9 あと、七日
目が覚めると、昨日の餃子が腹の中に残っているのがわかった。とてもじゃないが動けない。タンジイに今日行くのは難しいと連絡を入れた。本当は昨日のことが頭をよぎって合わせる顔がなかった。怒ってるのかな。それとも、呆れてるのかな。もしかしたら、嫌われてしまったかもしれない。何はともあれ、今日は一日中旅館で寝ていよう。
虫カゴを霧吹きで湿らせると、とことこ歩いていた相棒がピタッと止まった。一度羽を少し開いて、すぐに閉じた。ホタルも気持ちいいと感じるものなのかな。指を伸ばし、背中をそっとつついた。ピクリともしない。次は羽の筋をつつーっとなぞった。するとヤツは、僕の指から逃れるようにトコトコと歩いた。
「相棒、お前だけはずっと傍にいてくれよ」
布団の上でごろごろしながら、何度も話しかけた。
ホタル。母さんの生まれた西の端っこにあるその島では、五月に二、三週間だけホタルが見られる。小さい頃に一度だけ見たことがあるらしいが、僕にはその記憶が無い。母さんは僕が十七のときに男を作って家を出てしまった。今はどこで暮らしてるのか知らない。ずっと都心で暮らしてきた僕にとって、淡いヒカリを放ち、きれいな水があるところでしか育たないというホタルは憧れそのものだった。その中に限りなく純白に近い白があるような気がして。僕はネットから落としたお気に入りのホタルの写真を、もう何年も携帯電話の壁紙にしている。黄緑っぽく、それでいてちょっと蛍光が入ってるような、そんなヒカリを漆黒の中で発する。吸い込まれて一緒に溶けてしまいたくなるそのヒカリを、死ぬ前に自分の目で見てみたかったんだ。
時計を見ると、もう昼の三時だった。朝から何度もまどろんでいたせいで、昼ご飯も食べずにいた。胃の調子はすっかり回復しており、今度は何か入れたい気分だった。外に出ると、あまりの風の強さに目を細めた。いい天気なのにこう風が強くちゃ歩くのも大変だ。いつもみたいに佐和珈琲に行こうかと思っていたが、その気持ちはすっかり失せ、早く旅館に戻ってのんびりしたいという気持ちが強くなった。結局、ホームセンターで菓子パンや飲み物を買ってからすぐに帰ることにした。僕はふと、楠木神社の駐車場に足を向けた。あたりを見回すと、やっぱり……。あの人が周囲を窺いながら、早足に去ろうとしていた。
「マスター!」
彼はびくっとしながら僕の方を見ると、引きつった笑顔で応えた。
「マスター、ここで何をしているんですか。僕、最近何度かマスターを見かけてるんです」
「あ、ああ、そうなのかい。僕はちょっと散歩をしとっただけだよ。店はちょうど空いてる時間やけんね」
前見たときと同じように、手にはホームセンターの袋を提げていた。どう見ても彼の反応は不自然だったけど、それ以上追及する理由はなかった。
「そうでしたか。それでは」
僕が歩き出そうとすると、後ろから小さな声がした。
「あの……、ここで何度も私を見かけたことは秘密にしておいて貰えないかな。妻に……」
僕は軽く会釈した。「妻に言わないでくれ」って、それじゃ知られるとやましいことがあるって言ってるようなものじゃないか。あまりに下手くそなマスターの嘘に、どういう表情をしていいのかわからなかった。しかも、もうとっくに言っちゃってるんだよな。
旅館に戻って来てから、僕はずっと考えていた。熊のマスターが隠さなきゃならないことって一体何なんだ。僕が見たのは全部で三回。いずれもホームセンターの袋を提げていた。場所は決まって楠木神社の裏駐車場あたりで、周囲をすごく警戒していた。それに、今日僕が声をかけたときのおかしな言動。それらを総合的に考えると……まずい人間関係? 浮気? うーん、わからない。パッと思いつくのはせいぜいそんなもんだった。
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