コンプレックス

 ジリファが袖で顔を覆って後退あとずさった。

「さすがジリファ。よくわかったね」とラウラ。

「何、ガス?」

「ガスじゃない。散布型の魔素だよ」

 キアラはわけがわからなかった。

「今すごく瞼が重くなった。普通に瞬きしたつもりで1,2秒目を瞑ってた。意識レベルが下がってる」とジリファの自己分析。

「交感神経の働きを鈍らせる機能の魔素でね、あまり興奮されてると話にならないだろう?」ラウラはスプレーキャップのついた細長い小瓶を袖から取り出して振ってみせた。

「魔素?」

 内側から天使の体を侵食するようなタイプではないのか。

「血中魔素とは違う。体内に入ってもそのうち免疫に除去されるから心配いらない」

 ああ、急に感情が凪いだのは魔術のせいだったのか。キアラ騙されたような気分だったが、妙に気持ちが落ち着いてしまって突っかかる気にはなれなかった。

「私はもともとこの手の魔術が――要するに自分の魔力を消費しないものが専門でね。発動系の魔術はあまりやらない。魔力容量も良くて中の下だね。だから翼の維持はつらいんだ」

「飛びながら他の魔術を使ったらもっと早くガス欠になってた?」

「そうだね。その前に長距離飛行があったってことを忘れずに考慮してもらいたいけどね」



 ラウラは草の上に横になった。

「いいねぇ、いちいち翼のことを気にしなくていいのは気が楽だよ。背中の筋肉に妙に力が入ってね、ずっとやってると肩が凝るんだ」

「あっ」

「何か?」

「人間なら、その口のきき方は」

「ああ、そうか、それがこの国の文化だからね。より下位の者はより上位の者に敬意を表して敬語を用いる。ただ、種の違いというのは優劣なのかい? 同種の中で階級差をつけるのはまあ構わないが、それとも種の違いを無視してあらゆる生き物をその階級の中に巻き込むのか」

「ネロを呼んでくれないか」

「なぜ」

「嫌ならいい。本人の意思に任せる。――おーい、ネロ」ラウラは手を上げて指笛を吹いた。

 ネロが飛んできて着地前にフレアをつける。大風が吹いて花びらや葉の切れ端が空に舞い上がった。

 ラウラは改めて翼を現した。

「ネロ、どうだい、私は人間なんだ。この翼は作り物さ。食べたくなったかい?」

 ネロは翼の行方には興味を持たなかった。何度か瞬きしただけだ。それがどうした? といったふう。

「変わらないね。まるで知ってたみたいだ」

「気づいてたんだ。グリフォンは見かけで天使と人間を判別しない」

「それか、そもそも人間と天使を区別していないのかもしれないよ。蟻と羽蟻くらいの違いに思っているのかもしれない」

「まさか」キアラは吐き捨てた。

「グリフォンは天使に敬語を使うのかい?」

「え?」

「天使の位階ではグリフォンも下の方に入ってるんだろう?」

 キアラは頷いた。「でもグリフォンは喋らない」

「言葉以外の敬意があるのかい?」

「命令を聞く」

「『聞いてやってる・聞いてもらっている』ではなくて?」

「天使の方がお願いする立場だと?」

「ヴェルチェレーゼの禽舎を見て思ったよ。甲斐甲斐しく世話を焼いているのは天使の方だ。グリフォンたちにはさぞかし優越感があるだろう、とね。天使の位階を決める時にグリフォンの意見を参考にしたのかい? そうでないなら、グリフォン側では天使も人間も揃ってグリフォンより下に位置づけられてるってこともありうるだろう? グリフォンにはグリフォンの位階があって、したっぱのくせに偉そうにしている天使たちを憐れんでいるかもしれない。小さく、せせこましく、口うるさい種族だと。種を跨ぐ格付けを独断で決めるというのはね、そこに巻き込んだ種の側でも自分たちが同じように格付けられるという了解を伴わなければならないのさ」

「あなたは人間の論理を貫くと?」

 ラウラは首を捻った。

「その解釈ではまだ弱いね。格付けなんてものはその価値観を了解している者たちだけの内輪でやるべきなのさ。そういった枠組みを尊重するべきなのかどうかはわからないけど、種の境界を超えようとするなら君たちの格付けはいかにも不徹底だ。グリフォン側の格付けに無頓着すぎる」

「人間の格付けもまた天使を下に位置づける」

「その通り。でも私はそういったエトルキアの価値観を拝する者ではない」

 ラウラは起き上がって草の葉を手で分けた。

「さすがに塔の上より豊かだね」ラウラはミミズを掴んで持ち上げた。

「旧世界にはこれでも比較にならないほど多くの生物種が存在していたのさ。その中には人間の理解が及ばない能力を持った種もまた数多く存在していた。人間の尺度で知能が低いだとか、より原始的だとか、だからといって下等だと決めつけることはできなかったのさ。それらは畏怖の対象だったんだ。天使と人間、都市性の鳥類と昆虫、グリフォンなどを含めた一握りの家畜。ほぼそれだけで成り立ってしまう、いわば理解可能な生態系の中にいるからこそ、その間に優劣をつけるなんていう発想が通ってしまうんだろうよ」

「そのイモムシが私より下等ではないってこと」

「君は生き物の死骸を土に変えることができるか?」

「いいや」

「そういうことだよ」


「主は万物を救うために天使を遣わしたという。元来の生態系の外側に生じたという自意識が全て他の生物を見下す傲りにつながったのでしょうか」ジリファが言った。

「人間の傲慢と同じだね。人間の場合、その生態系の内側に生じたことは自覚していた。ただ、他の生物を研究し、知を集めるという異常な好奇心の一方性がその生態系の管理者としての自覚を生んだ。人間には他の生き物が学問や科学を持っているようには感じられなかった。それゆえの傲りだよ」

「あるいは方舟のコンプレックス」

「そうだね。環境を改変して自らの生存環境を構築するのが人間の習性だが、それが行き過ぎて他の種の絶滅につながるような場合は種と環境の回復を試みる。けど、人間だけが環境を変えるわけじゃない。他の種の減少が個体や群れに不利益を与えるならその手を緩める。人間はその『不利益』を捉える範囲が広いのさ。1つの種の絶滅は好奇心の対象が1つ消滅することを意味するからね」

「あくまで知が根本にあると?」

 風が吹いて周囲の地面から花びらが舞い上がった。ネロが羽ばたいたわけじゃない。自然風だった。

「まだ何も確証はないけどね、奇跡と魔術はもともと同じものだったと私は思ってるんだよ」ラウラは渦巻く花びらの中で手を広げた。

「現象として似ている、というのは理解できるけど」そんなにもったいぶって言うことなのかとキアラは思った。

「いずれにしても現代の科学では解き明かせないし、再現もできない。でも旧文明の人間たちも同じ道を通って深淵と宇宙に至ったのだろうよ。要するに、理論を突き詰めたのが魔術で、実践を突き詰めたのが奇跡なんだ。だから魔術は説明不能な力は持たなかったし、奇跡は勝手を知った一握りの天使にしか使えなくなってしまった。普及しなかった」

「種と文明の発達において補完関係にあると?」

「その言い回しは嫌いじゃないね。だからこそ対置より調和が大事だと私は思うわけでね」

「私は理解できます」ジリファが頷いた。「私はもともと自分個人の力に懐疑的な立場ですから」

 2人の視線がキアラに集まった。

 キアラは肯定しなかったが、その場で言葉にできる反論があるわけでもなかった。

 


 クレーターの縁にあるピークはいい風が吹く。キアラは風に向かってカルテルスを投げ続けた。回数を重ねるほどに刃は遠くまっすぐ飛ぶようになっていった。赤い刃は大気中に染み込んだこの世の穢れを切り裂いて死滅させていくようだった。

 カルテルスの危険さがわからないのか、鳥たちが時折前方を横切った。キアラはその度に手を止めて辺りを見渡した。実際に何かを切りつけたいわけではなかった。


 ある時、鳥たちと同じようにペトラルカがキアラの前を横切ってピークに降りてきた。薄着だった。丈の短いトレーナーにホットパンツ。体の線がわかる服を着るとペトラルカは余計に幼く見える。ロタで常に身につけている分厚いローブは威厳を保つための重要なアイテムなのだ。

「かなり飛ぶようになったね」ペトラルカは一対の翼を畳みながら話しかけた。

「自分ではよく見えんですね」

「150から200メートルといったところかな」

 一本指のリーチが30mちょっとだから確かに有意な差だ。

「カルテルスが飛ぶってことは遠隔奇跡だ。遠隔奇跡が使えるのはパワーズだ。君はプリンシパルのレベルを超えた」

「振らないと飛ばないのに?」

「振らなくても使えるならヴァーチェだよ。体の動きなしで奇跡を扱えるのはヴァーチェの条件だ」

「べつに、何でも構わない。見下されるのは嫌ですけど」

「そう。だからみんな上を志向する」

「皮肉だ。誰も見下したいとは思っていなかったはずなのに」

「そんなつもりはなくても、相手にとっては見下されたと感じられてしまうものなんだ」

「皮肉だ」キアラは繰り返した。「皮肉だ。あの男に会わなければカルテルスは飛ばなかった。それに、根源ラディックスが枯れるまでの時間も伸びた。半日振り続けるなんて前はできなかった」

「鍛えられたわけだね」ペトラルカは腰の後ろで手を組んだ。「得たものは肯定したい。でも経験そのものは肯定したくない。その技まで穢れたもののように思える。コンプレックスだ」

 キアラは頷いた。

「でも、考えてみれば才能というのは全て穢れた褥から与えられるものなんだ。案ジェリカンにはわからないかもしれないが、メシストにとってその穢れは決して忌避すべきものではない。それを受容するからこそ人間との交わりもまた許される」

「面白い解釈だ」ペトラルカはそう言ったが、それからしばらく黙っていた。あまりなじみのない解釈だったのだろうか。

「ある意味、父親だと?」

「いつか子は親を超える。この力が真の意味で私の――清浄なものになるとすれば、それは私がこの力によってあの男を突き刺した時です」

「そのためにはエトルキアに戻らなければならないね」

「今すぐそうしたいとは言いません」その言葉はまだ強がりだった。


 結局、一行は1週間ほどオルメトに留まった。

 宿は廃墟といっても外壁が朽ちかかっているだけで入ってみればやや古びたコテージだった。サービスを当てにしてくる観光客を寄せ付けないためのカモフラージュなのかもしれない。実際、老人が食事も風呂もやってくれたけど、夕食は茹でた乾麺に温めた缶詰のソースをかけただけのワンプレートだったし、風呂も浴槽こそ体を伸ばせる大きさだったけど、シャワーの出が悪くて、要するに貯めたお湯で体を流すためのものだった。

 ベッドルームは2階に2人部屋が4つあって、屋根に合わせて傾斜した天井の下にきちんとしたベッドが置かれていた。ただシーツは干しすぎたみたいに埃っぽく、マットレスが妙に柔らかくて手足を広げておかないと飲み込まれそうだった。型を取られてるんじゃないかという気がした。


 キアラは窓から飛び出してネロに会いに行った。禽舎はかなり細長い建屋で、10個以上の小部屋に仕切られていた。昔はそれだけグリフォンを連れてくる客が多かったということだ。サンバレノはオルメト以前の方が豊かだったのかもしれない。内壁もコンクリート打ちっぱなしではなく、青花のタイルが貼られていた。

 ただ、ハコは良くてもモノがない。グリフォンがシャワーを浴びられるほどの水源はなかった。ネロは小部屋の隅に体を預けて丸くなっていた。

 キアラがブラシを見せると跳ね上がり、ちょっと抑えてから頭を低くして近づけた。

「ずいぶんお利口になっちゃってさ、気を使わせてるだけなんだろ?」キアラはネロの振舞いから子供っぽさが抜けてしまったのが少し寂しかった。

「遠慮しなくていいよ。前みたいにじゃれていい。おいで」

 ネロはゆっくり嘴を開いてキアラの頭や肩を甘噛みした。

「いい子だ」キアラは嘴を撫でながら翼を体の下に敷いて横になった。

 タイルはよく磨かれていた。老人がこの小部屋だけは綺麗にしてくれたようだ。

 固くて冷たい床だった。

 ただその固さはコンクリートとタイルからくるものではないように思えた。大地というのはこんなに固いんだなという感じがした。錯覚かもしれない。塔の上にいると、甲板の下に空間があって床が薄いものなんだというのが気になることがある。その点地面はどこまで行っても中身が詰まっているんだろうなという感触だった。爪を立ててタイルを叩くとかちっとした固さを感じるだけで響くものは全く感じなかった。決して低い場所にいるわけじゃない。高度でいえば低地の塔の最下層より高いレベルにいる。稜線によって星空は狭められ、逆さにした井戸を覗いているような気がした。

 星明かりを頼りにダンゴムシがタイルの目地に沿って進んでいた。その動きを眺めている間にキアラは眠りに落ちていった。


 夢の中でキアラは飛んでいた。切られた翼は元通り綺麗に生え揃って、飛行には何ら支障はなかった。以前よりもっと自由に飛び回れているような感触すらあった。

 隣にはネロがいた。ネロもまた大きな翼を広げて力いっぱい飛んでいた。

 それは花盛りのオルメトの上空だった。上空まで花びらが舞い上がっていて、甘い香りの中を飛ぶのはとても気分がよかった。

 キアラとネロは人間の飛行機がそうするみたいに互いの真後ろを狙うように飛び回った。ネロの飛び方はダイナミックで、スピードがあって、旋回の輪の外側に逃げ出そうとするのはとても難しかった。翼に打たれそうで恐かったけど、キアラはまとわりつくように飛んで背中にしがみついた。

 するとネロは急降下していきなり反転上昇、ほぼ無重力からのすさまじいGで振り落とされそうだった。現実だったら失神していたかもしれない。

 その頃になるとキアラももう夢だということに気づいていた。夢の中にある浮遊感と現実の冷たいタイルの感触が半々になった不思議な感覚だった。

「また飛ぼうね、ネロ」

 それが夢の中の言葉だったのか、それとも現実に口を動かしたのか、キアラは自分でもわからなかった。

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