11 あと、五日
昨日の夜から気付いていた。相棒の光が少し弱くなってる。背中をそっと撫でた後、指を差し出すとトコトコと登って来た。霧吹きで水をかけると少しだけ羽を広げた。砂糖水に変えてみたけど、喜んでくれたかな。
今日の朝食はここに来てから一番の贅沢だった。車エビの塩焼きはぷりっとして香りが強く、ヒオキ貝の色鮮やかなオレンジは気分を高めた。ふっくらしたご飯と卵の相性は相変わらず抜群で、新香は三種類も用意されていた。よく腹八分がいいなんて聞くけど、こんなに美味しいものばかり並べられたら誰だって腹十分食べてしまう。
午前中はタンジイの家で絵を描き、午後はアーケード街でスケッチをすることにしていた。古い商店街は飲み屋ばかりが軒を連ね、かつては賑やかであったであろう店のシャッターは下りたままだった。僕はアーケードの終わりにあるベンチに座り、時たま通る老人たちを眺めながら鉛筆を走らせた。
「何ばしとるとね」
びくっとして顔を上げた。
「ああ、繭ばあか。こんなところで会うと思ってなかった」
昼の繭ばあはどう見ても普通のばあさんだった。
「さっきまで敬老館でコーラスの練習ばしとったとよ。合田さんは、本当に絵が好きなんやね。ばばあの絵もちょろっと描いてくれんかね」
「喜んで」
僕はページを一枚めくった。
「繭ばあとタンジイは同級生だったんですってね。どんな人だったんです? やっぱり昔から憎まれ口叩いてたんですか? 」
繭ばあはケタケタと笑いながら言った。
「いんや。丹木は真面目でお人よしで冗談の一つも言えん男やったばい。絵は上手やったばってん、それ以外はからきしやった。足が遅くてようクラスの男子にバカにされとったなあ。まさか、あがん美人で優秀な羽田さんがあの丹木を貰ってくれるなんて思わんやった。あやつは本当にラッキーじゃった」
そういや熊のマスターも言ってたな。さき子さんが死んでから、タンジイは子供っぽくなったって。彼が今みたいになったのは、さき子さんの死がきっかけなのかもしれない。
「どんくさい丹木だが、優しいところもあるけん。合田さん、最期までよろしく頼むね」
「でも僕、あと五日しかないんですが……」
繭ばあはにっこり笑った。僕は苦笑いで答えた。
熊のマスターがいつ現れてもいいように、車の陰に隠れて座った。駐車場の砂利がザッと踏まれる度、僕は身を乗り出してその音の主を確認した。しばらくすると、あたりを窺いながらそろりと砂利を踏む音がした。ゆっくりと車の陰から音の先を見ると、なんだ、昨日の生意気な子供か。がっかりしてもとの場所に座り直した瞬間、また、別の足音が近づいてきた。今度はレジ袋がカシャカシャと擦れる音もする。僕は、再び様子を窺った。
「今度はマスターだ」
そう呟いて、適度な距離を保ちながら後を付いて行った。一体何を隠しているんだ。彼は何度かあたりを見回しながら裏の鳥居から神社の中に入ると、そのまま庭園の方へ向かった。あたりはすっかり暗くなりかけていたから、途中、何度か見失いそうになった。そして辿り着いたのは、あの子供に立ち入り禁止だと釘を刺された摂社の裏だった。
店に入ると、既に来ていた慎が漫画を読みながら僕を待っていた。
「遅かったじゃん、おっさん。待ちくたびれたぜ。酢豚とチャーハンも追加な」
慎はこれみよがしに石がぶつかったと思しき額をさすりながら言った。口ではぶーぶー言っていたが、顔はニヤついている。
「先に食っててよかったのに。向日葵は来なかったのか」
「やっぱ一緒に食いたいじゃん。ヒマは繭ばあに捕まった」
「そりゃ、残念だな。向日葵がいないのなら餃子はなしな」
「やっぱりおっさん、向日葵のこと!」
こいつは向日葵のことになるとすぐムキになる。だから僕はつい、からかいたくなってしまうんだ。
店を出ると、二人で川沿いを歩いた。僕は昨日やりそびれたブーメランを一緒にやろうと誘った。
「おっさん、バカなの? ブーメランって一人でやるもんやし。だってあれ、自分に戻ってくんだよ? 」
「地面と直角に投げれば案外真っ直ぐ飛ぶもんさ。せっかく買ったんだから付き合えよ」
僕は草っ原を見つけると、慎を無理やり呼びこんだ。最初は方向が定まらずおかしなところに飛んで行ったが、だんだんと慣れて来てキャッチできるようになった。
少し汗ばんできた。久々に体を動かしたことが楽しくって、僕はどんどん投げるスピードを速くした。
「俺、前に繭ばあに命を短くしてもらおうとしたんだ」
そう言いながら慎は、僕が投げた右にカーブしていくブーメランをなんとかキャッチした。
「もしかして、カウントダウン? 」
慎は一瞬、鋭い眼差しで僕を見てブーメランを思いっきり空に向かって投げた。それはまるで、星をひとつ残らず刈り取るように、高く強く天を切り裂いた。
「何もかもが嫌になっちゃってさ。親もいないし、俺を必要としてくれる人なんて誰もいなかったんだ。学校もつまんなかったし、いてもいなくてもいい存在だった」
僕は「そんなことない」とは言えなかった。今の自分がそんな気持ちだから。ブーメランは深い草むらの中に落ちていった。
「何度も頼んだんだけど、聞き入れてくれんくってさ。ある日、またお願いしに繭ばあの家に行ったら、向日葵がひょっこり出てきたんだ。あいつ最初、俺が話しかけてもろくに返事すらしてくれんかったんだぞ。だからムカついて、毎日行って、いっぱい話しかけた。俺、気付くとすげぇ必死になってた。初めて笑顔みせてくれたときなんかもう最高にぐっときた。俺にも幸せっていう感情があるんだなって思った。俺は向日葵が幸せになってくれるならそれだけで十分だ。でも、もしそれを俺が叶えられるなら、そんな嬉しい事はないよ」
それは、僕の中には二度と見つけることができないであろう感情だった。彼に告げねばならないことがある。
「俺、実はカウントダウンしてるんだ」
慎は顔色一つ変えずに、しばらく黙っていた。
「なんとなく気付いてた。だってホタル見るためだけなら、もうとっくに帰ってるだろ。この島の観光をするわけでもなければ、誰か知り合いに会いに来たわけでもない。出会った頃は表情も暗かったし、もしかしたらって思っちゃうよ、そりゃ。」
慎の顔をまともに見ることができなかった。
「おっちゃん、わりぃ。ブーメランどこいったかわかんなくなっちまった」
慎は探しに行った草むらの中から右手を前に突き出し、ゴメンのポーズをした。
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