3 あと、一三日

 今朝は寝覚めが良かった。旅館での朝食って何であんなに美味いんだろう。米がふっくらしているから、生卵をちょんと割って醤油を垂らして一杯。次は、炒った鰹節をまぶしてもう一杯。ここらの醤油は少し甘みがあるみたいだ。とろっとしていて、いつまでも舌に味が居座る。みりん干しにされた魚の干物から、ふっと磯の香りがした。表面を軽く炙っているから、香ばしさも加わり食欲をそそる。


 小川にかかる古い石橋。ボロボロで手付かずになった家。人っ子一人いない神社。スケッチの対象になりそうな場所はいくつもあった。

 大きな太陽の光が水面に映え、それを散らすようにカモの親子がすーっと泳いで行くのが見えた。その川沿いには二階建ての家が立ち並んでいる。

「きれいな一点透視だ。バランスもいい。消失点はあのあたりかな」

色鉛筆を取り出し、久しぶりに握るその感触を確かめた。ゴツゴツと形がいびつな木炭と違い、表面がつるつるとしたコーティングがされている。そのおかげでもうこの手が汚れることはない。爪の間に入り込んで一生取れないと思っていた黒い汚れは、すっかりなくなっていた。やわらかく強い風がふわっと前髪を持ちあげた。くぅーっとひとつ伸びをした次の瞬間、「よしっ」素早くきいろを手に取った。


 日がだいぶ高くなってきた。腕にはめている古びたセイコーマーベルを見ると、ちょうど一時を指していた。

 カランコロン。中に入ると、マスターらしき大男が迎えてくれた。熊の刺繍入りのエプロンをしている。ここは今朝、スケッチ場所を探していたときに目を付けていた喫茶店だ。とんがった赤い屋根が特徴的な西洋造りの建物で、扉の持ち手には太い流木が使われている。『佐和珈琲』と太く書かれた文字の褪せは、この店がこの地域にしっかりと根を下ろしていることを窺わせた。

「佐和サンドがオススメですよ」

水を差し出した手がもじゃもじゃしていて本物の熊みたいだ。

「そしたら、それください」

マスターはニッカリ笑った。

「ちょっと待っとってくださいね」

都会の教育されたいわゆる営業スマイルとはまったく違う笑顔に少し戸惑った。

「おっと、聞き忘れた。セットのコーヒーはいつお持ちしましょう? 」

マスターは後ろから髪の毛を引っ張られたようにのけ反ってから、僕のもとに戻って来た。

「そしたら、食後に」

「うちのコーヒーはおいしかよ。豆の挽き方が違う」

そう言ってもじゃもじゃの親指を立てた。


 カランコロン。扉に目をやると、猫を抱いたじいさんが中へ入ってきた。

「タンジイ、困るよ。猫はダメって言ったろう。毛が食べ物の中に入ったら大変やけん」

「なぁに、お客は一人じゃっかい。固かことば言うな」

じいさんは僕の方を顎でしゃくった。

「あ……あの、僕なら大丈夫ですよ」

「ほーれ見てみぃ。あちらの青年も大丈夫と言うとる。よかろう? 」

「まったく、タンジイには負けるよ」

熊のマスターは、僕に「ごめんね」と口パクして苦笑いした。じいさんは、わき目も振らず僕の向かいに座った。狭い店ではあったけれど、他に空いている席はいくつもあった。

「マスター、おいもこの青年と同じのば頼むけん」

どうしよう。何かしゃべらないと。

「あ……あの、タンジさんというお名前なんですか。えらくハイカラですね」

「タンジじゃなくてタンギ。丹木って言うのは名字たい」

そう言いながら、煙草をふかし始めた。煙草は苦手だったけど言い出せなかった。

「た、丹木さん。その猫、可愛いですね」

「タンジイでよかぞ。こいつはおいの命やけんね。それはそうと青年、さっき鶴間川の絵ば描いとったろう。見せてくれんか」

歩く人とほとんどすれ違うことがないこの町で、スケッチする僕を見ていた人がいたなんて。

「ああ、さっきの絵ですか。そんなにうまくはないのですが。うーん……」

何度も鞄の蓋を開けたり閉じたりしていると、タンジイは右手を突き出して言った。

「やんややんやと言い訳せんでよか。ぴゃっと見せてみろ」

初対面なのになんて図々しい人なんだ。そう思いつつも、言われるままにスケッチブックを取り出した。

「ほぉ。なかなか、腕の立つごたる。お前さんには水面の光がこがんふうに見えとるんじゃな。よか絵じゃ。気に入った。あんた、ここらの人じゃなかろう。どっから来た」

「東京からです」

 熊のマスターが「佐和サンド」を二つ持ってやって来た。厚切りトマト、チーズにアボカドが入って結構なボリュームだ。これにサラダとコーヒーが付いて六百円。

「タンジイのは、ハーフサイズな。値段もハーフにしとくから」

「嫌じゃ。おいは食べられるぞ。大きかとば持ってこい」

「だーめ。そう言って毎回残すんだから。『ちゃんと食べれる分だけ頼みな』ってばあさんにも言われとったろ? はあん。今日は若い青年と一緒やけん見栄張っとるんだな」

タンジイはぶすっとした顔をして熊のマスターを睨みつけた。

「そんな顔してもだめ」

熊のマスターは慣れたようにあしらった。じいさんは、ふんっと顔をそむけてサンドウィッチに齧り付いた。まるで小さな子供みたいだ。込み上げてくる笑いをぐっと堪えた。


 他愛もない雑談を二、三交わしただけで、結局僕が先に席を立った。

「しばらくこの辺におるのか? おるなら、また絵を見せてくれんか」

「ええ、いいですよ。明日は大きな楠木のある神社へ行ってみようと思っています」

わけのわからない我が儘じいさんとまた会う気になったのは、僕の絵を褒めてくれたからだ。たとえ色鉛筆のスケッチだとしても、僕の絵を「気に入った」と言ってくれたことが嬉しかった。


 鶴間川に戻ろうと十分ほど歩いただろうか。「あっ」思い出してもと来た道を戻った。

 カランコロン。「この辺りに虫カゴを売ってるところありますか」

熊のマスターはニッカリと笑って、前の通りをまっすぐ行ったところにホームセンターがあるとおしえてくれた。タンジイの姿はもうそこにはなく、机の上には食べきれなかったらしいハーフサイズが残されたままだった。

 

 旅館に戻ると早速、昨日の夜からコンビニ袋に入れっぱなしだった相棒を虫カゴに移し替えた。そこらに生えている草と水を少し入れていただけだったけれど、成虫にはそれで十分なのだという。ホームセンターの店員は物知りだ。

 昨日のラーメン屋うまかったな。そういや、あの店にはチャレンジメニューの貼り紙が出ていた。餃子百個を六十分で食べ切ると賞金三千円。失敗すると五千円……だったっけ。晩ご飯で挑戦してみようかな。今まで、大食いどころか大盛りだってろくに頼んだことがなかった。けど僕、あと十三日で死んじゃうんだろ。それなら一回くらいやってみるのも面白そうだ。案外いけるかもしれないしね。日が暮れる頃、僕は旅館を後にした。


 赤黒い煤けた暖簾をくぐり、チラシを指差しながら勢いよくおっちゃんに声をかけた。

「あの、今からこれに挑戦したいんですけど」

僕の熱い気持ちに反して、おっちゃんは苦笑いした。

「お兄ちゃん、急に百個は用意できないんだよ。ほら、前日までに連絡くれって書いてるだろ」

本当だ。脇にちゃんと書いてある。急に恥ずかしくなって顔にドクドクと血が上るのを感じた。

「ごめんなさい。それならいいです」

その場にいるのも嫌になり、踵を返した。

「ちょっと待って。今日はそんなに忙しくないから、一時間待ってくれたら準備しとくよ。どうだい」

旅館での勢いはすっかり失っていたけれど、おっちゃんがわざわざ準備してくれるって言うもんだから断りづらくなってしまった。

「それじゃ、よろしくお願いします。僕は時間まで散歩してきます」

店の前を流れるこの川の上流に、昨日、あのばあさんと出会った場所がある。時間を潰すにはちょうどよさそうな距離だ。

 目を凝らしてあたりを見回したけれど、そこにはホタルがふわっと舞っているだけで、ばあさんはおろか人っ子一人いなかった。暗い川のせらせらと流れる音がやけに心地よかった。


「お、待ってたよ。始めるかい」

最初におばちゃんが餃子三皿を目の前に置いた。

「一皿十個入りですよ。準備はいいですか」

「はい。始めてください」

手の平に汗をかいてきた。久々だ、この緊張感。

「スタート! 」

おばちゃんがストップウォッチをぎゅっと握った。僕は勢いよく箸で二つ掴んだ。味は至極普通だった。六十分もあるし、これなら簡単じゃないか。僕はニヤリと口角を上げ、勢いよく箸を進めた。三十分が経過したところで、ちょっと苦しくなってきた。残り四皿。このままのペースでいけば余裕でクリアできるはずだ。しかし、懸念要素はある。だんだんとこの味に飽きてしまってきていることだ。

 目の前にあった酢を小皿に入れ、それに餃子を浸して食べた。さっぱりしているし、これならいけるかもしれない。五十分が経過した。今度は酢の味にも飽きてきた。お腹もいっぱいだ。残り二皿。僕は渾身の力を振り絞って十個を食べきった。

「はい、終了です。残念。あと一皿だったねー」

その明るい声が、残酷に僕の心に響いた。財布から五千円札を取り出して、失敗の代償を支払った。

「ありがとね。またチャレンジしてね」

おばちゃんがほくほく顔で言った。それならと勢いで、つい言ってしまったんだよな、バカな僕は。

「また明日の夜、今度はチャーハンでチャレンジしに来ます」

そう言って、もう一つのチャレンジメニューであるチャーハンのチラシを指差した。


 旅館までの帰り道、僕はさっきの宣言をもう後悔し始めていた。こんなにお腹いっぱいなのだから、さすがに明日は食べれないに決まっている。今から断りに行ってもいいけれど、堂々と宣言しちゃったからな。ええい、なるようになれ。僕は道端に生えていた草を数本ちぎった。相棒の家にそれを投げ入れ、昼間にホームセンターで買った霧吹きで家中を湿らせた。これでよしっと。お腹がはち切れそうだ。最初はあんなに美味しいと思ったのに、五十個を超えたあたりから味に飽きてくるんだよな。最初から餃子にタレを付けたのがまずかったのかな。最初はタレなしでいった方がいいな。あー、もう餃子のことは考えたくない! 

 部屋の電気を消して相棒に目をやると、今日取ってきたばかりの草の上で強い光を放ち、僕の心をふやふやと溶かしていった。こいつ、喜んでるのかな。新しい草、取ってきてよかったな。いつの間にか意識は飛んでいた。

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