4 あと、十二日

 朝から胃がむかむかして調子が悪い。昨日の餃子が相当効いているようだ。それに嫌な夢をみた。母さんが僕を置いていった日の夢。最低の朝だ。

 しばらく寝床でぼーっとしていると、さつま揚げを炙った良い香りがしてきた。胃の調子は最悪なのに、腸はそれを食べたいと反応しやがる。困ったもんだ。食堂では仲居達が慌ただしく料理を決められた席に運んでいた。僕の名札のところには、先ほど置いたばかりと思しき朝食がしっかり準備されていた。席に座ると、ほわんと上る湯気にため息をついた。やっぱり今日は無理だ。米のにおいが鼻に付く。さつま揚げを一つだけ手に取ると、近くを通りかかった仲居を呼び止めた。

「ごめんなさい。今朝はなんだか食欲がなくって。こいつだけもらっていきますね」

「あら、大変。よろしければ、お昼用に包みましょう」

お昼も食べれる自信はなかったけれど、結局その心遣いを断ることができなかった。今は食品衛生の問題がどうとかで、持ち帰ることを断られる店も多いと聞く。この旅館はそういう細かいことは気にしないらしい。そんなどうでもいい事を、働きの鈍い脳ミソで考えながらさつま揚げをかじった。


 神社に着くと、タンジイは木陰にある大きな石の上にこしかけていた。そんなにあの猫が大事なのかな。まるで子供が宝箱を隠すみたいに、いつも両手で抱きかかえている。

「お待たせしました」

「今日は、ひと雨きそうじゃな」

タンジイは僕を一度も見ることなく、木々の隙間から見える空を見つめた。こんなに晴れているのに雨なんて降るわけない。じいさんついにボケちゃったのかな。僕はそんなことを思いながら、神社の中をふらふらと散策した。昨日は気付かなかったけれど、裏には小さな庭園があり、人口池には、数種の木々が覆いかぶさっていた。池にかかる小さな橋の淵にこしかけて反対側に目をやると、イモムシが体を波のようにうねらせている。虫は苦手だが、遠くから見ている分には平気だ。あれ? よく見ると淵の上や横、下にもいるぞ。もしかして、僕の座っているここにも……。

「ぎゃー、いっぱいいる!」

僕は思わず飛び跳ねて、お尻にイモムシが付いていないか何度も確認した。

「馬鹿じゃな、青年。そんくらいで大声を出すな」

その瞳は冷ややかだった。

「す、すみません。虫、苦手なもので」

僕は少々ひきつった声で、向こうから歩いてくるタンジイに返事をした。

 結局そこは諦め、境内とその斜め後ろに生えている大きな楠木を描くことにした。構図としては、奥行きの無さに物足りなさを感じたが、二つの存在感のある対象物が、好奇心を掻き立てた。

「僕、ここから描くことにします」

「石にしなさい。さっきおいが座っとった石。あれがいい」

「でも、この楠木に存在感があって。それに境内との対比も……」

「石じゃ」

僕の言葉に重ねてくるその感じにむっとしながらも、結局強い口調に負けてしまった。なんで描く対象をこのじいさんに指定されなくちゃならないんだ。僕は自分が描きたいものを素直に描きたいだけなのに。そんな憤りを意に介さないタンジイは、小さく頷くと斜め後ろからスケッチブックをじっと見つめた。


「あの、あんまり見られると描きづらいんですが」

タンジイは何も言わず抱きかかえている猫に視線を落とした。その後は時々視線を感じたが、さほど気にはならなかった。色鉛筆というのは重ねることで、微妙な色合いを生み出す。例えば、濃くて強い黒を作りたいときは単純に黒を塗り重ねるのではなく、数種の異なる色を重ねて深みを出すのだ。

 思い通りの色が出始めると、感情が高ぶり、自然と口が流暢に動いた。

「タンジイの奥さんはどんな人なんですか」

「私の妻はもう死んでしまった。十年も前の話じゃ」

せわしなく動かしていた手を止めて、思わずタンジイの顔に目線を遣った。タンジイは猫をじっと見つめたまま、その毛をわしゃわしゃと撫でた。

「僕、余計な事を聞いてしまいましたね。ごめんなさい」

そう言って再びスケッチブックに目を落とした。

「ぜーんぜん。もう昔のことじゃ。気にせんでよか。しかし、お前さんがどがんしても聞きたかて言うとなら、さき子の話をしてやらんでもない」

あまりに子供じみた返しにぷっと吹き出しながら僕は答えた。

「それじゃ、お願いします」

タンジイはまるで小学生みたいだ。奥さんはさぞ大変だっただろう。

「さき子とおいは中学の同級生やった。名前は、羽田さき子。スポーツができて頭も良かった。おいは小さか頃、走ることが苦手やったけん、体育の授業ではいつも友達からバカにされとった。中学二年の運動会前の話じゃ。今年こそバカにされんようにと思って、学校裏の鶴間川の河原でこっそり練習ばしとった。ばってん、毎日練習しとるとに走っても走っても速くならん。困ったなあて思いよったある日、下駄箱に差出人のない手紙が入っとってな。最初はラブレターかと思うてドキドキして家に持って帰った。そしたらな、なんじゃったと思う? 」

そう言うと、ワクワク顔で僕の目を見つめてきた。

「うーん、悪口が書かれてたとか……」

特に思い浮かばなかった僕は、おずおずと答えた。

「そがんわけあるかい! 想像力が乏しいのう」

やっぱり性格が悪い。自分で話をふったくせに、いざ答えたらこんなに冷たくあしらうなんて。さき子さんは何でこんな人と連れ添うことができたんだ。こりゃ奥さんも変人だな。

「お前には何度も話してやったけん知っとるよな」 

タンジイ抱きかかえていた猫に視線を向け、その顔をわしゃわしゃと撫でた。猫は迷惑そうな顔をして、その手から逃れようとした。

「それがなんと、練習のメニュー表じゃったんよ。一週間分の練習内容が事細かに指示されとるんじゃ。最初に見たときは、誰かに見られとったんじゃという恥ずかしさと、偉そうに指示してきおって何様じゃという怒りで、すぐにその手紙をゴミ箱に捨てたわい。ばってん、自己流で全然上達しとらんじゃったから翌朝にはそれを拾ってな、結局その通りに練習してみることにした。それから一週間後、また下駄箱に手紙が入っとる。今度は、『太腿をもっと高く持ち上げる』とか『スタートの踏み込みが甘い』とかやたら具体的に弱点を指摘してきおってな。またそれが的確なんじゃ。運動会までの一か月間、おいは毎週下駄箱に入っている手紙の通りに練習をした。運動会の当日は、たいぎゃ緊張したぞ」

タンジイは空を見上げながら笑った。もう何十年も昔のことなのに、昨日のことのようにいきいきと話した。

「一年の時はクラスで最下位じゃったのに、なんと二位になってな。ちなみに、一位のやつは学年で一番速いやつじゃった。ほんの少しの差やったぞ。おいは嬉しくって、それまでバカにしとったやつらにその賞状ば見せびらかしてやったわい。はっはっはっ」

「それで、結局その手紙を毎回下駄箱に入れていたのは誰だったんですか? もしかしてさき子さん? 」

「そう。さき子がいつもおいを見てくれとったんじゃ。さき子はスポーツが得意やったけん、私の悪かところを指摘するなんてわけないしのお。それがきっかけで、おいはさき子に惚れたんじゃ」

「でも、名前はなかったんでしょ。もしかして別の人だったんじゃ……」

「なぁに、手紙にはいつも蝶の絵が描かれとった。それにまつわる名前と言えばクラスでは羽田さき子くらいじゃった。『羽』じゃからな」

さき子さんの話をするときのタンジイは、なんだか照れくさそうで、中学生に戻ったみたいだった。いつもは生意気な小学生みたいだから、ちょっと成長したとも言える。

 再びスケッチブックに目を落とすと、ぽつりぽつりと雨粒がシミを作った。まずい。

「本当に降ってきましたね。どこかで傘を買わないと。このあたりで売っているところはありますか? 」

「だから降ると言ったじゃろう。店を探すより、うちに来た方が早かぞ」


 だんだんと雨足が強くなってきた。その家はとても古くて、物が多かった。捨てられずにいるのはさき子さんとの思い出があるからかな。

古びた机の上にあった一本の細い木炭に目が留まった。僕にはそれがデッサン用だとすぐにわかった。

「タンジイも絵を描くんですか? 僕、ずっと油絵を描いていたから、なんだか懐かしいな」

「おいは専ら売買専門やった。画商ってやつたい。昔は描いとったけど、もうとっくにやめちまった。最後にさき子の絵を描こうと思っとったが、もう記憶が薄れてしもうて、どがん顔ばしとったかよう思い出せん」

タンジイは何も描いていないカンヴァスを顎でしゃくった。

 僕は雨がやむまでそこに置いてもらい、先ほどのスケッチを完成させることにした。明るい太陽の下で見るのとは違い、蛍光灯の下で見るスケッチブックはやけに白茶けて見えた。

 ちょうどそれが完成した頃、窓の外に目をやると雨は既に止んでいた。

「明日もスケッチするかい? また、行きたいんじゃが」

「ええ、楠木神社で。まだ描きたいものがあるんです。明日もそこで」


 いっけね。朝、仲居が包んでくれた弁当をタンジイんちに忘れてきてしまった。なんだか取りに帰るのもおっくうで、しぶしぶ『佐和珈琲』に足を向けた。セイコーマーベルを見ると、昼の二時を回っていた。カランコロン。

「いらっしゃいませ。あれ、昨日も来てくれたね。何にしましょう」

熊のマスターはニッカリ笑いながらメニューを広げた。

「軽いものがいいんですけど、パンケーキかな。コーヒーも一緒に」

夜にはチャーハンチャレンジが控えている。今は重いものが食べれない。

「パンケーキよりやっぱり『佐和サンド』がよかよ」

熊のマスターのニッカリには負ける。

「それじゃ、佐和サンドで。この間、タンジイが食べていたハーフサイズでお願いできますか。実はあまりお腹が減っていなくて」

「アレはタンジイだけのサービスなんだけど、今日は特別な。そうそう。昨日はタンジイと一緒にご飯を食べてくれてありがとね。タンジイ、すごく嬉しそうやった。君、絵を描くとやろ。タンジイも昔、絵描きになりたかったみたいだから、君を見て懐かしくなったとかな」

急に親近感がわいた。


「お待ちどうさま」

「タンジイってどんな人なんですか? 奥さんは亡くなったと聞いたけど」

「もしかして、もうさき子さんとの馴れ初めまで聞いたかい。俺も詳しくは知らんなあ。タンジイは、高校を卒業と同時にさき子さんと東京に出ていっちまったんだ。駆け落ちってわけじゃないけど、親はかなり反対しとったらしい。絵で食っていきたかったんだな。確か一人娘がおったはずだ。戻って来たのはじいさんが五十の時やったかな。そんとき、さき子さんはだいぶ体を悪くしとったみたい。たまに調子のいいときは二人で散歩しとったな。それからしばらくして、さき子さんは亡くなってしまったよ」

色んな人生があるもんだ。タンジイは結局、絵を描くことが上手くいかなくて画商になったんだろう。世の中には「夢を見ろ」とか「諦めるな」とか聞こえのいいメッセージが溢れている。誰も、夢の終わらせ方を教えてくれない。僕は夢を追い続けてここまで来たけど、その結果がコレだ。母さんは男を作り家を出て、父さんは数年前に事故で死んだ。妻にも逃げられ、僕には家族が一人もいなくなってしまった。今は、鞄が一つと少しの金があるだけだ。生きることが辛かった。だから逃げた。誰一人知らない場所で、ひっそりとシャボンのように消えてしいまいたかった。


「お、来たね」

おっちゃんが笑顔で迎えてくれた。

「準備はできてますよ。始めましょうか」

おばちゃんが、1.5キロの大盛りチャーハンをおそるおそる持ってきた。これはデカい。僕の顔より大きいんじゃないか。

「スタート!」

レンゲですくって一口食べた。結構味が濃い。濃い味は飽きやすいんだよな。昨日の反省からそんなことを考えながら食べ進めた。開始三十分で残りは半分。すでに腹はきつくなっていた。このペースじゃ食べ終わらないな。ソースや塩を足したりしてみたがどうにも厳しそうだったので、僕はついにギブアップを宣言した。チャーハンは餃子以上にキツい。それは、最初から味の濃さが高めに設定されているところに理由がある。そのせいで飽きを感じるスピードが異常に早い。その分析から導き出された答えは……

「明日は、餃子でリベンジします」

店を出ようとすると奥から若い男の声がした。

「ねぇ、ちょっと待って!」

振り返ると、金髪にピアス、ちょっと猫背気味の十五、六と思しき変なヤツがこちらに歩いてくる。絡まれるのはごめんだ。その声を無視して外に出た。すると、金髪ヤンキーはしつこく外まで追いかけてきた。

「ちょっと待ってよ。お兄さんすごいね。昨日もチャレンジしとったでしょ。俺、見てたんすよ」

はあん、さてはここらのヤンキーだな。たかっても無駄だ。金はないし、今の僕に手を上げたってビビったりしないんだからな。どうせ僕の人生はあと十二日で終わりだ。僕はいつになく強気で好戦的だった。

「何か用? 」

「かっけーっすね。フードファイターっすか」

こいつ茶化してんのか。無視を決め込み、鶴間川の上流へと歩き始めた。どうしても、もう一度あのばあさんに会いたかった。しかし、金髪ヤンキーはいつまでも付いてくる。

「おい、いい加減にしろ! 付いてくるな」

久しぶりに大きな声が出て、自分でも驚いた。

「俺が行きたい方向もこっちなんだ」

そう言うと金髪ヤンキーはニヒヒと笑った。

「お兄さん、この辺の人じゃないでしょ? どこから来たの? どのくらいいるの? 俺ね、彼女いるんだ。すげぇ可愛いの。お兄さんに紹介してやろっか。でも、お兄さんが好きになっちゃったら困るから、やっぱやーめた」

さっきから一人でずっとしゃべっている。どうやら、たかりたいわけじゃなさそうだ。でも、なんの反応もしてやらない。


 結局、ヤツはホタルが見れるあの場所にまで付いてきてしまった。まったく、鬱陶しいやつだ。少し先に小さい影が見えた。もしかして……。僕はその影に向かって早足になった。

「おーい、向日葵!」

金髪ヤンキーが影に向かって叫ぶと、その影はすっと立ち上がり手を振った。なんだ違ったのか。

「お兄さん、名前なんて言うの? 俺は青山慎。あれは彼女の向日葵」

金髪ヤンキー……じゃなくて青山は、そう言って影を指差した。近くに行くと、なるほど。くっきり二重の瞳に、白くて細い指、髪はセミロング。九十点は軽く越える。

「待たせた。大丈夫だったか」

「うん。そちらの人は? 」

「俺も知らねーんだ。今さっきラーメン屋で会ったフードファイター」

「フードファイターじゃない。合田ごうだだ」

「ゴーダ? もしかして、下の名前はタケシ? 」

思わずげんこつを食らわせた。

「誰がタケシだ。漢字も違う」

青山は「いってぇ」と言いながら頭を押さえ、向日葵は「あははは」と、まるでアニメのキャラクターのように笑った。

「合田さん、ここへ何しに来たの」

「ん? ホタルを見に。ここは俺の母親が生まれた場所なんだ」

「ふーん。俺たち、今から海に行くんだ。合田さんも行かない? 夜の海は気持ちいいぜ」

「いや、いいよ。二人で行ってきな」

「あ……、俺のバイクで向日葵と二ケツして行くから、どうぜ合田さん一緒に行けんかったわ。ごめんごめん」

そう言って苦笑いする青山を見て、案外悪いやつじゃないのかもしれないと思った。

「向日葵、すぐにバイク取ってくるからそこで待ってて。合田さん、こいつに手ぇ出しちゃだめよん」

青山は投げキッスをして、走り去って行った。残された僕と向日葵は顔を見合わせて笑った。

「青山君、おもしろい子だね。最初は変なヤンキーに絡まれたなって思ってたんだけど」 

「ヤンキー? あはは。全然ヤンキーじゃないよ。私、慎ちゃんが大好き。慎ちゃんはね、私の命の恩人なんです」

「恩人? 」

「私の両親は喧嘩が絶えなくってね。その原因はいつも私のことだった。だからあの人たちは今も私なんていなくなればいいって思ってる。クラスの子達にその話をすると、みんな『そんなことないよ』って言うんだけど、一人だけ。慎ちゃんだけ、『ふーん、そうなんだ』って。『向日葵がそう思ってるんならそうなんだろ。俺は向日葵が言っていること、感じていることだけ信じるから、他のことは興味ねぇよ』って」

あたりに街灯はほとんどなかったけれど、月や星が明るいおかげで向日葵のぱぁっと咲いた笑顔を見ることができた。僕も学生時代にこんな彼女がいたらよかった。


「お待たせ、向日葵。合田のおっさんに何かされなかったか」

「おい、人聞きの悪いこと言うな。それに、さっきはお兄さんと呼んでいたのにいつからおっさんになったんだ」

「男はみんな狼だからね。信用できん。そんじゃバイバイ、おっさん」

青山はニンマリして会話にならない返事をした。二人はバイクに跨り、僕に手を振って行った。

 さてと。鞄の中に入れてきた虫カゴをそっと取り出し、そこらに生えている草をちぎってカゴの中に放り込んだ。相棒はびくっと羽を震わせたが、それ以上は動かず、じっとしたままお尻を光らせていた。僕は川を眺めながら畦道に座り、地面に虫カゴを置いた。一筋のヒカリが僕の目の前を横切った。ほわん、ほわんと一定のリズムを刻んでいる。目で追ってはみたものの、十秒もすると遠くへ行って見えなくなってしまう。暗闇に月と星とホタルだけが光るこの空間はとても贅沢だ。僕は服が汚れるのも構わず、草が生えた土の上に寝っ転がった。このまま、闇に溶けて消えてしまいたい。そんなことを思いながら目を瞑った。


 遠くから草を踏みしめる音がした。その音はどんどん近付いてきて、とうとう僕の頭元でピタッと止まった。ゆっくり目を開けると、あのばあさんが立っていた。

「あ、どうも」

ばあさんはその言葉を無視して言った。

「女の子を見らんやったね? 高校生ばってん」

まさかこのばあさんとさっき出会ったばかりの女の子の話をするなんて思わなかった。僕はびっくりして起き上がった。

「向日葵……かな。さっき、青山君と」

「あのバカ孫。まぁた慎と海にでも行ったとやろう」

あれ、なんかまずいこと言ったのかな。「孫」ってことは、この不思議なばあさんは向日葵のばあさんなの? 

「あの、僕、本当にあと十二日で死ぬんですか」

「間違いなく死ぬよ」

ばあさんは顔を皺いっぱいにして笑った。

「怖くなったかい? 」

「いえ。死なない方が苦しいです。僕の相棒はまだまだ元気みたいだから」

僕は、虫カゴを軽く指で叩いた。

「大丈夫。あれは解除できん」

そう言って僕の背中をトンとたたいた。


「ところで、あんたは何で向日葵と慎のことを知っとる? 」

僕は青山と一緒にここまで来ることになったいきさつを話した。

「ははは、慎は誰とでもすぐに仲良くなるとよ。対岸に学校が見えとるやろ。あそこは慎が通っとった中学校でね、あの子は学校が終わると決まって私の家に遊びに来とったとよ。うちは、ほれ、行き止まりになっとるあそこやけん」

ばあさんは僕らがいる畦道の延長線上にある家を指差した。

「たぶん私がいつもこの川を、あの縁側からぼーっと眺めとったけん、気になったとやろねぇ。毎日うちに来ては、教頭に呼び出されて怒られただの、勉強は嫌いだの愚痴をこぼして帰って行くとよ」

「ああ、それじゃ慎と向日葵はおばあさんちで出会ったんですね」

「本当はね、向日葵は私の孫じゃなくて、私の兄の孫でね。東京の学校でいじめられたとが原因で登校拒否になって、結局、親の手に負えんごとなって、遠く離れた私の所に預けられた。こがん私にもよう懐いてくれる、かわいか孫たい」

「おばあさんにも家族はいるんでしょ。旦那さんとかお子さんは今どちらに?」

「私には、向日葵だけばい。ついに結婚もせんでここまできたけんね」

ばあさんはちょっと寂しそうに笑った。僕ってデリカシーに欠けるんだよな。前の奥さんにもよく言われてたっけ。

「向日葵は慎と出会ってから毎日楽しそうにしとる。今じゃこっちの生活にもすっかり慣れて、登校拒否やったなんて信じられんくらいやんちゃ娘になった。慎は勉強嫌いやったけん中学を卒業してから高校には行かんで車やバイクの整備工をしとる。最近は自分のバイクを買ったけん、いつも向日葵ば連れ回すとよ。夜は危なかけん止めろって言っとるのに」


 

 積み減らしの終着点としてこの町に来た。ここに来た瞬間、僕は限りなくゼロに近かったはずだ。数少ない友人にも「さよなら」を言ってきた。仕事は五年前に辞めた。意気込んで没頭した絵では芽が出なかった。妻は呆れて家を出て行った。ついにこんな見ず知らずの土地にまでやってきた。それなのに、絵はもう諦めたはずなのに、また未練がましくスケッチなんかして……。その上、たまたま出会ったじいさんが、絵と関わっていたと知るや否や興味を持ち始めている。結局、ゼロになることはできないのか。何もかもが中途半端だ。強く首を左右に振って溢れてくる滴を捨てた。

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