにもマスターを愛しているし、マスターはこんなにも奥さんを思い遣っている。僕はつい最近二人と知り合ったばかりだけれど、この店も、マスターと奥さんの関係も、とても素敵だと思っているんです。上手く伝わらないかもしれないけど、とっても温かいものを感じるんです」

二人は僕を見てぷっと吹き出し、顔を見合わせた。

「合田さん、口の周りにカレーが付いてるわ」

奥さんの言葉に、僕は慌てて紙ナプキンで唇を拭った。あんまりゴシゴシ拭いたもんだから、ヒリヒリと痛んだ。

「私、その子を見に行きたいわ」

マスターはアレルギー症状が出たら大変だと言って止めたが、奥さんは意地でも行くと言って聞かなかった。

「マスター、僕も行きたいです」

「さすが合田さん。ありがとう」

僕たちは三人で神社に向かった。


「熊のおじちゃーん! わんこがご飯食べてくれないよ」

その子は僕を見つけるやいなや、鼻息を荒くして歩いてきた。

「あっ、この間の変なおじさんだ! 来ないで! 」

彼女は僕を通せんぼしながら睨みつけてきた。

「ハル、このおじさんは悪い人じゃないんだぞ。そしてもう一人、この人は僕の奥さんだ。きれいな人やろ」

マスターはハルの頭をぐりぐりと撫でた。

「牛乳でドッグフードをふやかしてもダメかい? どうしたんだろう」

見ると子犬はぐったりしていて、目は半分しか開けていない。その時、突然奥さんが子犬を抱きあげて僕たちに向かって言った。

「すぐ、病院に連れて行きましょう。何かあってからでは遅いわ」

「き、君! 触ってはいけないよ」

熊のマスターはあたふたした。


 幸い、少しのストレスと疲れが原因のようで、病気にはかかっていないようだった。診察を終えて待合室に戻ると、奥さんの腕は真っ赤に腫れあがり、痒みが出ているようだった。

「私、あの子を飼うわ」

「ちょっと待ってくれ。君、もうこんなになってるじゃないか。無理だよ」

二人はしばらくの間、見つめ合った。

マスターが苦笑いして大きく息を吐いた。マスターの負けだ。

「名前、また桜にする?」

「桜はもういないわ。それに同じ名前じゃ可哀相よ。そう……『せん』ってどうかしら」

「千? また変わった名前だな」

「鶴間川のずっと上流には千年間咲き続けている桜があるの。あなた知ってる? 」

「アレは民話の中の話だろ? 」

「いいえ、私、小さい頃に一度だけ見たことがあるの。きっと私の魂も同じように千年先まであなたへの想いを咲かせ続けるわ。その想いをこの子に託したいの。単純かしら」

彼女のほほえみは優しかった。

「うん、いい名前だ。これからもどうぞよろしく」

熊のマスターはニッカリ笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る