不公平な対話

 キアラは目隠しされていた。何かゴムパッキンのようなもので目の周りを押さえられていて、外が明るいのか暗いのか全くわからなかった。空気の通り道もない。口の周りは覆われていないのになんだか息苦しいくらいだった。アイマスク、という表現が正しいのだろうか、被せられているものはずっしりと重く、明らかに金属製だった。視覚は頼れない。

 嗅覚――グリスが焼けたような匂いが充満している。微かに錆っぽい鉄の匂いが混じっていた。

聴覚――何か低い環境音が続いている。空調だろうか。風の吹き出す音ではない。コンプレッサーの唸りか。いずれにしろ嗅覚に比べるとはるかに刺激が少ない。

 工場、だろうか。

 エトルキア国内であることは間違いないはずだった。

「手首が押さえられているのがわかるか?」

 男の声が言った。どちらかといえば高音だ。神経質そうな感じ。ただ、被せられているもののせいか、音の方角は判然としなかった。なんとなく正面から聞こえてくるように思えた。

「指にも枷が嵌められているのがわかるだろう。2重に押さえることで指先の向きを変えられないようにしてある。理由は理解してもらえるはずだ。君の奇跡はあらゆるものを切断する刃だと聞いている。そして私はその間合いの内側にいる。私はその枷の鍵を持っている。でも切ろうとしない方がいい。感じないかもしれないが、君の手はある種のセンサーに囲まれている。縦に糸が張ってあって、一方の端に電極となる重りが吊るされている。縦糸と重りは右手の周りに120組、左手の周りにも120組配置してある。1本1本の糸は細く、とても繊細だ。たとえ君の奇跡でなくても、刃物を押し当てれば簡単に切れてしまうだろう。隣り合う糸同士の間隔は約3ミリ。まさしく精密機器。囲まれている、というのはそういう意味だ。では重りが落ちるとどうなるのか? 重りの下には電極の片割れが待っている。2つの電極が接すると同時に回路に電流が流れ、手首の枷の上についたサーボを作動させる。工場機械に使うとても力の強いサーボだ。原理的には小さな電磁モーターと大差ないが、より大型で、トルクが違う。人の力では到底押さえられない。当然天使の力でも、だ。そのサーボにはアームがついていて、アームの先には分厚いナタの刃がついている。サーボに振り下ろされたナタは枷の隙間に飛び込む。そう、そこにあるのは君の手首だ。決して切れ味はよくないが、重さとトルクでもって押し切ってしまうだろう。私が何を言いたいか、もうわかってくれたはずだ。君は今一切の奇跡を行使するべきではない、ということだ。願わくば、暴れるのもやめておいた方がいいだろう。何かの拍子に糸が切れてしまわないとも限らない。そうなったら私にも止めようがない。すでに言ったとおり、とても強いサーボだからね」

 男は少し待ってから「聞こえていないわけではあるまい」と付け足した。

 どうやら発言は許されているようだ。

「お前は誰だ?」キアラは訊いた。

 男はその質問には答えなかった。

「ここがどこかわかるかな?」

「わからない。情報が与えられていない」

「想像でいい」

「魔術院、かな」

「なぜそう思う?」

「天使に対する制圧的な行為・状況を楽しんでいる人間がいる」

「魔術院の外にはそのような人間は少ない、と?」

「比較的、少ない。傾向の問題だ」

「ゆえに想像か。なるほど、君の認識がわかった」

 男はそこで少し間を空けた。

「時に、君は人間と天使の差異がどのようにして生じるか知っているか?」

 キアラは答えなかった。相手に喋らせておいた方が時間稼ぎになりそうだった。 

「人間の形質は46本の染色体によって決定されている。それは天使も変わらない。1本1本の形状も共通している。いわば、データのフォーマットは人間も天使も変わらない。大きく異なるのはその中身だが、46本のうち45本までの差異は人間同士の個人差レベルの偏差に収まっている。天使を天使たらしめているのは残る1本ということだ。

 その1本とは? そう、性染色体だ。それもX染色体だ。グラト・アーバインはX染色体に情報を詰め込むことによって天使を生み出したのだ。なぜX染色体なのか? なぜ1本の染色体に天使因子を集中させたのか? おそらく複数の染色体に情報を分割するよりも形質を発現させるのが容易だったからだろう。それに、X染色体ならば遺伝子操作の成否を性別によって簡単に判定することができる。女児が生まれた場合にはその個体が操作情報を完全に持っていることが確実となる。どうかね、この点については天聖教会にも見解があるのではないか?」

「アーバインが天使の創造主であるという認識はこの国でも同じなのか」

「無論。それは事実だ。話には聞いていたが、本当に人間起源説を否定しないとは」

「聖書には細かい方法は書いてない」

「聞きたいのはその解釈だ。サンバレノには高度な遺伝子操作技術があるではないか」

「それはアーバインの頃の遺産であって、今は飼育と繁殖をやってるに過ぎない。あんたはグリフォンとかのことを言ってるんだろうけど」

「なるほど。サンバレノにもサンバレノの旧文明があるということか……。では、天使やグリフォンが一連の流れで生み出されたキメラ生物であることも了解しているわけだね?」

「そうだ」

「素晴らしい。君との会話にはストレスがない。では、訊こう。天使は不完全なキメラ種だとは思わないか。人間によって生み出された他の種は男女ともに生まれてくる。グリフォンなどもそうだろう。染色体を見ると構成こそ鳥類に近似だが、どの染色体においても個体差の偏差を遥かに超える差異がある。思うに、天使はその前段階にあったのではなかろうか。人間を下敷きにしたためにより慎重な操作を要したか、いずれにしても時間が足りなかったのだろう。人間の世代のサイクルは1人の人間が追跡するにはあまりに長すぎる。いずれはすべての天使が奇跡を扱い、天使だけで世代を継いでいく考えだったのだろう」

「不可解な説だ」キアラはそこで相手の反応を窺った。男は反論を求めているのだろうか。当然、表情は読めない。息遣い、あるいは気配の動き。

「意見があるなら、構わない。狭量な人間ではないさ」

 平静な口調だった。おそらく本心だろう。

「人間と切り離すつもりだったとして、だとしたらアーバインが何のために天使を生み出したのかわからない。道楽か?」

「家畜だろう」男は答えた。

「それならグリフォンでいい」

「器用さに欠ける。意思疎通の不便もある。古代の奴隷は人間と同種であるがゆえに奴隷たり得た。そのジレンマを解決するための天使だと認識しているが。メシストの教えは違うのかね?」

「あまり真面目に勉強したわけじゃないけど、私が教わったアーバインの考えというのは、こうだ。天使はこの世界に適応した新しい人類になる。淘汰ではなく、擬似的な選択的進化によって適応していく。旧人類からヘゲモニーを奪うのではなく、天使と旧人類が混じり合い、すべての人類が緩やかに新しい人類に移行していかなければならない。天使は天使だけで生殖できないのではない。むしろしてはいけない」

「選択的進化か」男はそう呟いて一度息をついた。「種の対立によって人間が滅ぼされないようにあえて機能を与えなかった、か。面白い。では、なぜ交雑児からより機能の高い人類が生まれてこないのだろう?」

「アーバインに時間がなかったというのを否定するつもりはない。たぶん、人間との交配性を残したまま形質を操作しようとしたから他の生き物みたいに上手くいかなかったんだ。グリフォンは鳥と交雑しないし、ワイバーンはトカゲと交雑しない。その点はあんたの見解と同じだよ」

「奇跡はその進化の過程にどう位置づけられる? 塔の現代を生きるなら飛翔能力とフラム耐性だけで十分だったのではないか? 奇跡を持つ天使と持たない天使がいるのはアーバインの意図なのか?」

「アーバインが奇跡を望んだのか、という質問なら、答えはイエスだろう」キアラは答えた。

「なぜ?」

「便利だから、かな」

「ならば魔術でよかったはずではないか。君たちはあえて魔術を捨て、奇跡を獲得した」男はわずかに苛立ちを見せた。従順か反抗的かは問題ではないようだ。どうもこちらが真剣に答えているかどうかを気にしているらしい。今の答えなら適当に聞こえるのも無理はないとキアラは自覚した。

「奇跡は道具を代替する。人間は道具を身につける。ものを切るに刃を使い、歩くに靴を履く」

「道具からの解脱が必要な理由とは」

「アークエンジェルの存在は塔に対するアンチテーゼなんだよ」

 男はすぐに訊き返そうとしたが、少し黙ってから改めて口を開いた。「そうか、社会システムと技術の発達によって疑似的な進化を遂げてきた旧文明の人間たちが行きついたのが塔という機械、道具なのだ。生存環境そのものを道具に置き換えることによって人間の世界の外化は完了したに等しい。そのあとに待ち受けるのは生物種としての停滞……。道具による既得の能力を身体機能に取り込むことで高度な文明を持ったままの裸の人間を生物のサイクルの中に還元しようとしているのだな。なるほど、それならば確かに天使たちが人間国家と対峙する原動力にもなりうる。もっとも、機械文明と決別したと言えるほど君たちの国が道具と無縁だとは思わないが」

 男は相手の表情を読むような間をとった。目元は隠れているけど何かわかるのだろうか。

「メシストの思考はやはり面白い」

 その声はどうやら背後から聞こえた。

 そして翼の付け根のあたりに何かが触れた。男の手のようだ。そういえば服は着せられていたけどスリットの入ったポンチョのようなもので、風通しが良すぎるというか、心もとない感じだった。当然、翼も剥き出しだった。男の手は指を立て、羽毛の間に差し込んだ。要するにくすぐり・・・・だ。

 キアラは反応を堪えたが、自然と羽が逆立つのを感じた。結局手を出すのか。

 いやそもそもこの状況で人道的な扱いが貫かれるはずがないのだ。対話に徹するわけではないんだな。幻滅させるのが相手の狙いだということは理解できた。そう、この部屋は決して気の休まる場所ではないんだ。少し緩ませてから突き落とす。精神攻撃だ。

「ところで私がなぜこんなことを聞くかわかるかね」男は訊いた。

「メシストが珍しいからでは?」

「いいや、アンジェリカンにも同じように質問している。つまり、アークエンジェルそのものが珍しいんだ。それに、理知的な会話ができる時間も残念ながら限られている。あとになってからではこういう話はできないだろうからね。今のうち、というやつだよ。この先も奇跡を封じなければいけない以上、残念だが君の拘束を解くことはできない。長時間の身体的制限が君の精神に悪い影響を与えることは避けようがないだろう。何より、空軍の情報官や将軍たちが君の話を聞きたがっている。君が何者で、どうやってこの国に入り、なぜネーブルハイムを襲撃したのか。情けないことに、空軍にはアークエンジェルを確実に拘束したまま尋問するノウハウがないようでね、ここへ連れてくるだけでも散々麻酔漬けにしておくしかなかったくらいだ。だからこうしてまず私が――」

 男はそこで咳払いした。余計なことを言いかけたのだろう。自戒だ。

「とにかく、再び私の出番がやってくるのは軍のあとだ。私は奇跡の遺伝的性質について大変関心を持っている。アークエンジェルとエンジェルの間にはあくまで遺伝的差異があるのではないか、とね。むろん、君は貴重な検体だ。安易に身体機能を奪うような真似はしない。その点については安心してくれて構わない。軍に対しても同様の申し入れをしてある。回復不能な損傷を負わせない。我々が軍に手を貸す条件がそれだ」

 翼を撫で回していた男の手が離れた。

「ではまた会おう。もっとも君にとっては、君が私のことを憶えていれば、だが」


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