5 あと、一一日
霧吹きでカゴ全体を湿らせると、相棒は羽をぴくっとさせてトコトコと歩き始めた。初めて太陽の下で見たときは衝撃的だった。光らなかったら、ただのグロテスクな黒々とした虫なんだもん。体は黒くて細く、頭の部分が赤い。そんでもって触角がうにょっと伸びている。相当ヘビーなビジュアルだぜオマエ。相棒とか言っておきながら気持ち悪いと思うだなんて、ひどい人間だよ僕は。
あれ? 今日はまだ来ていないのか。タンジイが何処かに座ってやしないかとあたりを見回しながら歩いた。今日描くのは庭園を中心にして、二方向の先に鳥居が見えるという構図だ。つまり、二点透視ってやつね。早速色鉛筆を走らせた。
どのくらいの時間が経っただろうか。セイコーマーベルを見ると午前十時を過ぎていた。やはり気になってもう一度、神社内を歩いてみたけれどタンジイはおろか、人っ子一人見当たらなかった。約束を忘れちゃったのかな。まぁ、それはそれでしょうがない。僕はもとの場所に戻り、また、続きを始めた。
「どうしたんじゃ」
タンジイはひょっこり窓から顔を出した。
「どうしタンジイゃって。来ないから心配しちゃいましたよ」
ぴんぴんしているタンジイを見て、呆れてしまった。
「おお、すまんかった。今日はあいつの調子が悪かったけん、朝から病院に連れて行っとったんじゃ」
タンジイは寝床にいる猫に目線を送った。そういえば猫を抱えていないタンジイは初めてだった。猫は僕を一瞥すると、再び目を閉じた。
「佐和珈琲でサンドウィッチを買ってきました。一緒に食べませんか」
「飯のことなんてすっかり忘れとった。すまんの」
タンジイは僕を中に通してくれた。
「そう言えば僕、昨日ここにお弁当を忘れて帰ってしまったんですが……」
「おお! それならしっかり食べてやった。感謝せろ、青年」
タンジイはそう言ってニヒヒと笑った。やっぱり少しイラっとするな。
「あの、僕、言いそびれてしまったんですが、青年っていう年齢でもないんです。もう三十八だし」
「絵を描くときにあんだけワクワクしとるあんたはまだまだ青年じゃ」
「僕、合田って言います。合田
「名前はない」
「ペットなのに名前も付けていないんですか」
「ペットじゃなか。ただの友達たい。こいつは私の持ちものじゃなか。ただ、おいが傍におりたかけん、いつも勝手に抱きかかえとるんじゃ」
だってタンジイが毎日世話をしているんだろう。それを世間ではペットと飼い主と言うんじゃないか。
「こやつは、さき子が保健所から貰い受けてきたんじゃ。私は最初大嫌いじゃった。犬と違って猫は勝手気ままやけん。そがんところが気に食わんかったんじゃ。私はたいぎゃ反対したとぞ。でも、さき子がどがんしても飼いたいと言うた。普段、私に対して強く出ることがなかったさき子が、そやつのことだけは譲らんやった。私は勝手にしろて言うて、世話なんかひとつもせんかった」
タンジイはふっと目線を落とし、お腹をさすりながら言った。
「サンドウィッチ、貰っていいかの」
僕は袋からサンドウィッチを取り出し、タンジイの前に差し出した。タンジイはそれを一口齧って呟くように言った。
「そうじゃ。お茶を煎れんといけんかった」
僕はお茶なんかより早く続きが知りたかった。タンジイは、そんな気持ちを知ってか知らずか、ゆっくりとお湯を急須に注いだ。
「その五年後にさき子は死んだ。私は結局ただの一度もあやつの世話をせんかった。さき子も世話を手伝ってくれとは言わんやった。さき子が死ぬと、あやつは姿ば消した。私が世話せんことを知っとるけん、逃げたんじゃろうと思っとった。でもな、一週間後にまた戻って来たんじゃ。しょうがなかけん、さき子がいつもエサば置いとった棚に探しに行った。その瞬間、ふわっとさき子の匂いが鼻をかすめた。さき子は猫用の毛布を手作りして、それをエサのすぐ脇に置いとったんじゃ。私はその毛布ば抱きしめながら泣いた。さき子の前では一度も泣いたことがなかったとに、不思議なもんばい」
タンジイは僕の目の前にお茶を置いた。
「私はあやつの世話をしたことが一度もなかとぞ。これじゃ飼い主て言わんじゃろう」
タンジイはそう言って猫の傍に行き、労わるように背中を撫でた。いつになく穏やかな表情をしていた。だからこの人は、さっき猫のことを「友達」って言ったんだ。
「人は神なのかね」
唐突なその言葉に、僕は何も答えられなかった。タンジイは続けた。
「こがん小さか命を、生かしたり殺したり自由にできるんだからのお」
タンジイはそれ以上何も言わなかった。僕は、目の前に出されたお茶を一気に飲んで立ち上がった。
「僕、明日から毎日ここに来てもいいですか。タンジイの絵を描きたいんです。あのカンヴァスに」
そう言って、真っ白なカンヴァスを指差した。
「それは面白そうじゃ。まるで『タンギー爺さん』みたいじゃの」
タンジイは顔をくしゃくしゃにした。
昼は色とりどりの景色を楽しむことができるからいい。せらせらと流れる水の音。真っ赤なつぼみを付けた草花は、まるでまばらに筆を置いたみたいだ。しばらく手を浸しただけなのに、ジンジンと冷たさが伝わった。タンジイが「タンギー爺さん」なら、僕は「ゴッホ」だ。まるで子供のヒーローごっこだ。苦笑いしながらもなんだか嬉しかった。
「らっしゃい。待ってたよ」
店に入るとおっちゃんが腕を組んで待ち構えていた。いつもの席に座ると、俄然やる気が出てきた。
「合田のおっさん、がんばー」
聞き覚えのある声。まさか……。声の先を見ると、慎と向日葵がいた。僕は額に手をあててうなだれた。
「あの、すんません。今日なしにしてもらっていいですか。失敗代は払いますんで。餃子百個、あいつらと一緒に食べてもいいですか」
おっちゃんが快くオッケーしてくれたので、僕は慎たちと普通に食事をすることにした。
「なんだ、やめちゃうんだ。見たかったな、フードファイト」
「だ・か・ら! フードファイトじゃないって言ってんだろ」
僕と慎のやり取りを聞いて、向日葵がぱあっと笑った。
「そういやおっさん、繭ばあに俺たちのことチクったやろ。向日葵を家に送ったら繭ばあ、仁王立ちしとったんだからな。ちょー怖かったぞ」
「繭ばあ? ああ、あのばあさんのことか。向日葵のばあさんなんだってな」
向日葵がモジモジしながら上目遣いで僕に聞いた。
「私のこと、繭ばあが話しちゃったんでしょ。本当に恥ずかしい」
そう言うと彼女は両手で顔を覆った。もう、めちゃくちゃ可愛い。僕にもこんな彼女がいたらどれだけ学生生活楽しかったろう。その瞬間、慎が鋭く僕の目を見ながら餃子に箸を突き刺した。
「おっさん、それだけは許さんよ」
なぜ心の中を見抜かれたんだ。でも安心しろ。さすがに三十八のおっさんが高校生に手を出したりはしない。
「繭ばあって不思議な人だよな。ずっとあそこで一人暮らしなんだってな」
「ずっと忘れられない人がいたみたい。繭ばあは、あまり自分のこと話さないから、詳しくはわからないんだけど。縁談の話は幾つもあったんだって。でも、繭ばあはどれも断って、結局ずっと独り身でいることを選んだの。おじいちゃんがそう言ってた」
向日葵が餃子を一つ口に入れながら答えた。
それから僕たちは他愛もない話をしてじゃれあった。なんでも、慎はトンビに会いに海へ行くのだそうだ。確かにここらでは空を見上げるとよく、ピーヒャラララなんて鳴き声が聞こえる。海に行けば、もっと近くで見れるらしい。お菓子や食い物を持っていると絶対に取られるから、気を付けろと助言まで頂いた。僕はそんな流れで翌日、仕事が休みの慎とトンビを見に行くことになった。向日葵も一緒に行きたがったけれど、学校があるからと言って慎が許さなかった。見た目の印象とは違い、案外真面目な彼に少々驚いた。
彼らとは店の前で別れ、僕は相棒を連れて夜の散歩に。ホタルの季節は少し肌寒い。風がある日は間違って長袖一枚で出てしまうと鼻水が止まらなくなる。この季節のそんな危うさが僕は好きだ。
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