シピの先代

 ディアナの言ったとおり、日が落ちると辺りは真っ暗だった。リビングの窓にくっきりと部屋の中の景色が映っていて、ガラスに顔を近づけて目の周りを手で覆わないと外の奥行きすら全く感じられなかった。黒くつやつやした石壁で囲まれているのとほとんど同じだ。嵐の夜のシェルターを思い出した。


 シピが作ってくれたのは奇遇にもホワイトシチューだった。鶏肉とブロッコリー、根菜類が同じくらいの大きさに切られ、軟らかく煮られていた。何かハーブを入れたのか、クローディアが作ったシチューとはまた違った味だった。なんとなくすーっと・・・・する味なのだ。これが都会的な食べ物ということなのだろうか。


「手が痛いの?」ディアナが訊いた。スプーンを持つシピの手が震えていて、あまり食が進んでいなかった。パンもちぎるのではなく齧って食べていた。

「痛くはないです。力が入らなくて」

 たぶん包丁を握ったせいだろう。背中の怪我が握力にも響いているのだ。

 ディアナの反応からしてシピは怪我のあと初めて料理をしたようだ。

 ディアナはシピの横に椅子を移し、スプーンでもってシピの口の中にシチューを運んだりパンを割ってやつまたりしていた。

 シピは頬を赤らめながらも大人しく両手をテーブルの縁に置いて、ディアナのスプーンに合わせて口を開けたり閉じたりしていた。(どちらかというとシピの方がディアナのペースに合わせている感じだった。)

 全部食べさせるとディアナはシピの手首を揉んでマッサージした。

「効いてる?」

「はい」

「他に痛いところはない?」

「痛くはないですけど、痺れが背中に回ってきたような……」

 ということでディアナはシピを車椅子から抱え上げてソファに寝かせ、袴の帯を解いて背中をさすった。四角いマシュマロのような白いソファだった。

 クローディアの奇跡が不完全なわけではないだろう。奇跡で治療しても後遺症は残るのだ。奇跡が時間を巻き戻してくれるわけじゃない。奇跡も万能ではない。クローディアの翼がほとんど完全に治ったせいで意識していなかったけど、それがリアルなのだ。

「シピ、実はディアナをいいように使えるのが面白いんじゃない?」カイは背もたれの方からシピに顔を近づけて訊いた。

「そんなことありませんよ」シピは気持ちよさそうに否定した。

「今までこき使われてた分くらいはいいと思うけど」

「べつにこき使ってない」とディアナ。「でしょ?」

「はい」

「言わされてない?」とカイ。

「そんなことありませんよ」シピはやっぱり否定した。

 本当に気持ちよかったのか、疲れていたのか、シピはそのまま猫のように眠ってしまった。何かの拍子に翼がカクカクと動いていた。

 ディアナはしばらくシピの頭を撫でていた。


「インレにいる天使たちとはずいぶん違う扱いですね」

「私の態度のこと?」

「そうです」

「だって、この子は私になついているでしょ。監獄の天使のほとんどは反抗的かつ非協力的だもの」

「あなたはなぜ差別主義者になったんですか」

「私は差別主義者ではないわ」

「俺の言いたいこと、わかるでしょ。たとえ意図的でなくても自覚はあるはずです。なきゃいけない」

 ディアナはリビングを出て5分ほど姿を消し、大判の本を抱えて戻ってきた。シピの車椅子がテーブルの前に置いてある。その車輪がロックしてあるのを確かめて腰を下ろした。腰幅がぎりぎりだった。一度抜けるかどうか確かめて座り直す。脚を組む。

「やっぱり小さいわね」

 カイはそれでその車椅子がきちんとシピのために作られたものだということを理解した。


 ディアナは首筋に手を当て、自分の髪を撫でながら話を始めた。

「シピには先代がいるの」

「先代?」

「昔、私が小さい頃、天使を飼っていたの。父が買い与えてくれた。生まれたばかりの小さな天使だった。私はその子をとても可愛がって育てた。ままごとなりに世話をして、言葉を教えて。3,4歳か、その頃の私はひどく無感情な子供だったらしくてね、何か生き物を飼えばいい影響があるんじゃないかって父は考えたのね。実際、その子が来てから私が快活になった、表情も出るようになったって、父と母は喜んでいた」

 ディアナはテーブルに置いた本に視線を落とした。本はスリーブに収められていて、取り出そうとすると中の厚さが不均一なのがわかった。中に何か挟まれている。アルバムというやつか。

 開くと少し埃っぽい匂いがした。

 中に写っているディアナは4歳から6歳くらいに見えた。とても髪が長くて、それが無垢の真鍮のように輝いていた。大きな二重の目、細く弓なりの鼻筋、柔らかそうな頬、それでいてやや尖った顎……。とてもかわいい女の子だ。

 もう一人頻繁に写っている女の子がいて、歳はディアナの3つほど下に見えた。やはり金髪だけど長さは背中にかかる程度、もう少しふんわりした感じで、目は青く、ディアナよりもっと人形のような、これ以上整いようがないというくらい整った顔立ちだった。

 そして彼女は天使だった。ディアナがほとんどカジュアルな服装なのに対し、たくさんフリルのついたいろいろなドレスを着ていた。ディアナは彼女の頭にリボンを巻いたり、頬にキスをしたり、抱っこして抱え上げてみたりしていた。良く言えば溺愛、悪く言えばおもちゃ扱いだった。

「シピじゃない」カイは言った。

「だから、先代」

「彼女は」

「死んだわ。殺されたの。私の目の前で、首を切られて」

「誰に」

「他の天使。その日私はアッパーシティ――レゼのデパートにいた。家族を待つ間遊んでいようって、屋上に出て、気づくと目の前が真っ暗になっていて、あの子は首から血を流していた。息をする度に傷口から血が噴き出していた。私はそれを押さえようとした。でもあの天使は私の手を掴んで行かせなかった。『どうかこれ以上辱めを受けさせないでほしい』天使はそう言った。その力はとても強くて、私は動けなかった。あの子の瞳孔が少しずつ開いていくのを見ていることしかできなかった。肌がだんだん白くなって、薄い布切れのように萎びていくの。最後には息が止まって、固まって動かなくなる。そこまで見ていた。目を離せなかった。その後からだったわ。レゼで人間に飼われている天使の惨殺事件が立て続けに起きたのは」

 ディアナはテーブルの上で両手を組み合わせていた。強張っていた。嫌な記憶なのだ。

「なぜ天使同士で……」

「天使の文化を知らず、人間に隷属して生きることはかわいそうなことで、解放しなければならない。そういう思想を持つ一派があったの」

「身勝手だ」

「そう。解放と言うなら拉致でいい。罪を問うなら飼い主を傷つければいい。歪んだ思想だった。あの天使はそれを介錯だと言っていた。幼少期に育った環境は取り返しがつかない、とか。要は、人間の価値観に染まって、人間に媚びて甘えて生きる天使を見ていられなかったんでしょう」

「犯人の天使はどうなったんですか」

「捕まったわ。魔術院に追い詰められて」ディアナはそこで首を振った。「正確には、捕まるとわかったところで自害した。自らを焼いて。結局、気が狂っていたのよ。でも、死ぬ前に言ってやりたかった。種がどうとか、そんなことより、本人が置かれた場所に満足しているならそれでいいじゃないかって」

「いくつの時ですか」

「私が11の時」

「子供じゃないですか」

「魔術は使えたの。それでも私には何もできなかった。とても強い力で押さえつけられていて、まるで歯が立たなかった。放された時にはもう手の届かないところにいた。追いかけても引き離されるだけだった」

「相手はアークエンジェルですか」

「そう。あの頃はまだ国内に潜んでいるアークエンジェルが多かった」

「警務隊は自分で望んで入ったんですか」

「そうね、それが契機かもしれない」

 なるほど、と思った。ディアナはアークエンジェルに対する恨みを抱えているのだ。だからサンバレノでアークエンジェルに虐げられているエンジェルには同情できる。

 それは差別なのだろうか。根拠のある反感じゃないか。


 差別とは空虚なものだとメルダースは言っていた。居候中度々ジョギングや買い出しに付き合って、道中そんな話になったことがあった。

 なぜ天使が嫌いなのかと訊くと、かつて圧政を敷いていたから、とか、ずる賢いから、とか、つまり直接天使から不愉快な思いをさせられたわけでもないのに、歴史教育やニュースの印象付けからネガティブなイメージを抱いている層が大半を占める。決めつけによって個々の差異を無視し、同一視し、それが1つの集団であるかのように決めつける。むしろそれこそが差別なのだ。

 むろん、自分の目で天使たちの行動を見て反感を抱いている人々もいる。ディアナのようなケースだ。それは差別というより反感・恨みであり、明確な対象がある。

 「差別主義者」というネーミングもまた「天使」とひと括りにして扱う価値観の逆位相に過ぎないのかもしれない。その内側には無根拠な幻想を抱く人々も含まれているし、筋の通っている人々もいる。

 では、真の意味での「差別主義者」にディアナを含むべきではないのか?

 いや、そうは思わない。

 シピの先代を失う以前からディアナは天使を飼うという表現に違和感を覚えていなかったはずだ。周りがそのように教育しなかったというべきか。ディアナもまた、件のアークエンジェルが憐れむ「人間の価値観」に染められて育ってしまった存在なのだ。シピの先代はディアナの妹ではなく、あくまで飼われていたのだ。

「天使が売り買いされていたんですか。今でも、ですか」カイは訊いた。

「そうね。何か嫌な感じがする?」

「そういうこともあるんだろうって、頭では思えますよ。でも、少しくらいは」

 もしかすると自分が「差別主義者」と思っている価値観の方がこの国にとっては正常で、自分の方が歪んでいるのかもしれない。そういう気構えもあるにはあった。

「人間も売り買いされる。猫や鳥も売り買いされる。カイくんは生き物を買ってペットにしたことがないの?」

「ありませんね。鳥の世話をしたことはあるけど、拾ったんであって、買ってきたわけじゃない」

「たぶん、生き物に値段をつけるのが受け入れられないのよ。慣れてない」

「慣れてない」カイは繰り返した。

「あなたは俺にも値段をつけますか」

「いいえ。つけるとしてもそれはあなたの時間に対してであって、あなたそのものにではないでしょう」

「何が違うんでしょうか」

 ディアナは少し考えた。

「あの子が殺されたあと、父は代わりの天使を私に与えようとした。でも私は欲しいとは思わなかった。私が気に入って私に懐いていたのはあの子であって、他の天使ではなかったんだもの。個体が違うのよ。あなたと、下僕にしてもいい人間とでは、個体が違う。種が違うから、同じだから、とは私は考えない。個体によって違う。性格も態度も違う全ての生き物に同じように接するのが平等なら、私は差別主義者と呼ばれても仕方がないでしょう」

「人間だけが他の生き物を飼う」

「いいえ。サンバレノでは人間も家畜化されている。人間が家畜やペットをかけ合わせて、より多様なニーズに応えられる品種を生み出し、より高値で売れるように改良を重ねたのと同じように、天使たちもまた人間の選別と交配を行っている」

 ディアナが言っているのは、つまり人間の側でも天使の選別と交配を行っているということなのだろう。どこかまだ知らない場所でそういうことが行われているのだ。

「全ての生き物が等しく他の生き物を飼い、他の生き物に飼われる。それが平等なんだろうか」カイは呟いた。

「問題は当人がそれを認めているかどうかでしょう」

 たぶん、シピの先代はディアナに飼われていて不幸ではなかったのだ。たとえ親から引き離されたとしても、当人はそれでよかった。

 シピの先代もまた掛け合わされた命なのだろう。選択的に生み出された「限りなく人形らしい顔立ち」なのだ。

 つまり「飼われる」という概念は世代を継承することで真の意味に近づいていく。遺伝子的に飼い主の理想に迫っていくことで「飼われる」という状態が深化していくのだ。


 ふと、王族はどうなのだろう、とカイは思った。アルバムにはディアナの父母も時々写っていた。やはり美形だった。王家に嫁入りするには容姿の美しさが必要なのだろう。王家の男にはそれを選ぶ権利が与えられているし、たとえ本人が欲しがらなくても周囲の人間が会わせる相手をふるい・・・にかけてしまうのだろう。

 2人の間に生まれてくる男子は容姿のいい遺伝子を少なくとも半分は継いでいる。次の世代ではその割合がさらに高くなる。そうしていつしか美形揃いの王家が盤石になる。そしておそらく市民たちがそれを望んでいる。王族に理想の姿の象徴を求めている。

 そう考えると目の前にいるディアナの容姿がとても作られたもののように思えてきた。交配された天使と何が違うのだろう?

 そう、問題は当人がそれを認めているかどうかなのだ。「飼われる」という状態も突き詰めて肯定することによって「飼う」存在との精神的な優位性を逆転させることができるのかもしれない。カイはスヤスヤ眠るシピを眺めながらそう思った。

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