8 あと、八日

「あ、また……」

ホームセンターに行くと、また熊のマスターに出くわした。あたりを見回し、急ぎ足で行くその先には、楠木神社の裏駐車場があった。車を停めるなら、このホームセンターの駐車場を利用すればいい。なぜわざわざ少し歩く神社の駐車場を使っているんだろう。詮索するのも嫌だから、僕は方向を戻した。


 タンジイの柔和な眼差しはまるで仏像みたいだった。この穏やかな時間の流れも絵に込めたくて、カンヴァスに置く一筆一筆に神経を使った。

「メディウムの臭いが懐かしいのお。さき子はこれが好きだと言うとった」

「そういえば、タンジイも絵を描いてたんですよね」

「ああ、そうじゃ。私は見るのも好きじゃったから、結局は画商になったんじゃ。私が買いつけてきた絵をさき子と一緒に見て、あれやこれやと話すんじゃ。さき子は一枚の絵から色んな空想をするのが好きでの。私はその物語を聞くとが好きじゃった」

その時、猫が背伸びを一つしてタンジイの膝の上からぴょんと降りた。連れ戻そうとしたが、猫は頑としてもとの場所に戻ろうとはしなかった。

「すまんが、猫がおらんでもよかかの」

「タンジイっていつもそいつと一緒なんですね」

「いつも……うん、まあそうじゃな。私の命はこいつと一緒やけん。こいつが死んだら、私は今度こそこの世におる意味がなくなるけんな」

「もしかして、繭ばあ……ですか? 」

僕はおそるおそる聞いた。

「なんじゃ、ぬしは知っとるとか。学生時代の同級生なんじゃ。もしかしてお前さんもカウントダウンばしとるなんて言わんでくれよ」

タンジイは冗談めかして笑った。

「……そのまさか、です」

タンジイの顔は瞬く間に凍りつき、うなだれた。


 タンジイに言うべきじゃなかったのかな。まさかタンジイもカウントダウンしていただなんて。生きているモノにはタイムリミットがある。人間のそれはあまりにも長すぎる。そう思ったから、僕はホタルと自分のタイムリミットを重ねた。タンジイは深く愛するものがあるからこそ、それと自分のタイムリミットを重ねた。僕らの選択に果たして違いはあるのだろうか。


 カランコロン。一瞬、奥さんの曇った表情が見えた。

「あら、また来てくれたの」

「今日も熊のマスターいないんですね。また、ホームセンターかな」

「熊のマスター? ああ、彼のことね。今はいないの。でも、ホームセンターって? 」

奥さんは気さくに返事をした。僕は我に返り、「熊のマスター」と呼んでしまったことに焦った。

「ご、ごめんなさい。失礼な呼び方をしてしまって。今朝ホームセンターで見かけたから、もしかしたらって。あの、ごめんなさい」

「彼、ホームセンターで見かけたの? いつ? 」 

奥さんは平静を装っていたが、作った笑顔が少しこわばっていた。何かまずいことを言ったかもしれないと思ったけれど、何がまずいのかわからなかったから自分が見たことをそのまま伝えた。

 その後、奥さんは自然に話を切り替えた。

「タンジイ、すぐに猫を連れてきちゃうでしょう。私、猫アレルギーだから困っちゃうの」

「よし。タンジイが今度連れてきたときは、僕の口の中に入れて隠してしまいましょう」

こんなつまらない冗談にも、奥さんは笑って応えてくれる。


「合田のおっさーん!」

この呼び方は、あいつだ。僕は一瞥してまた歩き始めた。

「おっさん、何で無視するんだよ」

目の前に立ちはだかると、ニヤニヤした顔で僕の顔を覗き込んできた。

「なんとなく。気付かない方がいい気がした」

わざと冷たく答えた。

「そう言うなよ。俺、あのバイク納品したら、今日はもう仕事終わりだから、一緒に海行こうぜ。どうせヒマだろ。ちょっとそこで待ってて」

慎は僕の返事を待たず再び軽トラに乗り込み、こちらに大きく手を振った。しょうがない。僕は仕方なく道路脇の縁石に腰を下ろした。地面に視線を落とすと、二匹の蟻が死んだ蝶を運んでいる。こいつらは何も考えずにただひたすら女王蟻のためにエサを運んでるんだよな。いいよな、こいつらは。何も考えなくていいんだから。僕は無意識に振り上げた足をそいつらに向かって下ろしていた。

 次の瞬間、近付いてくるバイクの音にハッとなった。僕はその足をもとの場所に収めて顔を上げた。


「着いたよ」

この間とは違う、透明でエメラルド色の海。ごつごつした岩が広がり、その隙間を波が行ったり来たりしていた。

「今日の夜、また餃子チャレンジするよ」

真っ直ぐ海を見つめながら僕は言った。慎はぷっと笑った。

「おっさん、カッコつけてるけど言ってる内容はたいしてカッコ良くないぞ」

僕は腕で慎の首を甘く絞めた。慎は舌を出し、苦しがるふりをした。僕たちは顔を見合わせ、笑った。

「ここは秘密の場所なんだ。ここに来ると、自分の汚い部分が全部洗われる気がする。だから、向日葵は連れて来れない。俺の嫌なもん、全部あるからな」

「俺はいいのかよ」

「おっさんはいいよ。なんとなくだけど」

嬉しかった。さっきは、あいつのこと気づかないフリしたくせに。

「そういや、向日葵が言ってたぞ。命の恩人だって。慎が大好きだって。」

慎は小さく首を振った。

「命の恩人だと感じているのは俺の方だ」

突然、慎の瞳から涙が溢れ出してきた。僕はまたヘマをやらかしたかと焦りながら慎の頭にポンと手を置き、強く肩を抱き寄せた。

「俺のシャツは何でも吸ってくれるんだ。安もんだからな」

「……安もんだと吸水性高いの? 」

「知らねぇけど、たぶんな」

慎は僕の腹を強く殴った。いてぇな。


 ついて来なくていいって言ったのに、慎は意地でも一緒に行くと言って聞かなかった。目が腫れているから、店の中に入ってもバイク用のゴーグルは外さないそうだ。

「らっしゃい。待ってたよ」

ラーメン屋のおっちゃんが威勢よく言った。僕は席に着くと呼吸を整えて静かに言った。

「お願いします」

「さーて、フードファイトが始まりました。合田選手、スタートはあくまで自分のペースを守りながら試合を進めるとのことです。どんな試合展開になるのか楽しみですね。おばちゃんはどんな展開になると予想しますか」

慎は手で作ったマイクを向けた。

「頑張って欲しいけど、正直に言うと今日も失敗して欲しいわね。お店的には」

おばちゃんは真顔でそう言って他の客の笑いを誘った。厨房にいたおっちゃんが遠くから参加した。

「そうだ!そうだ!ほどほどに頑張れ! 」

今日の作戦は事前に考えて来ている。僕はポイントを頭の中でおさらいしながら、黙々と食べ続けた。開始二十五分で半分を食べ終えた。残り五皿。そろそろだな。僕はタレに手を伸ばした。慎のアナウンスがその様子を伝える。

「合田選手、序盤はタレなしという選択をして半数を平らげましたが、ここに来てタレに手が伸びました。さすがに味に飽きてきてしまったのでしょうか。その辺のところを本人に伺ってみましょう。合田選手、餃子の味にはもう飽きてきてしまったのでしょうか。いかがですか」

慎がマイクを向けた。その時には、まんざらでもない気分になっていた。

「そうですね。ちょっと味に変化を付けたいなと思いまして。タレで味に変化を付けると、また新鮮な気持ちで食べ進めることができるんですよ」

「なるほど。最初からそのような作戦で行こうとお考えだったわけですか」

「ええ。勿論です」

そう言い放つと、僕は再び箸で一つ摘まんで口の中に放り込んだ。序盤はタレに頼ることなく食べ進め、中盤でタレを投入、ラストスパートで酢や豆板醤を加える。キツい場面で味に変化を付け続けることで飽きを防止するのだ。また、食べるペースは常に一定にし、最後まで止まることのないように意識する。一度止まると、苦しくなって再開が困難になるからね。

慎が突然叫んだ。

「なんか俺も腹減って来た! おっちゃん、ラーメンと餃子のセット、一つちょうだい」


 残り二皿、個数にして二十、残り十五分。タレの味にも飽きてきた。タレに酢を多めに加えて味を変える。想定通りの展開だ。それでも五個食べたところで、やはりキツくなってきた。味に飽きたのもあるが、胃袋的にも限界はそう遠くない。しかし、ここで箸を休めるわけにはいかない。

「合田選手の表情が徐々に曇ってきました。どうですか、合田さん、一番苦しい時間だと思いますが」

今度は箸をマイクにした。

「そうですね。ここが踏ん張りどころです。味、変えます」

僕は小皿に酢と豆板醤を分けて入れた。以降は、二種類の味を交互に食べていくことにする。

 あと五個を五分か。僕ははち切れそうな腹に気付かないフリをして、一つ、また一つと食べ進めた。そしてついに最後の一つを食べ終えた。残り時間はちょうど二分を切ったところだった。僕は左の拳を上げてガッツポーズをした。

「おっさん、すげーじゃん。感想を、感想を聞かせてください!」

慎がマイクを向けた。

「今日こそはやってやろうと思っていたので、嬉しいです。応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました」

僕は腕を目に当て、泣く真似をした。店にいるみんなが拍手をした。それは、店主のおっちゃんやおばちゃんも同じだった。

「これ、賞金の三千円です。おめでとう」

僕がそれを受け取った瞬間、大きな声がした。

「おっさん、ゴチでーす」

そう言うとヤツは店を出て行ってしまった。

「ちょっ、お前、これは俺の……」

僕はしぶしぶその中から慎の支払いをして後を追った。なんでチャレンジ成功したのに金を払ってるんだ、こんちくしょう。

「おい、慎。まったくお前にはやられたよ」

慎は、ぱぁっと笑って僕の顔を見た。

「おっさん、カッコ良かったぜ。俺も今度チャレンジしてみよっかな」

慎の白はどこまでも白だった。この白が見れただけで僕の心は幸福感で満たされた。

「ありがとう」

思わずつぶやいた。

「なんでおっさんが言うんだよ」

「なんでもないよ。バカ」

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