ある日の亀山旅館

増田朋美

ある日の亀山旅館

ある日の亀山旅館

その日も、穏やかに晴れていた。でも世間では、外出自粛なんて日々が続いている。政治家が、国民にお金をというが、そもそも実現できるかは疑問符が置かれている。そんなことより医療体制をどうのとか、検査道具がどうのとか治療薬がどうのとか、日本政府は細かいことばかり気にして、決断ができないようなのだ。昔の、聖武天皇が生きていた頃だったら、大仏を作ってどうのとか、すぐに決断することだってできただろうに。そんな歴史がある日本人なのに、今回の流行には、おかしなことばかり先走ってしまうようなのである。

そんな中でも、亀山旅館は休業せず、しっかり営業を続けていた。その理由は地元の人たちもよく知らないが、相変わらず亀山旅館は、繁盛していたのである。

その日、沢渡和夫は、国勢調査のため、井川の接阻峡を訪れた。和夫はその日、すぐに市役所へ戻るつもりでいたから、車ではなく大井川線の電車を使った。電車はがら空きで、誰も乗り降りはしなかった。千頭駅を出ると、すぐにアプト式の、井川線に乗り換えた。車掌さんが、きっぷを切りながら、こんな時期、乗ってくださってありがとうございます、なんて丁重に礼を言ったくらいだ。

そうこうしているうちに、奥大井湖上駅を経て、接岨峡温泉駅に着いた。和夫はそこで電車を降りる。桃源郷みたいな奥大井湖上駅に比べると、ここはなんてことのない温泉街だった。ただ、ほとんどの旅館は、今の流行のせいで、閉まっていたけれど。

和夫は、接阻峡の家々を回って、今流行りの発疹熱に、対する意識調査をして回った。この地域はもともと人が少ないから、あまり危機意識もないかなあと思っていたらそうでもない。みんな公務員の和夫に、いつになったら外出ができるのかと、口を揃えてまくしたてる。それはまだわからないとしか和夫が答えられないでいると、公務員は、国から養って貰えるのだからいいな、なんて言うあてつけをされてしまうことさえあった。意識調査より、そっちを聞くほうが長くなってしまい、和夫が全部の家を回って、さあ、役所に帰ろうかと、駅へ戻ろうとしたときには、もう電車は終電時刻をとうに過ぎてしまっていた。

こうなるからこそ、車で行くべきだったなあと和夫は激しく後悔した。タクシーで帰ろうかと思っても、タクシーは休業していて動いていなかった。しかたない、ここで一晩過ごしてみるかと思ったが、旅館もほとんど休業している。和夫は仕方なく、どこか空いているところを探そうかと、ほとんど人がいない、森の中を一生懸命歩き出した。

そんな中で、一軒だけ明かりのついている旅館があった。亀山旅館である。ここならとめてくれるかもしれないと思った和夫は、よし、行ってみようと思い付き、亀山旅館の暖簾を潜った。

「すみません。一晩とめていただけないでしょうか。」

和夫がそういうと、応答したのは弁蔵さんであった。

「はあ、どういうご要件で?」

「いや、ちょっと終電に間に合わなかったので、もう泊まるところがなくて。」

弁蔵さんはちょっと困った顔をしたが、仕方ないなという顔になった。ということは、部屋がいっぱいということはなさそうだと和夫は思った。

「いいですよ。おひとりさまなら、梅の間へどうぞ。うち、松と竹と梅の三部屋しかありませんので。」

「ありがとうございます!」

和夫はやっとほっとして、弁蔵さんから渡された鍵をもち、言われたとおり梅の間と書かれている部屋に行ってみた。


確かに長い廊下に3つのドアがあって、松の間、竹の間、梅の間、と書いてある。多分防音してあるから、隣の部屋の音などはきこえてこないだろう、なんて和夫は考えていた。とりあえず梅の間の鍵を開ける。昔ながらの施錠の仕方で、オートロックにはなっていなかった。こんなに新しくてきれいな旅館なのに、なんでこうなっているのか、不思議でしかたなかった。

とりあえず、梅の間に入ってみると、なんてことのない和洋室だ。ベッドルームと、和室の居間のようなスペースがあるだけである。なんだか一人で使うには贅沢すぎるような、そんな気がしてしまう。

和夫は、和室スペースへ行って、どかっと腰を下ろした。テレビを見たいと思ったが、テレビが設置されていなかった。新聞も用意されていない。洗面器などのアメニティーは、結構充実しているのになぜ?和夫は不思議で仕方なかった。

「失礼いたします。お夕食は、何時頃になさいますか?」

弁蔵さんが、また部屋に入ってきた。

「あ、ああ、そうですね。六時くらいで大丈夫です。それよりなんでテレビがないんですか?」

和夫はそうきいてみる。

「ええ、テレビはみて気分をわるくするからと言うわけで置いてないんです。」

と、弁蔵さんは答えた。

「ちなみに、スマートフォンもここてはつながらないようになっております。」

確かにそうだった。スマートフォンも、タブレットもみんな圏外になっていた。これではまるで、無人島にでも行ったような、そんな気持ちになってしまう。

「あのう、ここにはどんなお客さんが来ていらっしゃるんですかね?」

和夫はそう聞いてみた。

「まあ、いろいろ事情がある方ばかりですね。」

と、弁蔵さんは言った。それ以上の事は言わなかった。テレビがなく、スマートフォンも、つながらないのは困ると和夫が言うと、退屈なら風呂にでも入って見たらどうかと言われた。一応、露天風呂もあるからという。和夫はとりあえずわかりましたと言って、風呂に入る支度をした。食事する前に風呂に入るなんて、何年ぶりだろうか。

風呂場は部屋から離れていた。なのでまた長い廊下を辿る必要があった。とりあえず竹の間の前を通ってみると、なんだか大音量でベートーヴェンの第九を流しているのが聞こえてくる。その隣の松の間では、男性にしてはやたら細い声であるが、酷く咳き込んでいる音も聞こえてくるのだ。なんだかおかしなところに来てしまったな、と、和夫は困ってしまった。とりあえず、風呂場に行って見たところ、風呂場は完全な岩風呂だ。小さな旅館の割に、風呂場は広々している。これではもったいないくらい、贅沢な風呂場だった。ちゃんと温泉の成分表も貼り付けられていた。天然の温泉が、あまり過ぎているくらいあるような。そんな感じの風呂場だった。

それにしても、この旅館には、よくある娯楽室もなかったし、食堂のようなものもなかった。そうなると、単に観光客をむかえるためにあるだけではなさそうだ。一体誰が、こんなに不便な旅館を使うのだろうか、和夫は不思議で仕方なかった。

温泉は確かに気持ちの良いものであった。のんびりしていて、本当に力が抜けるようにできていた。でもなんだか、ちょっと、贅沢すぎるというか、広すぎる。こんなに豪華な風呂場があるのは、なんともミスマッチな旅館のような気がする。

和夫は、岩風呂から出て、部屋に戻りテレビのない部屋で、ボンヤリ時間を過ごしていた。テレビもスマートフォンもつながらないで、こんなところはなんの楽しみがあるのかと、思ったが、外は鳥の声が聞こえているし、カエルの鳴き声もする。変わったところでは、フクロウでもいるのだろうか、ホウホウなんていう音も聞こえてきた。流石にひぐらしのなく季節ではないが、もしいたら本当に趣深い場所にになるだろう。


「お夕食です。」

弁蔵さんが、夕食を持ってやってきた。夕食は、山菜入りのイノシシ鍋だという。イノシシは癖があり食べにくいとされているが、ここで食べるイノシシ鍋は嫌な匂いもせず、美味しい味がした。他にも、せりとか三つ葉とかそういう天然の山菜がたくさん入っていて栄養価もたっぷりだ。まさしく、サプリメントに頼らない、栄養食という感じだった。みんな柔らかく調理されていて、あまり噛まなくてもいいというところが特徴的であった。そういうわけだから、ガッツリ行きたい和夫には、物足りなかった。なんだか健康食品すぎる気がして、猪肉も、山菜も、体に溜まらないような気がした。

「なんだか、健康食品に気を使いすぎる、まるで、高原の療養所に来ちゃったような気分だな。」

と、和夫はぼそりとつぶやく。

「こんな健康食品ばかり食べさせられて、みんなほかのお客さんは、文句みたいなことを、言わないのかなあ。」

という文句も出てくる。確かに、竹の間や、松の間に泊っているお客さんも、これと同じものを食べているはずだから、こんな地味な食事で、満足しているのだろうか、という疑問もわいてしまうのであった。

そのうち、ガラッとふすまが開いて、弁蔵さんが顔を現した。食器を片付けに来たのである。

「お料理、いかがでしたでしょうか。」

なんて弁蔵さんが言うが、和夫は答えようがなかった。うまいともまずいとも言えないこの料理。

一応、完食はしてあるけれど、どこか薄味で、物足りないなんて言うことを、言えるはずがないよなあ、と、思ってしまう。その代わり、今までもっていた疑問を解消したい。と思って、こんなことを言ってしまう。

「あの、本当にこの旅館では、どんな人が滞在しているんですかね。ほんとに、普通の観光旅館なんでしょうか。もしかしたら、法に触るような、、、。」

「いえ、そういうことではありません。ここにきている人たちは、みんな、何かしらのことで、傷ついている人たちです。そういうわけで、テレビを置かなかったりしているんです。それだけのことですよ。」

和夫がそういうと、弁蔵さんは答えた。それ以上、言わないでくれという口ぶりだった。弁蔵さんのその顔を見て、和夫はちょっといらだったような気がする。傷ついたってどういうことだろう。そんなに社会から隔絶するほど、傷ついた人たちはいるんだろうか。そんな人は、本当は悪い人であると和夫は思っていた。自分で何とかしようとすれば、何とかできるはずの環境も変えずに、ただつらいとか苦しいとかを口走る、弱い人にしか見えなかった。和夫も、時々生活保護とか、そういうものを求めてくる人の相手をすることもある。大体、そういう人は、すぐに公的機関に頼ろうとする甘ったれた人、としか、和夫は定義していなかった。そういう人たちは、自分を自分でコントロールできないダメな人だから、相手にしなくてもいい、という上司の呼びかけが、和夫にも染みついていた。

だって、自分のほうが、公務員採用試験に合格したりしているんだから、よほど甘えている人たちよりもえらいはずだ。そういう人たちは、社会に甘えようとしている悪人。だから、消してしまってもかまわない。働かざる者食うべからず、和夫は、そういう人達の中で育ってきたから、公務員という仕事に就いたのだ。一番ただしい仕事、一番正しい組織、一番正しい生き方をしている。そう思っていた。

だから、自分の意見は、誰よりも正しいんだと思っていた。だから、テレビを置くとか、スマートフォンをつなげるようにするのは、当たり前のことだと認識していた。そういうことができなければ、この世の中生きていかれないもの。やれないでなくて、やろうと努力しない。そういう人を相手にする必要はない。殺してしまえ、とは言わないけど、そういう人はいてもいなくてもいいのだから、と和夫は日ごろから考えて、市役所の業務にあたっている。

「そういうわけですから、あんまりほかのお客さんのことは口にしないでくださいね。ここにいる人たちは、みんな事情があるわけですから、あんまりそこに入り込まないようにしてください。」

と、弁蔵さんは、そういって、食器をテーブルの上から、ワゴンの上に下した。そして、じゃあ、明日の朝七時に、朝食を持ってきますから、ゆっくりなさって言って下さい。と言って、部屋を出ていった。

弁蔵さんが出ていくと、部屋はまた静かになった。テレビもスマートフォンも使えないから、本当に部屋は静かだった。時折鳥の鳴き声が聞こえてくる程度である。もし鳥に詳しい人であれば、ああ、あれはヒヨドリだ、あれはフクロウだ、とかそういうことを言って、楽しめるかもしれないが、和夫は何も楽しめることはなかった。楽しめると言えば、テレビやスマートフォンのゲームだけだ。調査の資料をまとめようかとも思ったが、そういう気持ちにはなぜかなれなかった。それよりも、俺は事情のある人、即ち甘ったれている人よりも、よっぽど優れているんだぞ!という気持ちから、ほかのお客さんたちがするようなことは、したくないという気持ちのほうが強かった。


仕方なく、部屋の中でぼんやりして過ごした。テレビもないし、本もないし、雑誌類も何もないし、スマートフォンも動かない。そんな状況で、強くなっていくものは、ほかのお客さんよりも自分は優れているということだけであった。

ふと、のどが渇いたという気がした。部屋の中に冷蔵庫は設置されていなかったから、外へ出て、廊下にある自動販売機に行くしかなかった。オートロックになっていない部屋のドアを開けて、面倒くさく施錠して、自動販売機の前に向かう。

竹の間の前を通りかかると、もう、第九交響曲は流れていなかった。和夫が、自動販売機の前に行くと、そこにはすでに先客がいた。旅館の自動販売機なら、ビールなどが売っていてもおかしくないが、そのようなものは一切置かれておらず、自動販売機には、いわゆるお茶系の飲み物だけしかなかった。

「ああ、あの、竹の間のお客さんでしょうかね。」

と、和夫は、自動販売機の前にいる人に、そういってみる。その人は、ちょっと、にこやかな顔をした、普通の人ではないなという雰囲気のある人だった。

「いいえ、違います。私は、松の間で宿泊しています。」

「はあ、そうですか、、、。」

と、和夫はちょっとがっかりした。竹の間のお客さんであれば、ちょっと音量を下げてくれと頼むこともできたのではないかと思ったのに。でもどうせ、この人も、事情がある、つまりダメな人であることは、確信したので、

「竹の間のお客さんはどんな人なのか、ご存じありませんか。」

とりあえずそういうことを言ってみる。

「ええ、私も詳しくは知らないのですが、なんでも学校で傷ついたために、療養に来たそうです。」

と、その人は、ジュースを取り出しながら、そう返した。なんだ、たったのそれだけのことか。それでは、大したことないじゃないか。と和夫は思った。

「でも、人間は、体と心の時計が止まってしまう人も数多くいるんですよね。そういう人がこの旅館で、ゆっくりしているんだと思います。」

と、その人は言って、また松の間へ戻って行く。和夫は、そのあたりが理解できなかった。時計が止まったままって、時計は電池でも切れなければ動いているじゃないか、と思うのであるが。

「じゃあ、また。」

松の間へ入っていくその人を見て、和夫はなんだか覗いてみたいという気持ちになった。もちろん松の間はカギをかけてしまえば中は見られないが、音は聞こえてくるような気がする。幸い松の間のドアには、誰が入ってきたのかわかるようにするためか、ドアに小さな穴があった。そこから覗けばいいんだと考えた和夫は、松の間のドアの穴から中をのぞいてみた。

例の、自動販売機の前であった人が、ガラス製の吸い飲みにお茶を注いでいるのが見える。ベッドの上には、本当にきれい人が横になっていて、先ほどの自動販売機の前で会った人から、お茶をもらっていた。

なんというひどい人だろう。と、和夫は思った。人にわざわざ、お茶をもらっているなんて、言語道断である。お茶をもらいながら、ひどくせき込んでいるのも見えた。綺麗な人というのは、そういう風に、なんでもやってもらうことができてしまうのだろうか。和夫は、そういうものが嫌いだった。そういう人は、悪い人だと教えられてきたからだ。


再び、竹の間から、第九交響曲が流れ始めた。先ほどの、自動販売機の前で会った人の言うことが本当だったら、自分のことを処理しきれなくて音楽に当たり散らしている、なんという悪い奴だということになる。

「もしもし!音楽を小さくしてくださいな!」

と、和夫は、竹の間の戸を叩いた。

「人に迷惑をかけていることも考えてください!」

そういうことを言っても、第九交響曲は止まらなかった。むしろ、音は大きくなっているように見える。

「ちょっと!これだけ人が迷惑していることを考えてもらえないでしょうか!ここは自宅じゃなくて、旅館なんですよ!」

と、和夫がさらに、声を荒げて、そういうことを言うと、

「仕方ないと思ってください。」

と、いつの間にか弁蔵さんがそこに立っていた。

「しょうがないんですよ。彼女は、重度の対人恐怖なんです。怖いという気持ちが出ると、そうして好きだったベートーヴェンの第九をかけて紛らわすしかないんです。」

「しかし、ここで迷惑していることも考えてください。」

和夫がそういうと、

「まあ確かに迷惑かもしれないですが、彼女はここにしか、居場所がありません。だから、こういう人がいるんだってくらいに思ってください。」

と、弁蔵さんは言った。

「なんで、人に迷惑をかける人をそうかばうんですかね。」

和夫は、弁蔵さんにそういう風に言ってみる。それが一般論として当たり前だと思うのだが。

「かばうわけじゃありません。ただ放っておいてくれと言っているんです。あなたみたいな、人には、絶対彼女の感じている怖さを理解することはできませんよ。きっとそうですから、放っておいて下さいとお願いしています。」

と、弁蔵さんは言った。確かに、彼女のような人間を理解するなんてことは、和夫にはどうしてもできなかった。何も仕事もしないで、親と生きて、ただ同情をもらうようにしか生きていない。そういう人をなぜ大事にするのか、和夫はいくら考えてもわからない。

「きっと、戸を叩くのをやめてくれれば、彼女は音楽を聴くのをやめてくれるんじゃないですか。」

と、弁蔵さんが言ったので、和夫はドアから離れた。確かに、その音を聞きつけたのだろうか、第九交響曲は少し小さくなっただろうか。そうなるとなんていう敏感さだろうかと和夫は思った。

「ほら、そうしてくだされば、いいんですよ。もう人種が違うんだとか、そういう風に考えて、放置しておいてくれればいいんです。」

「しかしですね。ここは旅館でしょう。それなら、誰でも楽しめるようにしなければならないのではありませんか?スマートフォンもつながらない、テレビもない、娯楽室もない、そんなところで、よくやっていけると思いますね。それで、なにができるというのでしょう?みんな退屈すぎて、いやになるのではないですか?」

和夫は、弁蔵さんに、こうなったら言ってしまえ!と思って、疑問に思っていることをぶつけた。

「はい。ありません。」

と弁蔵さんは答える。

「だって、ここは転地療養のためにきている人ばかりですから。そういう人に、現実生活のつらさをもう一回味わせたくはないでしょう。」

「転地療養って、明治時代じゃあるまいし、、、。」

和夫はあきれてしまった。そんなことを、今の時代になってやるべきことだろうか?そういうことであれば、病院に入るとか、もっと大変な人は、ホスピスに行くとか、そういうことをすべきだと思うのであるが、、、。

「現実世界では、松の間のお客さんも、竹の間のお客さんも、生きていくのは大変なんですよ。だから、ここにきている間は、それを忘れてほしいなと思って、できるだけ、静かに過ごしてもらえるようにしているんです。」

弁蔵さんはそういった。まったく、わけのわからないところに泊ってしまったものだ、と和夫は、憤慨したまま、梅の間に戻った。とにかく、スマートフォンの電波が入らないということ、テレビがないということが、実に不便なところだった。その晩は一人で、ベッドの中でぼんやりとするしかなかった。竹の間のお客さんは、かなり夜遅くなるまで第九交響曲を流していたし、松の間のお客さんは、時折せき込んでいる音が、はっきりと聞こえてきた。


次の日、弁蔵さんが、朝食を持ってきてくれたが、その内容が何とも粗末なものであった。ご飯とみそ汁と、鮭の塩焼き。本当に、典型的な和食と言えるもので、何も食べた気がしなかった。とりあえず、和夫は、それを完食して、もうとにかくこんな場所にいるのは、いやだから、すぐにでようと決断し、弁蔵さんに宿泊費を支払って、始発のタクシーを呼んで、すぐに下界に帰っていった。町場は快適だった。メールも電話もふんだんにできた。人の声もしているし、車も走っている。ああよかった、あんなところから逃げてこられてよかったと、和夫は思いながら、金谷駅でタクシーを降りた。かなりの金がかかってしまったが、あんなところから逃げられて本当によかったと思った。

ふと、スマートフォンを見ると大量のメールが入っていた。圏外だった時に受信したのが、今になって表示されたらしい。急いで彼は、スマートフォンを取ってみると、メールの送信者はすべて妻からで、その内容は昨日、精神科に行ってきた、ということから始まって、自分が、うつ病と診断されという内容であった。



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