奇跡を取り戻す

 クローディアは至近距離でもろにギネイスの力場の斥力を受け、低空をすっ飛んできたせいで翼を広げる猶予もなく甲板の上を転がった。

 カイは甲板に降り立ってすぐ駆け寄った。擦り傷だらけだ。背負っていたライフルの銃身は見事にひん曲がっていた。クローディアは銃が使い物にならなくなっているのを確認すると甲板の上にぐったり横になった。

「痛ぁ……。絶対タンコブできた」

「平気?」

「私は大丈夫。ちょっと休憩」

 息も上がっている。横になったままでも目は戦闘を追っていた。

 カイはライフルを拾い上げ、薬室を空にしてから甲板に銃身を叩きつけた。甲板にぶつかって曲がったのだから、同じやり方で元に戻るはずだ。

 でも銃身はまるで生まれた時からその形だったみたいにびくともしなかった。

 シルルスが上昇していく。カイは杖を向けたが、向けただけだった。

「だめだ、あそこまでは届かない」

 クローディアはカイの腕を押し下げる。

 ギネイスがシルルスから離れてヴィカの足止めをしているのが見える。

「ギネイスは手を抜いてた」クローディアは息を整えてから言った。

「だとしたら……」

 やはりレゼの隠れ家でギネイスが答えたのは方便だったのだろうか。


 クローディアが起き上がって上層を見上げる。

 ディアナとギネイスが外壁に突っ込み、それから1分以上動きがない。

 ――いや、何か光った。

 ディアナがぐったりしたギネイスを抱えて出てくる。ギネイスの胸には白く尖ったアレイが突き刺さっていた。

 それを見たクローディアは何か激情に駆られたような気配を見せたが、何か言うでもなく、ただ拳を握り締めていただけだった。

 ディアナはアレイを操って足場を作り、甲板まで降下してくる。

 どうにか甲板に這い上がってきたレジオンの2人が駆け寄って搬送を肩代わりする。氷結系魔術を得意とする魔術師を連れてきたのはこういう時に止血を万全にするためだったのだ。

 クローディアはギネイスの傷を窺い、つかつかディアナに歩み寄っていく。

「ああするしかなかったの。ごめんなさい、救える可能性が残っているかどうか……」ディアナは言った。「もうすぐ増援が着く。その足でルナールに向かう。今さら待ったはないわね?」

 クローディアは頷いた。頷くべきかどうか、いささか決心を要する感じだった。

 ディアナはクローディアの反応を確かめてからアレイの撤収にかかった。細いクモの糸のようなものが上空から集まってきて人間が担げる程度の円筒形を何本も形成していく。


 それから約5分で後続のメロが到着、降りてくる軍警の隊員たちと入れ替わりに乗り込んですぐに飛び立った。ギネイスは担架ごと床に固定され、30分弱のフライトの間クローディアはその横に座ってじっと顔を見下ろしていた。

 それは必ずしも憐憫れんびんではなく、また軽蔑や敵意でもなかった。強いて言えば「不安」だろうか。彼女は何も血を奪われるギネイスのことだけを考えているわけではない。手術は危険なものでは無いのか、新しい血が問題なく体に馴染むのか、奇跡は使えるようになるのか。自分の命に対する素朴な不安が今になって湧き上がってくる。ともすればやはり手術は嫌だと言いたくなるのをぐっと我慢しているのが感じられた。


 医大の受け入れは準備万端だった。フラムマスクをつけた看護師たちがヘリポートで待機していて、カイも含めて洗浄から体調検査を受けた。まるで缶詰の製造ラインに乗せられたみたいに無駄のない合理的な作業だった。

 そのあとクローディアは免疫の調整と低酸素状態に耐えるための薬剤の投与を受け、手術衣に着替えてきたディアナが最後に麻酔のゴーサインを出した。

 手術室ではギネイスが待っていた。すでに人工呼吸器が取り付けられ、深く眠っていた。別の医師が手当したのだろう、胸の傷は塞がっていた。カイは手術の邪魔にならないように壁にくっついて見届けることにした。

 2人のベッドが並び、やはり2台並んだ人工心肺の太い管がそれぞれの体に差し込まれた。

 やがてその中に赤い血が流れてくる。クローディアの体が青ざめていく。もとよりけたギネイスはますます枯れ木のようになっていく。


 5分もかからずに2人の体は空っぽになる。人工心肺同士をつなぐバイパス管が赤くなり、互いに溜め込んだ血液を交換する。ギネイスの血液はガス交換を受けるとともに抗体の活動を抑えた上でクローディアの体に流れ込んでいく。

 血圧が戻り、心拍も正常値に落ち着いていく。酸素濃度も上がっていく。

 対してギネイスの心拍は一定だった。もとより彼女の心臓は外的な心臓マッサージによって動かされているに過ぎない。自発的な鼓動は心臓を凍らせた時点ですでに止まっているのだ。

 ディアナはクローディアの耳の下に指を当てて脈を確かめ、額と爪先に触れて体温を確かめる。胸の管を抜き、血管と切開部を縫合した。

 やや熱が出ているようだ。肌が全体的に紅潮し、特に指先は冷水に浸けたあとのように赤くなってくる。

「大丈夫。輸血による軽度のアレルギー反応よ」とディアナ。彼女は麻酔医に指示して投薬を終わらせる。鼻に差し込んでいた人工呼吸用の管を引き抜く。


「クローディア、起きなさい」ディアナが呼びかける。手術台の上の照明の向きを調節してクローディアの顔に直撃させ、瞼の上に手を翳す。

 クローディアの瞼が震え、眩しそうに開く。が、彼女はすぐにぎゅっと目を瞑った。

「うっ、ひどい頭痛……」クローディアの声はガラガラだった。そのままじっと数秒体をこわばらせたあと、自分がどこにいるのか、何をすべきなのか思い出したように横に顔を向けて再び目を開いた。ギネイスの横顔が見える。人工呼吸器に強制的に膨らまされている胸の動きが見える。

 クローディアはディアナに目を向けた。

「起き上がれる?」とディアナ。

 クローディアは頷く。

 ディアナはカイに目配せしつつ、切開部に障らないようにクローディアを抱え起こす。カイはベッドの間に入ってクローディアに肩を貸し、ギネイスのベッドの縁に座らせた。

 クローディアは重そうに手をもたげ、一瞬躊躇ってからギネイスの額に手を当てた。全く生気のない顔を見て何か恐くなった、そんな感じだった。

 頭痛に耐える険しい表情のまま数秒、それから手を胸の上に移した。

「熱い。気管が締まっている。肺が硬くなっている」とクローディア。

 それが指先の感触によるものなのか、それともすでに奇跡でギネイスの体内を探っているのか、カイにはわからなかった。

「私の血を拒絶しているのね」

 クローディアは右手を胸に置いたまま左手をギネイスの頭の下に差し込んだ。何か回復作用の奇跡を使ったのだろうか、ギネイスの胸が大きく上下し、心電図の心拍数が大きく振れる。それはにわかに生命が息を吹き返す兆しに見えた。今に目を開けて起き上がるんじゃないか。

 ただ、クローディアは決して期待していなかった。もはやギネイスの意識が戻ることはないとわかっていたのだろう。

「中枢神経の機能が戻らない。心停止が長すぎたのよ」クローディアはディアナを見た。

「脳細胞までは回復できないのね」

「物質的には可能でも、状態までは再現できない」

「状態もまた物質的なものではなくて?」

「かもしれない。でも私にはその情報がないの」

「平たく言えば、心と意識は再生できない」

「だと思う」

「そうね、奇跡は魔術ほど論理的ではありえない。体感と経験で培うべきものでしょう。いずれにしても物質的には完全に生きている。アナフィラキシー反応を抑え切っただけでも魔術には到底不可能なレベルよ」

 クローディアはギネイスから手を離した。心拍と呼吸はもとのレベルに戻っていく。

「奇跡って無力なのね」クローディアは言った。「そんなふうに思ったのは生まれて初めて。よりによって、こんな時に。――このまま待っても永遠に彼女が目覚めることはないわね」

 ディアナは少し手を持ち上げて生命維持装置の方に向けた。

「ディアナ、私が止めてもいい?」

「好きになさい」

「それまで少し1人にしてもらえる?」


 ディアナは周りの人間に目配せして、クローディアに装置の扱い方を教えてから廊下に出た。向かいの壁に背中をつけ、そのままずるずるとしゃがみこむ。

「休みますか」看護師の1人が心配して訊いた。

 ディアナは手を上げて拒んだ。「そこまで信用してないわ」

 壁のカウンターに首のサポーターが置いてある。別の1人がディアナの視線に気づいてそれを手渡した。先の脱獄でディアナ自身負傷しているのだ。疲れていて当然だ。むしろあの戦闘の跡に繊細な手術なできるのだから、ヴィカほどではないにせよ案外タフな人間だ。もう一度手を上げて看護師たちを追い払う。

「俺は行きませんよ」カイは残ってディアナの横にしゃがんだ。「クローディアを待たないと」

「好きにすればいい。――そう、好きにすればいい、よ。あれはもうあの子のものなのだから」ディアナは答えたようでクローディアのことを言っていた。

「あなたは医者であるよりも科学者です」

「その心は」

「自分が悪人になってでもクローディアの奇跡を見ようとした」

「悪い女でしょ?」

「俺も同じです。ギネイスの命よりもクローディアの奇跡を選んでしまった」

「違うわ。それは良心同士の天秤だもの」

 ディアナは少し俯いて唇の形だけで笑った。「ああ、気づいていたのはあなたの方だったのね」


………………


 ひどい頭痛だ。

 クローディアは肺の中の異様な痒みと手足の痺れ、全身の倦怠感に苛まれてギネイスの上に折り被さって目を閉じていた。

 温かい体。体温すら生命の幻影なのか。

 あなたには聞かなければならないことがたくさんあった。私の母親がどんな天使だったのか、黒羽とは何なのか、なぜサンバレノを追われなければならなかったのか。

 血は何も答えてくれない。何も言わず白々しく体に馴染もうとしている。

 あなたとはあくまで別々の存在として時間をかけて話をしなければならなかったはずだ。

 このままではどんな気持ちで死に向き合えばいいのかさえわからない。

 苦しい。麻酔がまだ解けていく途中なのだろうか。悩むことさえ許されないほど体がだるくなってくる。

 目を閉じて息を吐く。

 ふと誰かの手が肩に触れる。髪を掻き分けて頭を撫でる指先、頭の上に触れる唇の感触。

 クローディアは慌てて起き上がった。しかしギネイスの体は弛緩したままだった。口には人工呼吸器の管が差し込まれていた。キスなどできるはずがない。当然部屋の中には他に誰もいなかった。それに今の感触はギネイスに抱き締められたのでなければおかしい力のかかり方だった。

 また、幻影か。

 クローディアはもう一度ギネイスの額に手を当て、ベッドを降りた。

「あなたはまだ弱かった。私はあなたより強い天使になります」

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