人間街

 根元から見上げるヴェルチェレーゼの塔はまるで地面から突き出した巨大な岩塊のようだった。塔の根元は直径およそ500m。目の前にするとほとんど壁だ。頭上に覆い被さる甲板のせいで本来ほどの高さは感じられないが、日陰によって黒々と沈み込んだ姿はおそろしく威圧感を放っていた。

 日の光の下で塔の根元をまじまじ見るなんて人間にはそうそうできることではない。一見して外壁の根元は普通の建物と大差ないが、周囲200mほどが強固な基礎で固められているのが超高層建築らしい片鱗だった。

 ラウラは塔を見上げる。マスクはしていない。低地ならとっくに肺が爛れているだろう。無意識が早く上層に戻れと警告しているのを感じた。生理的な危機感だ。

 が、実際には標高2000mを超える高地であり、加えて山間の盆地に位置するためフラムが流れ込む心配はない。

 天使の国サンバレノにあってヴェルチェレーゼの根元には人間の地上街が形成されていた。塔の根元を囲うように家々が分布する他、最寄りの峠に向かってその列が伸びていた。塔を離れると水利の関係で上水が得にくくなるが、谷線なら湧き水や雪解け水を使いやすい。

 家々は塔の中で造られたコンクリートや鉄筋で建てられ、素朴な打ちっぱなしの壁か、塔と同じテラコッタのタイルで覆われていた。塔の上の建築と異なるのは、屋根がどれも揃って鋭く尖り、分厚いスレートで葺かれている点だった。聖堂の屋根も三角だけど、もっと軽やかで装飾的な造りだった。帽子みたいなものだ。それに比べればこっちは兜みたいな重々しさ、防御力を感じさせるものだった。

 よほど雪が降るのかと最初は思ったが、違う。屋根の急傾斜に白いものがべったりついているのを見てわかった。グリフォンのフンが落ちてくるからだ。

 ヴェルチェレーゼはグリフォンの島だ。甲板の上では数百頭のグリフォンが飼われている。甲板の縁から、あるいは空中でフンをすることだってあるだろう。重さだって数キロはあるだろうし、何よりそれが数千メートル上空から自由落下してくるのだ。相当な威力に違いない。傾斜の緩い屋根だとまともに衝撃を受け止めることになる。

 出歩く人々は上空の気配に常に気を配っていた。表通りにはラッパ状に広がった家々の軒先がかかっていて、落下物があればすぐさま逃げ込めるようになっていた。住民のほとんどがヴェルチェレーゼでグリフォンの飼育に関わる人間の家系だ。そのあたりは心得ているのだろう。

 住民たちがすぐに片づけているのか、そもそもあまり匂いがないものなのか、あまり不潔な感じはしなかった。ここの住民たちは地面を使って原始的な農業を営んでいるから、あるいは肥料として価値があって、案外取り合いをしているのかもしれない。ある意味、天の恵みだ。

「昼の間は掃除はやらない。同じ場所に2発目が落ちてこないとも限らないからね。日が沈んでグリフォンたちが巣箱に戻ったあと、ハシゴをかけてヘラでもっていい具合に固くなったやつをこそぎ落とすんだ。半日くらい置いた方が綺麗にペリッと剥がれるみたいだね」研究者の男は言った。

 男の名前はフェリックス・フェリシス。研究者といってもグリフォンのフンの研究者じゃない。専門は遺伝子工学だ。魔術院の講義で天使の生体研究を扱ったことがあって、教科書の元を辿ると源流の1つが彼の論文だった。

 しばらく前にもっと目立たないルートで国境をくぐってクローディアの奇跡を戻す方法がないか聞きに来たのだけど、血液は専門外だからわからない、という返事だった。

 ラウラが地上に下りてきたのは彼に顔を見せるためだ。天使の姿はヴェルチェレーゼのエレベーターの中で解除して、触媒もしっかり上着の背中に隠してある。髪の色も今は黒い。地上の人間街に人間がいても何も不思議はない。塔の出入りに厳格なチェックがないのは確認済みだった。

「ヴェルチェレーゼで待ち合わせと聞いて驚いたよ。前と違うルートで潜り込んだのか」フェリックスは訊いた。

「まあね」ラウラはちょっと自分の背中に目を向けた。「旧文明のトンネルをくぐってくるのも色々な意味で恐いからね。今度は方法を選ぼうと思ってたんだよ」

「まあ、深くは聞かないでおこう」フェリックスは背凭れに背中を預けた。少し前のめりになっていたのだ。「前はこんな塔の近くまでは来なかった。峠の方とはだいぶ景色が違うだろう?」

「そうだね。向こうには石積みの家もあったし、何より屋根が平たかった」

「雨を集めるにはその方がいいんだ」

 2人はカフェの軒下で話していた。いや、名前に「カフェ」とついているだけで、実質公会堂や食堂のような施設だ。建材はともかく建具は塔から仕入れるのが難しいらしく、窓枠すら結露でボロボロになった木製の代物だった。

 そんな生活レベルで真っ昼間から休んでいる住民もそうそういない。薄暗い店の中にはせかせかと床にモップをかける人間の女の子が1人、あとはカウンターの中で店主の天使がタバコを吹かしながら2日遅れの新聞を捲っているだけだった。

 新聞は2人のテーブルにも置いてあったが、エトルキアでよく見る和紙のような凝ったものではなくて、木製パルプの薄い白紙に刷られていた。林業も地上でできるのか、それだけ木材資源が豊富なのだろう。

 住民は人間だけではなかった。天使もいた。峠の集落と違い、根元の街ではむしろ人間の女の方が希少なくらいだった。考えてみれば、天聖教会が結婚を認めているのだから不思議なことではない。ただ、天使と結ばれた人間は塔の上で暮らせるはずだ。あえて地上を選ぶのは農業と関わりがあるのだろうか。

「いや、それもあるにはあるが、核心じゃない」フェリックスは言った。

「核心、ね」ラウラは訊き返した。

「我々天使と人間の間に生まれた人間は血中魔素を持たない」

 確かにフェリックスは天使の形質的特徴を持っていた。体の線は細い方だし、肉付きもよくない。それはこの男が老いて衰えたせいではないだろう。髪の色も薄く、白っぽい。かといって白髪ではない――というか白髪は白髪として生えていて、色素のこもったまともな髪ときちんと区別できる――し、ブロンドというのも違う。しっかりしたライトグレーなのだ。

「魔素の遺伝的な性質さ。魔術院の学士ならわかるだろう?」

 ラウラは頷いた。

「魔素は母胎から子に引き継がれる。母親が天使ならそもそも母胎に魔素がないわけだね。まあ、私は学位なんか持っちゃいないけどね」

「なに? すると、中退だったか」

「単位取得満期退学と言ってくれ」

「それは卒業なのか?」

「実質ね。私のことはいいから、話を続けてくれよ」

「うん。……天使はもともと心肺機能が低酸素に適応しているからいいが、人間は違う。血中魔素による補助なしでは高度病に対して全く無抵抗だ。ん?」フェリックスはまたラウラの知識を確かめるように反応を窺った。

 ラウラは頷いた。

「魔素の起源は血中酸素濃度を上げて塔上層の低酸素環境に人間を適応させるためのナノマシンにある。確かに講義で聞いた話だね。でも実際それでどれだけ体調が変わるのかは自分では知りようがないじゃないか。まあ、他人の様子でも見れば少しは窺えるだろうけどね、魔術院があえてそんなサンプルを用意すると思うかい?」

 フェリックスは肩を竦めた。

「たかだか1000メートルでもえらいものだよ。ひどい頭痛、目眩、吐き気。決してそれらが直ちに襲ってくるわけじゃない。忍び寄ってきて、いつの間にか頭を押さえつけているんだ。こめかみと目の奥のところに、こう、坑夫みたいなマッチョな指を差し込んでね」

「それは痛そうだね」

「なぜ旧文明の人間たちがこんな不自由な肉体で生きていられたのか、全く不思議なものだ。よほど垂直移動の必要ない生活をしていたのかな」

 ラウラはミルクティーを飲んだ。サンバレノの紅茶はとにかく色が薄くて紅茶の味がしない。聖堂で飲むものは砂糖で味がつけてあったけど、この店のものはどうやらハチミツを使っているようだ。

「だから塔の上に働きに行く人間は純血の男か女だよ。混血はまず地上生活を選ぶ。エトルキアにも混血はいるのか」

「いる。やはり垂直移動は苦手みたいだね」

「下層か最下層に住んでいるだろう。それも好き好んで」

「違いない」

「順応すれば特定の高度には耐えられるが、それでもあまり空気の薄いところは厳しい。低地の塔の下層ならこのあたりの地表高度と変わらない」

「旧文明時代にもこんな山の上に住んでいる人間たちがいたのかね」

「いただろうよ。平均標高4000メートルの高地に集落があったという記録が残ってるんだ。爛気圏に1気圧帯が押し上げられる前の4000メートルさ。現代の4000メートルとは違う。もっと過酷な環境だったろうよ」

「豊かな土地だった、というわけじゃなさそうだね」

「どこへ行っても豊かな土地なんてものはなかったんだ」フェリックスは首を振った。「社会基盤が発達しているかそうでないか、つまり、都市と田舎があっただけさ。塔という生活基盤はかつての都市と比較にならないほど高度なんだ。我々が地上にいるのは理想主義者だからじゃない。天使教会によって、また身体機能によってそれを強いられているからに過ぎない。我々は地上に下りてなお塔の資源のお裾分け・・・・がなければ家も建てられないし、エネルギーも確保できない。この窓やコップも塔で焼いたものだ」

 気に留めていなかったけど、確かにクリアな窓だ。まともにこの街の技術レベルで作ろうとしたら歪みや曇が出るものだろう。

「エトルキアにも地上に生きている人々がいるか?」フェリックスは訊いた。

「盗掘家のことかい?」

「いや、そういうことじゃない」

「いいや、なら聞いたことがないね」

「フラムの影響を無視できるだけの高地はそっちの大陸にもまだあるはずだ。なぜエトルキア人は地上に住まない? エトルキアの行政なら、塔の上に住所を置かなければ不利益を被るということもあるまい」

「そうだね。考えてみれば、残された高地に積極的なコミュニティが存在しないというのは不思議な話だね」

「思うに、エトルキア人が塔の上に住むのはそれを許されているからさ。身分的身体的強制力を課せられた我々とは違う。選ぶまでもなく塔を選んでいる。地上よりも塔の上の方が圧倒的に有利だということを肌で感じているんだろうよ。いくら甲板の上が過密でも、塔がもたらす恩恵の方がずっと大きなメリットになる」

「塔のインフラに慣れきった人間がいきなり地上に降りて原始的な生活を始めようとしたところで全く立ち行かないというのは想像に難くないね。本物の土を触ったことのない人間がほとんどだろう。かくいう私も先日初めて畑の土を踏んだわけだ。やはり風化コンクリートの練り物とはわけが違う」

「とはいえこの辺りも元来肥沃な土地とは言えなかったそうだがね。土にも色々性質がある。手触りも違う」

 フェリックスは足を滑らせた。床板と靴底の間で細かい砂がじゃりじゃりと擦れた。

「棲み分け、とは言えないか……」ラウラは呟いた。

「棲み分け?」とフェリックス。

「身体的特徴によって生活高度が違うんだ。サンバレノの高層には天使しか住めないとか」

「高層から、天使、人間、混血か。身分の模式図のようだな」

「その発想は天使教会の価値観だね」

「棲み分けというなら我々には天使よりも強靭なフラム耐性が与えられているべきだろう。実際には天使は全高度に適応している。我々は追いやられたに過ぎない。我々はいわば機械文明の恩恵も生物文明の恩恵も受けず、人間にも天使にもなれなかった生き物なんだよ」

「競争力に乏しい生き物がより過酷な環境に適応していくというのもまた自然の摂理だね。簡単に淘汰されてしまうわけじゃない」

「文明や技術など、社会的要因もまた他の生物種にとっては生態、か」

 ラウラは窓に目を向けていたが、向かいの家のベランダに白い鳥が2羽とまるのが見えた。広がった庇の下のベランダだ。鳥たちも屋根の上が危ないことは知っているようだ。

 しかし妙なサイズの鳥だ。ハトにしては大きいし、サギにしては小さかった。

「へえ、この国ではカラスも白いんだね」ラウラは呟いた。

 よく見れば目が黒々としていてアルビノでないことは明らかだった。だいたい2羽とも変異種というのは確率的に奇跡的すぎる。その2羽だけが白いというわけではなさそうだ。カラスたちは通りの先に猛禽でも見つけたのか、警戒した様子ですぐに飛び去っていった。


「ところで、ごく素朴な疑問なんだけど、天聖教会はともかく、天使教会の天使たちはどうやって再生産をやってるんだい? 男と――人間と寝るのはご法度なんだろう?」

「なんだ、知らないのか」

「人工授精というのは聞き及んだことがあるよ。ただその一言だけだと現実味がなくてね。本当なのか」

「本当さ。中心部も中心部、主塔の横に『聖なる塔』というのがあって、そこで飼っている選ばれた男たちから抽出した子種を分け与えている。もちろん出処については決して明かさないが。気になるなら行ってみればいい。天使に化けて上に入り込んでるんだろう? 授かりたい天使を拒みはしないさ」

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