10 あと、六日
今日はさすがに行かないと。残り六日しかないんだから。僕はまだ少し気まずい気持ちを抑えながら、タンジイの家の前に立った。突然、扉が静かに開いた。
「お前さんか。入りなさい」
タンジイの声はひどく寂しそうだった。
「もう、来んかと思っておった。あの絵の完成を見ることはできんのかと」
心臓がきゅっとなって、昨日行かなかったことを後悔した。この絵は、最早タンジイの絵でもあるのだ。
「絶対に完成させますよ。死ぬ前に」
猫はこの間とは違い、タンジイの膝の上でじっとしていた。よく見ると、毛艶が悪く、節々が骨ばっている。
「さき子さんは何故、タンジイに毎週手紙であれこれ伝えたんでしょう」
「さぁ、なんでじゃろうな。そがん言えば、さき子にはあの手紙のことを聞いたことはなかった。なんじゃいろ照れくさかったけんな」
「まさか、その手紙の送り主はさき子さんじゃなかたりして」
僕はニヤニヤしながらタンジイの顔を覗き込んだ。
「そがんわけなかろう!『羽』が付くのはさき子だけばい!」
タンジイは、しかめっ面をして語気を強めた。
「ああ、動かないでください」
さき子さんのことになるとすぐムキになる。
「それはそうと、おまえさんの母親は、まさか『さゆり』という名前じゃなかろうな」
「え? あ、な、なぜ知っているんです? 言いましたっけ? 僕」
あまりの驚きに、目が上やら横やらに動いた。
「S to Sはおいからさゆりへのプレゼントたい」
タンジイの名前は、確か丹木茂……。僕はてっきり父、聡志からのおくりものだとばかり思っていた。
「さゆりにこがん立派な息子がおったとは思わんやった。さゆりは元気にしとるとか? 」
「実は、僕の前から消えてしまって、今はどこで何をしているのかさっぱり」
「まったくあいつは。私の前からも、おぬしの前からもおらんごとなってしもうたっちゅうことか」
カランコロン。ちょっと迷ったが、やっぱり行くことにした。扉を開けると、そこにいたのは奥さんだけだった。セイコーマーベルを見ると、もう二時を過ぎていた。
「こんにちは。佐和サンドを一つお願いします」
奥さんは指でオッケーサインを作った。なんだか疲れている様子で、無理に笑顔を作ってくれてるような気がした。瞳の下にはクマがにじんでいた。
「あの、大丈夫ですか? 具合が悪そうですね。マスターは? 」
「ちょっと最近眠れない日が続いただけよ。心配ありがとう」
奥さんは、熊のマスターの質問に関しては答えてくれなかった。
少し間を置いて、再び尋ねた。
「……もしかしてマスターの、こと、ですか? 」
「あ、うん……」
奥さんは視線をそらしてゆっくり言った。
「最近、彼ちょっと変なの。もう私のこと嫌いになっちゃったのかしらね。合田さん、何か知ってる? 」
「あ、いや、僕はなにも……。うーん、わからないですね」
僕も大概嘘が下手だ。奥さんは微かに口角を上げると、店の奥に行ってしまった。その時の顔があまりに寂しそうで、僕は居たたまれなくなってしまった。
寂しい空気の漂った夕暮れ時、楠木神社を散策していると摂社や末社があることに気付いた。これだけ大きな神社なのだから当然と言えば当然だ。一つの社の裏から子供の声がした。覗いてみると、突然、女の子が飛び出してきた。小学校低学年くらいだろうか。
「おじさん誰? ここから先は立ち入り禁止だから」
キリっとした顔で僕を睨んだ。この辺の小学生だろうか。
「その先に何かあるの? おじさんも仲間に入れてよ」
「いやだね。帰れ帰れ」
ちょっとむっとしたが、面倒はごめんだ。結局その場から立ち去ることにした。そういや、子供の頃はよく秘密基地を作ったっけ。合言葉を作ったり、宝物を隠したりするんだよな。僕のは段ボール製だったから、数日で湿気にやられてしまったけれど。
ホームセンターに行って、子供の頃によく遊んだパチンコやブーメランを手に取った。
途中、旅館に寄って相棒も連れて来た。それにしても、旅館の仲居さんがこっそりおにぎりをくれたのはラッキーだった。僕はすっかり暗くなった川に架かっている石橋の上に座った。まだ自動販売機で温かいお茶が売られていたのは有り難かった。夜風は冷たい。そのままごろんと寝転がると、そこには天然のプラネタリウムが広がっていた。石は昼間の熱を吸収していてまだほんのり温かい。そういや、ここに来て星のヒカリをちゃんと見たのは初めてだ。僕は、今になってオリオン座と北斗七星しか知らないことを後悔した。そこらに落ちている石を手探りして、さっき買ったパチンコにセットした。思いっきりゴムを引き、天に向かってそれを弾いた。ポチャと音がした。今度は北極星に狙いを定めた。今度はパチンと音がした。さっきの音とは明らかに違った。
「いて。おい、てめぇなにすんだよ」
まずい。歩いている人に当ててしまったんだ。慌てて起き上がり、声のする方を向いた。目線の先に二つの影が見え、僕はそれに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「ごめんなさいで許されるわけねぇだろ。罰として明日、ラーメン奢りな」
へっ? 僕は頭を上げてその影をよく見た。
「なんだ、慎と向日葵か」
「なんだとはなんだ! ぜってぇ餃子も追加してやる! 」
向日葵が荒れた慎をなだめながら僕にバイバイをした。
ようやく心臓のハラハラが納まり、再び寝転がった。今度は石をセットすることなくゴムを何度か弾いた。あんまり気持ちがいいから、このまま眠ってしまおうか。ホタルは虫カゴの中でふわりふわりと飛んでいた。この場所が好きなんだな、こいつも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます