宙吊りの塔

 カイはラッタルを探した。コクピット下のどこかにあるはずだ。シフナスのスクラップも見たことはあったけど、さすがに戦闘機は利用されると困るのでかなり分解された状態で入ってくる。全体像が頭の中に入っていなかった。

 ディアナが左舷側の顎下をポンと押した。バネ仕掛けで杖の頭のようなものが飛び出す。それを引っ張ると両側に足掛かりのついた支柱が出てきた。

「乗っても?」カイは訊いた

 ディアナは手を返して「どうぞ」と言ったふう。

 カイはラッタルを上がる。踏み込んだ時のサスペンションの沈み込みが緩やかで機体の重さを感じた。

「飛べますか?」

「今飛んできたばかりでしょ。疲れてないの?」

「疲れ?」

 それもそうか。確かに感じてはいない。が、たぶんハイになっているからだ。

「ああ、それから、フライトは1日2時間まで。それ以上は原油の汲み上げが間に合わない」

「2時間!?」

「意地悪で言ってるんじゃなくて、そうしないとマジで飛べない日が出てくるから」

 駐機場には給油用のポンプが設置されていた。塔からパイプラインが伸びている証拠だけど、そう、そもそもこの島は居住には不適になってしまった島なのだ。エトルキアの技術があれば塔の機械的な問題なら対処できるだろうけど、立地の問題はどうしようもない。産油量の豊富なタールベルグは恵まれていたということか。


 カイはコクピットに入って操縦桿に手を置いた。シートは深く、かなり寝ていた。計器盤は黒く眠ったディスプレイで大部分が埋められ、ボンネットには偏光ガラスを組み合わせた物々しいヘッドアップディスプレイ(HUD)が乗っていた。なんだか王の鎧みたいだ。資格のある人間が乗った時しか起動しないんじゃないか。そんな感じがした。

 HUDの向こうに乗ってきた飛行機が見えた。タラップの上にシピがいる。さっきディアナが下ろしていたはずだ。腕と翼を使って自力で登っている。待ちかねて荷物を下ろそうとしているのか。

 浮ついていた自分の心がズシンと落ちてきた感触だった。飛ぶにしても今じゃない。

 カイはコクピットから出てキャノピーを閉め、ラッタルを押し込んだ。

「いいの?」とディアナ。

「一度休憩してからにします」

 乗ってきた飛行機に戻ると、シピは後部の荷室から荷物を運んでいた。鞄を抱えて体の上に乗せ、手と翼を床について後ろ向きに体を送り出すという、それはそれで洗練された動きのようだ。すでにスーツケースが2つタラップの上に並んでいた。

 ディアナが残りの荷物を取りに入ったのでカイはタラップを往復して荷物を下ろした。というか一体何がこんなに必要なのだろう?毎日新品の服でも着るつもりなのだろうか。最終的に大小色とりどりの鞄が8つ並んだ。

 最後の1つをディアナがそのまま持って下りてきたのでシピはタラップの一番上の段に座るような格好になってからまた手と翼を下について自力で数段下りて、途中でディアナに抱きあげられて車椅子に収まった。翼というのは必ずしも飛行のためだけのものではないのだ人間なら腕だけではもう少し動きに制約が出るだろう。体が軽いのもいいのかもしれない。

「かなり動けるようになったね」

「動かし方がわかってきました。力が入るようになったというわけではないのですが」シピは少し息を切らせていた。

「じゃあ、クローディアの治療は効果が出てないってこと?」

「そんなことはありません。足の感触も少しだけ戻ってきました」

 ディアナが車椅子を押し、シピもディアナに任せる。

 ディアナはシピの世話をするにあたって嫌な顔一つしなかったし、小言も言わなかった。甲斐甲斐しい限りだった。どっちがお嬢様かわからないくらいだ。


 駐機場から甲板の中心部に向かってコンクリートの舗装路が伸びていた。周りに木が茂っているので先が見えない。要するに道が曲がっているのだ。いや、曲げてある、というべきか。

「道をまっすぐに切ると風が通るでしょ」とディアナ。

「木で風を防いでるんだ」

「そう」

「この島には本当にこの3人だけですか」

「手入れは頼んでいるけど、住まわせているわけではない」

「人は住めない」

「原油はまだいい方よ。この島は地下水が汲めないの」

「雨水」

「そう」

「人が住めないから、人の住む環境を追求できる」

「皮肉かしら。家、甲板が足りないと嘆いている島もあるけど、それはあくまで塔の立地がいいからなのよ。いくら空間が余っていても、この島に押しかける人々はいない。最低限の生活にも苦労するとわかっているから」


 別荘は平屋の角張った建物で、直方体をいくつかつなぎ合わせたような構造だった。やけにガラス面の多い構造が周囲の防風林の意味を物語っていた。裏手には小さな池が掘り込んであって、建物の一部がそこに張り出していた。形からしてありきたりな建築の延長線上にあるのはわかるけど、どこか気取った感じだ。

 エントランスのスロープを上がるとあとは隅々まで床続きで車椅子でも移動に支障ないのは幸いだった。

 中に入るとどこもかしこも壁が白く、エントランスの真ん前には掛け軸がかけられていて、薄い絵の具で描かれた余白の多い絵が飾られていた。今まで見た絵の中で一番縦長かもしれない。同じような絵が室内のあちこちにあって、中にはシピと同じ服を着た人間が描き込まれたものもあった。ディアナ、あるいはベルノルス家の文化的嗜好なのだろう。


 1回では荷物を運びきれない。カイは駐機場まで往復して残りの荷物を運び込んだ。いくらキャスターがついているとはいえ、腰丈もあるスーツケースを一気に4つも引っ張るのは重労働だった。全く歩く気のない大型犬をずるずる引きずっているみたいだった。玄関でシピが待っていて、スーツケースを翼で挟んで1つずつ奥へ押して行ってくれた。

「一体何が入ってるんです?」カイは最後の1つをそのままリビングへ押しながら訊いた。

「開けてみて」ディアナは冷蔵庫を開けて中のトレーをシンクで濯いでいた。千鳥格子のコートの下は白いモヘアのセーターと藍色のセミロングスカートだった。

 カイは押してきたスーツケースを倒して言われた通りにした。赤や黒のレースが目に飛び込んできた。どう見てもディアナのブラジャーだ。シピのサイズじゃない。

「ごめん、それじゃなかった。もうひとつ、赤いの」とディアナ。

 シピは壁際に並べていたスーツケースの中から赤いのに手をかけた。下着のスーツケースより明らかに重い。改めてそれを開けると中身は食材だった。じゃがいもやにんじん、根菜がまとめられていた。なんで下着と野菜を同じ見かけのスーツケースに入れたんだ。

「葉物はそっち。肉と魚、パンとお米、水と牛乳、その他飲み物」ディアナは他のスーツケースを指しながら言った。

 そうか、滞在中の食料を全部持ってきたのだ。そういえば冷蔵庫が空だった。だから荷物が多かったのだ。やっと納得がいった。

「この島の食料供給は完全に死んでるわけですか」

「塔の機能は生きてるのよ。元手がないの。水も、肥料も、種も。プラントは外気や雨水を利用するようにはできていない」

「フラムを取り込むのが恐いから」

「そう。下層なら露地栽培もできないことはないんでしょうけど、わざわざ不便な塔にやってきて食料にまで金をかけようって人もいないものよ。住む場所に困って流れてくる人たちはそれこそ貧乏しているんだから、過密でもインフラのあるレゼのような島を選ぶでしょう。それに、何より、現代人は農耕のノウハウも持っていない」

「ベルノルスはやらないんですか」カイは訊いた。

「ん?」

「わざわざ農耕をやる土地もお金もある」

「人手がない。……それに、旧世界の原始的なコミュニティを再現するよりも、人間に触れられる前の自然の姿を残しておく方がいい。料地を持つ公家の多くがそう考えているんじゃないかしら」

「植えたにしては野生っぽい外観でしたよ」

「最初はどうかわからない。いずれにしても世代を跨ぐうちに勝手に今の形になったのよ」

「少なくともこの数十年の間に植えたものじゃない」

 ディアナは頷いた。

「そうだ、自生しているドングリや果物ならこの島のものと言えるわね。全くゼロではなかった。明日にでも採りに行ってみようかしら」


 夕食の支度をシピに任せて日没前に1回シフナスを飛ばした。離陸、上昇、下降、着陸、それだけ。アクロバットはやらない。飛行機の調子を確かめるだけ。事前に操縦方法のレクチャーを受けて、もしものためにジェットパックを背負って乗り込んだ。ジェットパックがあれば途中でシフナスが飛行不能になっても飛び出して自力で島まで戻ってこられる。こっちはきちんとした新品だ。

 バイザー付きのヘルメットを被り、酸素吸入ダクトのついたマスクをつけてほとんど顔を隠す。

 バッテリーでエアポンプを回し、タンクに溜め込んだ気圧を一気にタービンに吹きつけてエンジンを回す。スロットルを開いて燃焼室に燃料を送り、高圧高温になった空気を発火させる。始動プロセスがレシプロ機とは全然違う。サイレンのような低い唸りが背後から上がってきて少しずつ高くなっていく。

 回転計で回転数が上がるのを待ってディスプレイを点灯、HUDにも方位と高度、スピードのゲージが浮かび上がる。

 滑走路の端でスロットルレバーを押し込む。黄色い目盛りに変わったところで動きが固くなる。アフターバーナーに点火したサインだ。凄まじい加速だった。速度計のデジタル表示はベレットでも見たけど、数字の変わるスピードが倍くらいに感じられた。滑走路の方が動いているんじゃないかというくらいの速さで甲板の端を飛び越えた。

 シフナスのパワーはすごい。ほぼ垂直に上昇しても全然スピードが落ちない。気づいた時には高度10000mまで駆け上がっていた。操縦桿を引いて背面へ。まだシートに押し付けられるGを感じた。スピードが乗っている証拠だ。そのせいで頭が下になっているという感覚もなかった。太陽もほぼ水平線から差していた。

 そして塔の先端が頭上にあった。根本の方が雲に覆われていて、まるで曇った空から吊り下がっているように見えた。雲海が天井のようだ。

 キャノピーの傷が光を受けて結晶のように次々輝く。曲面に成形されたポリカーボネートのキャノピーの向こうの世界は心なしか歪んで見えた。

 いや、もともと重力によって押し潰されていたものを押しつ潰された状態から眺めていたから歪みを歪みと思わなかっただけなんじゃないか。もしかしたらこれが正常な景色だったのかもしれない。


 1G旋回なら悠々とスピードが増していく。スロットルを100%まで下げ、水平儀を見ながら正立に戻した。逆に下を向いているような違和感があったが、こういう時に信じるべきは体感よりも計器と決まっている。

 呼吸が浅くなっていた。肺がGに潰されたせいか。

 それもあるだろう。でもたぶんメインの原因じゃない。軽いパニックなのだ。上下左右が目まぐるしく入れ替わるくらいならレース機でも経験していた。ただ1秒間に移動する距離が2倍にも3倍にもなる。空間認識が追いついていない。体がもっとゆっくり飛べと悲鳴を上げている。それは一種の恐怖だ、とカイは認識した。慣れが必要だ。

 ディアナが編隊機位置についていた。そうだ、一緒に飛んでいたんだ。すっかり忘れていた。無線は入れていなかった。緊急時だけこの周波数を使う、という取り決めだけだった。

 着陸は問題だった。飛行機のスピードに対して滑走路が短すぎるのだ。2kmないだろう。高度を維持していると速すぎて一瞬で通り過ぎてしまうし、減速すると機体が沈み込んで甲板に激突しそうだった。

 アルサクルでベイロンに着陸する時もやはり着速が速いなと思ったけど、ベイロンの飛行場といえば旅客機用の広大な空港なのだ。それに対して別荘の滑走路は短さもさることながら、両側を木に挟まれていてまるで渓谷の中に潜り込んでいくみたいな感覚なのだ。余計にスピードとスリルを感じるのは当然だった。

 何度か真上をパスして相対高度計で感覚を掴んだあと、滑走路の端を狙ってドスンと接地させた。レース機なら危ない衝撃だが、失速速度も割っていないし、機首を上げているのだからそれで脚が折れることはないはずだ。何よりかなり手前に落とさないと滑走距離が足りないと言われていた。

 期待通りシフナスは滑走路に吸い付いた。すかさずドラッグシュートを展開して減速、それでもホイールブレーキの効く150km/h以下になったのは甲板の縁の向こうに地面が見えてからだった。もし止まれなかったらドラッグシュートを切り離して再び空中に出なければならない。ドラッグシュートに予備はないから、次は確実に止まれない。まともな滑走路のある他の島まで飛んでいかなければならないだろう。なんて過酷な島なんだ。それとも自分で感じているより接地点が奥に入っていて滑走路の長さを無駄にしていたのだろうか。

 誘導路もないので滑走路の端の少し広くなった転回場に入って待機、ディアナの着陸を待った。シフナスが上空でぐるっと旋回して滑走路の軸線に乗る。前脚についた着陸灯が煌々と光っている。アプローチは思ったより高く、降下角も大きい。やはり甲板にぶつかるような接地でオレンジ色のドラッグシュートを2個開いた。フラップとエアブレーキを開いているのも同じだ。ただ姿勢が違っていた。機体がほぼ完全に空力を失うまで前輪を上げて仰角をとっていた。そうか、翼と腹でできるだけ空気を受け止めて抵抗を増しているんだ。シフナスの重さと翼型ならその程度で浮き上がることはない。

 結果、ディアナ機は滑走路の端を100mほど残して十分に減速した。

 カイはディアナ機が転回場に入るのを待ってシフナスを滑走路に入れ、駐機場でエンジンを止めた。はためいていたドラッグシュートが死んだタコのようにペシャンコになる。まず車止めを挟んでからラッタルを登り返してドラッグシュートを切り離し、風で飛ばされる前に急いで取りに行く。

「気分はどう?」ディアナも降りてきた。

「少し酔ってます」

「案外落ち着いてるわね。ハイにもなってないし、グロッキーでもない」

「世界が逆さまに見えました」

「そうでしょうね、逆さになったんだから」

「いや、背面の体感がないんです。そういう逆さまは俺には当たり前じゃなかった」

「ああ、そうか、慣性が強いから最下点と最高点の軌道の差が小さいんだ」

「パワーで飛んでる飛行機は姿勢がわかりづらいですよ。翼の影響が少ないというか」

「確かに、プリムローズで背面を維持するのは大変だけどシフナスなら大したことないわ」ディアナはヘルメットを置いてシフナスの点検を始めた。フライトごとに行う目視点検だ。

「ディアナ」カイは呼んだ。「メンテナンスのマニュアルを借りてもいいですか。夜の間に点検しておきたい」

「いいけど、明かりがないからなんにも見えないわよ。本当に真っ暗になるの」

「月明かりは」

「上に木の枝がかかってるから。明日にしておいたら? どうせ2時間しか飛べないんだし」

 カイはしばらく考え、木々の枝葉で細切れになった夕日を眺めながら頷いた。


 

 

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