刃は飛ぶ
「すまなかったね」ラウラが呟いた。
「何か謝るようなことが?」とジリファ。
「いや、ね、私はもっと君たちの亡命に協力するつもりだったんだ。でも結果としてそれはできなかった」
「私もキアラもサンバレノに辿り着いた。もしギネイスのことなら私たちへの謝罪はナンセンスです」
「そうだね、お門違いかもしれない」ラウラも承知の上で口に出したようだ。「だけど、君は今あの老人に礼を言ったよ。像についての礼だ。君自身が何かしてもらったわけじゃない。私のも同じだよ」
ジリファはしばらくギネイスの像を見上げて考えた。
「わかりました。あなたの気持ちに敬意を」
「ラウラ、そういうことなら訊きたいことがある」キアラは言った。
「なんだろう?」
「レゼのブンドはあなたの存在を知らなかった。少なくとも認知しなかった」
「誰に訊いた?」
「ケストレル。レゼのブンドの
「ふうん……、彼なら面識があるけどねぇ。エトルキアの天使はアークエンジェルの存在を隠したがる。身を守るためだよ。ブンドも例外じゃない」
「信用されてなかったから、教えてもらえなかった?」
「いや、単に護身だよ」
「もっと協力するつもりだった、でもできなかった、というのはなぜなんです?」
「キアラ」ジリファが窘めた。それ以上は問い詰めるなという意味だ。
だがキアラは手のひらを向けてその言葉を拒んだ。
ラウラは斜面を見下ろして獣道に踏み込んだ。
「魔術院に拘束されていてね」とラウラ。
「釈放された?」
「いや、抜け出したんだ」
「1人で?」
「そうだね」
「ありえない……」
「それ以上は失礼にあたる。キアラ」ジリファが再び遮った。
「ジリファも知っているはずだ。私がどういう環境で囚われていたのか」
「インレじゃなかったのかい?」
「その前にルナールに送られたんだ」
ジリファは頷いた。
「ああ、そうか……」ラウラは知らなかったようだ。
「拘束というのは、あなたも体を縛られて目と奇跡を封じられていたのでは?」
ラウラはちょっと口を閉ざした。
「構わない。君の
「あなたは魔術院の差し金なのでは」
「なぜ」
「ジリファがインレを破った時点で、魔術院はアークエンジェル3人の逃走を食い止めるのは無理だと判断した。逆に持ち駒をサンバレノに忍び込ませるいい機会だと」
「忍び込ませる目的は」
「いわゆる
「研究ねぇ……」ラウラは唸った。問い詰められて難儀するのとはちょっと違った。
「でも、キアラがルナールにいたってことを彼女は本当に知らなかったようだよ」ジリファが言った。
ジリファには尋問のスキルもある。言っていることが本当か演技かくらい見分けがつくのだ。
「あえて知らされていないのかもしれない」キアラは答えた。
「その方が自然な反応ができるし、リスクヘッジにもなるからね。確かに手駒には情報を持たせないだろう。しかしエトルキア生まれの天使、それもアークエンジェルが進んで魔術院に手を貸すとも思えないけどね?」
「……天使でないとしたら?」
ジリファがぎょっとした。ラウラの位階はペトラルカが認めたものだ。そこまで踏み込むのはいよいよ危険だと思ったらしい。
「少なくともアークエンジェルでないなら魔術院につくのは理解できる。エトルキアには天使に奇跡を模した魔術を使わせる技術があるのかもしれない。ただ、あなたが人間ならその点はずっと容易い。ペトラルカが庇護するのも頷ける」
「この翼は」ラウラは天秤のように腕を広げた。
「形を変える触媒は見てきた。あの、茨みたいな……」
魔術師の名前を聞いた気がしたが思い出せなかった。
「確かめるかい?」
ラウラはコートの襟を開いて肩紐に手をかけた。キアラはその様子をじっと見ていた。
ためらわずに脱げば怪しまれないと思ったのだろう。
「わかったよ。正直に言おう」
「その翼、触媒ならば切っても血は流れまい」
キアラがカルテルスを構えるとラウラは翼を打って飛び
「よほど人間が気に食わないようだね」
「魔術院の手先を野放しにしておくつもりはない」
「いいのかい? 私はペトラルカの客人だけど」
やはりペトラルカはラウラの正体を知った上で庇護しているのだ。
「ペトラルカが招いたのか?」
「それは少し違うね」ラウラはキアラの周りを旋回しながら答えた。
「魔術院を追われたと言うなら、サンバレノではなくルフトに逃げればよかった」
「でも、天使に詳しいのはルフトよりサンバレノだろう? 強いて言うなら、私は奇跡の仕組みを知りたいんだ」
「仕組み?」
「奇跡を扱える天使とそうでない天使を隔てるファクターというのが何かあるのか」
「あの男も同じようなことを言っていた」
「あの男?」
「名前は知らない。私を魔術院に閉じ込めていた」
「男だけじゃわからない」
「耽美的で、論理的で、話の長いナルシスト」
「あとは」
「天使を連れていた」
「ああ、それならメル・ベルノルスだ。魔術院の教員でレジオンのリーダーでもある」
「なぜわかる」
「べつに魔術院との関係は否定してないよ。ただね、私は彼らとは違う。人体実験のような真似はしない」
「奴のお膳立ても同じだった」
キアラはカルテルスを構えた。一本指のリーチなら届く距離だ。
だがラウラは旋回半径を大きくして距離をとった。近づこうにも足場が木々で覆われているせいで駆け寄ることはできない。
「小癪!!」
「私は君とケンカしたいわけじゃないんだ。君が魔術院に恨みを持つ事情は気の毒だけどね、冷静になってもらえないかな」ラウラは声を張って呼びかけた。
実のところジリファがヴェルチェレーゼに連れてきた時からキアラは薄々気づいていた。ネロの反応が他の天使の時と少し違ったからだ。それがどういう違いなのか言葉で表現するのは難しい。ネロは単に見かけだけで天使と人間を判別しているわけじゃない。微妙な匂いとか魔素の気配のようなものを手がかりにしているようだ。そうなるとグリフォン独特の感覚なのでキアラには説明がつかない。
ただ、ラウラがオルメトに来てギネイスの話を始めてからキアラの中に妙な確信と何か猛烈な反感が湧き上がってきていた。
魔術院での仕打ちをペトラルカに語ったことで、自分の中でも何か、人間に対する認識の変化があったのかもしれない。
理性の欠如だと自覚していた。が、その上で自制が効かなかった。動物みたいだな、とキアラは思った。
キアラは1本指のカルテルスを全力で振った。遠心力で刃が伸びるんじゃないかと思ったからだ。
カルテルスの切れ味ならあえて速く振る必要はない。出の速さは手と腕の位置で決めるもので、要するに居合いだ。刃を出しっぱなしで一方向に振り続けることはなかった。
指先が充血して重くなる。
結局さほど効果は得られなかったしラウラにも避けられた。
ただ、キアラは全然別の手応えを捉えていた。
刃の感触が遠くなるのだ。
振りながら注視すると、刃の付け根にある半透明のグラデーションの部分が指先から一時的に遠ざかるのが見て取れた。
そして遠心力をかけたまま指の形を解くと一瞬だけ刃が残って根元から消滅していくのがわかった。
あの男はカルテルスはエネルギー体で、何らかの力場によって形を保っているのではないかと言っていた。もしかしてカルテルスが接触奇跡止まりなのはその力場が閉じていないからなのか?
どうにかして力場を閉じれば刃は飛ぶということか。
キアラはカルテルスの感触に集中した。指を固められたまま刃を出した時と同じだ。指の形が奇跡の可能性を制限するわけじゃない。
左足を踏み込んで再び構え、右腕を振り出してリリース。
タイミングで力場をイメージ。
赤い刃が手を離れ、左手の地面に突き刺さった。その瞬間に刃は消滅していた。
リリースが遅すぎた。イメージだけではタイミングが上手く取れない。
なら、そう、指の形を新しく決めればいい。力場を閉じるポイントで指を合わせればいいんだ。
キアラはリリースの瞬間に親指の先を人差し指につけた。力を入れ、糸を撚るように。
接触、即手応えが消える。刃は回転しながら空を切り、身をよじって避けようとしたラウラの左翼を両断した。
ラウラはバランスを崩して急降下、地面に突っ込む前にジリファが飛び込んで捕まえた。水平に戻してゆっくり降りてくる。
その間にキアラは切り落とした翼の先の部分を拾い上げた。質感は羽根そのものだが、切り口の位置からして全く出血がないのは不自然だった。
キアラはジリファの着地地点に走った。
「大丈夫かい? すまないね、咄嗟のことで反応できなくて」ラウラはジリファを引き起こしていた。着地の時ジリファが下になって受け止めたようだ。
キアラは割り込んでラウラの首に指を突きつけた。
「私が気に食わないのはここに人間がいることじゃない。人間が天使を騙っていることだ」
ラウラは切れた翼に目を向けた。
「ああ、ひどいね。そっちの欠片を返してくれないか。触媒の予備がないんだよ」
キアラは翼の先端を差し出した。
ラウラは切れ口を軽く擦った。するとベビーパウダーのようなとても目の細かい粉が落ちた。
根元の方も同じように粉を落としたあと、先端部を押し当てると元通り完全な翼の形に戻った。切れ目の痕跡すら見当たらない。
「具現触媒といって、小さい魔素が無数に結合して翼の形状を模している。一部の魔素が機能停止しても他の魔素が新たに結合してそれらしい形状を取り戻す。粉になって出てきたのは死んだ魔素だよ。その分この翼は小さく軽くなっている」
いくら切ってもカルテルスでは根本的なダメージを与えられない。相性の悪さは脱獄の時にも感じたことだった。改めて仕組みを聞くと不条理な性能だ。
ジリファが翼についた枯れ葉を落としながら立ち上がった。キアラはそこで気を取り直してラウラに指を突きつけた。
「私は一度でも自ら天使を名乗ったかな。まさか、翼だけを見て思い込んでいたわけじゃないだろう? その程度のシンボリックな差異しか認められないなら、種の違いとは何なんだろうね?」
ラウラはそこで何か小声で唱えた。すると翼がチョコレートのように溶けて形を失い、コートの背中にするすると引き込まれていった。真っ白だった髪も黒く変わっていた。
「ただの人間がうろついていればペトラルカも体面が悪い。翼も髪もサンバレノでの生活を円滑にするためのファションだったんだけどね、その方が気分を害すると言うなら、まあ、ここでは人間らしい人間でも構わない。ペトラルカがここに連れてきたということは君たちは信用できる天使ということだろう。私も報いるのが義理ってもんさ。それに、燃料切れだよ。1時間も飛んだら翼を出しておくだけでもカツカツでね。あえて言うと、さっき避けられなかったのもすんでのところで翼の動きが鈍ったからなのさ」
「強がりを」
「これからは人間としてよろしく頼むよ」ラウラは手を差し出した。
「ジリファは。なんで助けた?」
「私たちが助けられたのは事実だから」
「でも本気で止めなかった」
「あなたが素性を暴いてくれるならそれもおいしいと思ったの」
「本当に何の情報も掴んでなかったってことか」
「そう。ノーマークのものは知りようがない」ジリファはメガネについた水滴をクロスで拭き取ってかけ直した。
「わかったよ」
キアラは待っていたラウラの手を叩くように掴んだ。疑念が解消したわけじゃないけど、獣のような情動は嘘のように鎮まっていた。
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