6 あと、十日

 今にも雨が降りそうな鈍色の雲なのに、結局その日は降らなかった。朝起きてキッチンに向かうと、書置きが残されていた。


 私は、この生活に耐えられなくなりました。

 もう、さよならしましょう。


 悲しい気持ちはなかった。来るべき時が来たと思った。彼女は僕自身ではなく、僕の肩書や安定した将来が欲しかっただけなんだ。僕が何もかも持たなくなったから、捨てて行ってしまったんだ。もしかしたら他に男がいたのかもしれない。用無しになったんだ。離婚届は、その数日後に郵送で届いた。


 目が覚めるとひどく呼吸が荒かった。


 タンジイは、いつもどおり猫を抱えて僕を迎えてくれた。

「元気になったんですね。よかった」

「ふむ。今日は顔色が悪かぞ。無理はせんでよか。少し横になった方がよかぞ」

僕はその言葉を制して、描きやすそうな場所を探した。どうせなら構図も「タンギー爺さん」に合わせてしまおうか。タンジイに尋ねると、浮世絵は勿論、絵画の一切はこちらに引っ越してくる際に処分してしまったのだそうだ。

「それなら写真。さき子さんの写真はありますか。浮世絵の代わりに、写真を飾りたい。同じカンヴァスの中に描きたいんです」

タンジイはニッコリ笑った。引き出しの奥に仕舞ったアルバムをがさごそと漁り、そこから二枚を出してきた。

「あとの四枚の景色は、お前さんがこれまで描いてきたスケッチの絵を使ってくれ」

タンギー爺さんの背景には、二枚の人物に四枚の風景を描いた浮世絵が飾られている。タンジイはそれをちゃんと理解していた。ここに来て描いた絵は三枚。あと一枚足りない。午後からは慎と海に行く約束をしているから、そこで最後の一枚を仕上げよう。

 一枚目は学生時代の写真で、陸上競技の格好をして走っている姿。コレがきっとタンジイの恋の始まりかな。二枚目は、病院のベッドに腰かけている姿。病気のせいか痩せてしまってはいたけれど、表情がとても穏やかで美しい。

 セイコーマーベルを机の上に置き、木炭を手に取ってその感触を確かめた。ゴツゴツしていて、ちょっと触っただけでも指や爪の間に炭が入り込む。近くにあった捨て紙に数本線を引き、描き心地を確かめた。

「それではいいですか」

タンジイは、猫を床に置いて小さな丸椅子に腰かけると手を組んだ。得てして顔の皺の数は、生きてきた時間の長さと比例するものだ。


 肖像画はモデル側に負担がかかる。何もせずにじっとしているというのは案外難しいものなのだ。それなのにタンジイはほとんど動かない。僕がタンジイをじっくり観察しているはずなのに、気が付くとタンジイの方が僕を一心に見つめている。瞬きの回数が極端に少ないから余計にそう感じるのかもしれない。血管が浮いたしわしわの手。あぐら鼻。そして薄い唇は、まるで炎のように赤い。夢中で木炭を走らせた。

タンジイが一つため息をついた。ふとセイコーマーベルを見ると、もう三十分を経過していた。

「ご、ごめんなさい。つい夢中になってしまって……。楽にしてください」

僕の場合、だいたい二十分を五セットくらいでデッサンを終える。今回はカンヴァスのサイズが小さいから、もう少し短くていいかもしれない。高齢のタンジイにとって、三十分という時間はかなりきつかったはずだ。それなのに、自分からは「休憩しよう」と一度も言わなかった。五分ほどすると、タンジイは自ら椅子に腰かけた。

「始めてよかぞ」

僕は休憩のあいだ考えていた。この絵にはなにか足りない気がする。魅力的なタンジイの顔つき、背景にはさき子さんの写真、構成要素として足りないものはないはずなのだけど。

「あの、猫を抱いてもらえませんか。その方が自然な気がするんです」

「こやつも入れてくれるとか」

タンジイはにっこり笑うと、傍で寝そべっている猫の首をひょいっと持ち上げ、膝の上に置いた。猫は何事もなかったかのように目を瞑った。よし、これでしっくりきた。僕はスマートフォンのアラームを二十分後に設定し、再び木炭を握った。


 カランコロン。迎えてくれたのは熊のマスターではなく、銀縁の丸眼鏡をかけた小柄な女性だった。

「あら、こんにちは」

初めて見るその女性にどぎまぎしながら尋ねた。

「今日、マスターは……」

「今、買い出しに行ってるの。もうじき戻ってくると思うわ。あなた、もしかしてタンジイに気に入られてるって噂の青年さん? 」

熊のマスターってば、どんな紹介の仕方をしたんだろう。

「合田って言います。実は僕の方がタンジイのこと好きなんです。あなたはもしかしてマスターの奥さんですか」

「そうよ。納豆が嫌いでなければ、納豆パスタが今日のおすすめよ」

元々納豆は好きだった。前の妻が嫌いだったから食卓にのぼることはほとんどなかったけれど。

 カランコロン。

「お、青年。今日も来たね。また佐和サンド食ってくかい」

熊のマスターが声をかけると、奥さんがすかさずそれを遮った。

「ダメよ。今日は納豆パスタ。私がここ数日体調を崩していたもんだから、彼だけが店に出ていたの。本当は彼、佐和サンドしか作れないのよ」

熊のマスターは、あたふたしながら「それは言っちゃだめだ」と口パクした。僕はまんまと熊のマスターの「おすすめ」に乗せられてたわけだ。


 待ち合わせ場所に行くと、彼はバイクの脇で、まだ花の咲かないツユクサをじっと見つめていた。その手のひらはゆっくり伸びると、ふわっと蕾を包んだ。次の瞬間、彼は勢いよく振り返ってしかめっ面をした。

「おっさん、なんかくせぇよ。納豆くせぇ」

「おまたせ」


 三十分ほど走ると例の海に着いた。潮風が強く、厚手の服でないとすぐに体が冷えてしまいそうだ。幸い日差しがあったので、なんとか凍えずにすんでいるが、長くは持ちそうにない。僕がテトラポットに座ると、彼は隣に座ってきた。

「ほら見ろよ。あそこに三、匹トンビが見えるだろ。あの中の一番大きいヤツが俺に懐いてるんだぜ。降りてくるから見てろよ」

トンビが人に懐くなんて聞いたことがない。スケッチブックを取り出し、ぐるっとあたりを見回しながら構図を探した。海の色は青黒く濁っていて、深い濃さに圧倒された。どんな色を重ねたらいいかな。対岸には港町が見える。教会の屋根に飾られた白い十字架がやたら目につく。頭の中で海を切り取り、きいろを手に取った。

 しばらく時間が経っただろうか。トンビはまだ下りてこず、慎はしびれを切らしているようだった。

「おっかしいな。たぶん、おっさんのこと警戒してるんだよ。向日葵とだったらすぐに降りてくるのにな」

「実は向日葵目当てだったりしてな」

慎は少しむっつりして僕の腹を殴るマネをした。

「おっさんは、絵描きなのか」

「うん。絵描きだったけど、全然売れなかったからやめたんだ」

「おっさん、彼女とか奥さんとかいるの? おっさんのこと聞かせてよ」

「彼女なんていないさ。妻はいたけど出て行ってしまったよ。僕との貧乏暮らしが耐えられなくなったんだ。結婚したとき、僕は証券会社に勤めていて給料もかなりよかったんだ。仕事を辞めて絵を描くと言ったとき、彼女は大反対だった。でも、それを押し切って仕事を辞めた。僕の絵はそれまで何点か入選したことがあったから、ちょっとは自信があったんだ。でも、結果が出なかった。生活の見通しがつかなくなって、僕たちはよく喧嘩した。彼女にとって大事だったのは結局、僕ではなくて安定した生活だったんだ」

自分でも驚くほど饒舌だった。慎には全てを話していい気がした。彼ならわかってくれる。そう思った。

「おっさんこそ奥さんのこと本当に愛しとった? 俺には愛しとったようには思えん」

その目はずっとヒラヒラと飛んでいるトンビを追っていた。

「おっさんが愛しとったのは、奥さんじゃなくてわがままな自分を許してくれる誰かだったんじゃないの」

僕はカッとなって、持っていたあおみどりを地面に押しつけた。折れた芯が手の平に刺さった。

「お前にはわからないんだ! まだ楽しい経験しかしたことないんだろう! 人生には苦しいことが色々あるんだよ! 」

慎はひるむことなく僕の目を真っ直ぐ見た。

「じゃあ、なんで奥さんが反対したのに自分の意見を押し通したんだ。自分の考えが受け入れられなかったからってそのまま押し切るなんて、そんなの自分勝手だ。奥さんの考え、本当にちゃんと聞いた? 」

慎の言うことは正しい。だけど、納得はできなかった。慎の口調は優しく、そして眼差しは柔らかかった。

 

 一つ長い息を吐いて、トンビに目をやった。

「慎のこと、聞かせて」

もっと彼を知りたかった。

「俺のこと? 俺、今までどうやって生きてきたっけな。忘れた」

彼は、おもむろに立ち上がって歩き始めた。僕はそれを追いかけた。

「忘れてないだろ。親は? 兄弟は? 教えろよ」

「親の顔は知らない。ずっと施設で育ったから。そこのやつらが兄弟みたいなもんかな。別に仲良くもねーけど」

ずっとヒラヒラと上空を飛んでいたトンビが慎の横にすっと降りてきた。

「ほら。やっぱり俺に懐いてるだろ」

ぱぁっと笑った。向日葵といい慎といい、なんでこんな笑い方ができるんだろう。


 ホームセンターを出ると、キョロキョロとあたりを窺いながら足早に立ち去る熊のマスターの姿が目に入った。手にはここのロゴが入った買い物袋を提げている。僕は、違和感を覚えながらも旅館に戻った。


 いつものように相棒の虫カゴに新鮮な草を入れ、霧吹きで湿らせた。ほわんほわんと光るお尻を眺めながら、慎のことを考えていた。辛いこともたくさんあっただろうに、それを感じさせない人懐っこさ、優しい瞳、折れない心。なぜあんなにも凛としているのだろう。見た目はチャラチャラした金髪田舎ヤンキーなのに、心の中はあまりに真っ直ぐだ。僕は、慎に怒鳴ったことを今更になって後悔した。若いから毎日が楽しいなんて誰が決めたんだ。あれは僕自身を守るための言葉だった。誰にだって自分の経験値だけじゃ量れない悩みや痛みがあって当然なんだ。

 相棒は虫カゴの壁を登ったり、葉っぱに飛び移ったりと、せわしく動いていた。今日はなかなか元気だ。歩く先へ指を差し出すと、とことこと登ってきた。そのまま窓の外に指を差し出したけれど、相棒はついに羽を広げることはなかった。

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