ドミニオン

 カイを抱えて僅かに残った甲板の端に着地した時、ちょうど浮上していくシルルスが見えた。性能をスピードに全振りした純粋な偵察機に垂直離着陸なんて芸当が務まるはずがない。あれもギネイスの奇跡だ。次第に機首を上向け、まともな進行方向に加速を始める。

 初期段階ならまだ勝ち目があるということか、ヴィカが空中で姿勢を立て直し、ジェットテールの2基のエンジンから青い炎を引いて上昇していく。

「ヴィカ、間に合う?」ディアナはインカムの送話ボタンを押して訊いた。

 が、返事はない。答えている余裕がないのか。

 ディアナも左手を突き出す。握ったアレイが手の形に合わせて操縦桿に似たコントローラーに変形する。ボタン操作でガントレットの立体ディスプレイに照準を呼び出し、シルルスに合わせてロック、ホイール操作でインターセプトコマンドを選択、トリガーを引いて発動。塔の周囲に展開したアレイを一斉に差し向ける。


 シルルスのシルエットから何かが分離した。天使? ――周囲に楔が出現する。ギネイスだ。ヴィカがシルルスを狙って放った雷撃が楔に吸い寄せられる。

 ギネイスは力場を操って自身もシルルスを追いながらヴィカの進路に楔を撃ち下ろす。ヴィカは最小限の機動で進路をスライドさせて回避、上昇を続ける。ギネイスも楔をただ降らせるだけではない。ヴィカの回避に合わせて交差直前まで力場を調節している。交差後に抜けていく方向がバラバラなのだ。

 そこまでしても当たらない。ヴィカが一歩先を行っている。ギネイスの力場とジェットテールの推力、慣性を断ち切る力は後者の方が上のようだ。いくら強力な力場でも弾くように物体の運動を変えることはできない。

 ヴィカがなおも距離を詰めていく。シルルスの加速は機体強度あるいは中の天使のG耐性を考慮して制限しなければならないが、対してジェットテールには強度上の弱点となる翼もない上にヴィカは耐Gスーツを着込んでいる。ジェットテールの最高速度まではヴィカが有利だ。

 そのままでは逃げ切れないと察したのだろう、ギネイスはシルルスの力場を抜けて自らヴィカの進路に割って入った。翼を広げる。羽根を切られていても舵にはなる。スピードが乗っていれば空力効果も大きい。ヴィカもそれを考慮して片方のエンジンを大きく振り出した。

 ギネイスの進路がヴィカの左手に外れる。ヴィカはすでにギネイスのコーナリングの完全な内側に入っていた。

 躱した。もはやその位置関係からヴィカに当てられる初速を持った攻撃手段はギネイスにはない。

 ……そのはずだった。


 ギネイスはほぼ直角に向きを変え、真横からヴィカに突進した。

 それをまともに受け止めたヴィカの軌道は大きく右に逸れ、垂直方向の速度は半分以下に落ちた。その間にもシルルスは加速を続けている。追いつくどころか引き離されていく。苦し紛れに長杖を振り上げて放った1発も至近距離でギネイスの楔に弾かれた。

 ギネイスは止めを刺すかのように大量の楔を周囲に浮かべ、ヴィカのジェットテールを串刺しにする。エンジン音がふっと消えた。

 ギネイスがヴィカを蹴落とす。落下しながら長杖を差し向けるヴィカ。しかしそこに真上から楔が降り注ぐ。防いだもののそのまま押されて落下を速めていく。

〈ダイ、私はいいからシルルスを止めろ!〉ヴィカの声がインカムのスピーカーを震わせた。


 ディアナはアレイの操作に集中した。すでに半分ほどがシルルスの前方に回り込んでインターセプト・フォーム――網状の縦深構造を形成している。あくまで限られた本数のアレイだ。スローンの上層に支点を打っているものの、密度の高い形状では高度が維持できない。

 ギネイスはヴィカを蹴落とした位置から上を向いて楔を撃ち出す。楔は強力な力場に引かれてシルルスを追い抜き、アレイの網に突っ込んだ。楔の雨が網目を引き裂き、中心にトンネルを形成する。

 が、アレイの形状変化には可塑性がある。飛び散った破片を周囲のアレイが吸収し、トンネル部の網目を再形成していく。

 その性質に気付いていたのだろう、ギネイスは早々にヴィカの放置を決め、上層の外壁まで撃ち出してアレイの支点に取り付いた。

 メテオリテは近距離ほど力場の密度を上げることができる。ギネイスが手を翳すと直径1mほどあったアレイの支柱部分がぐにゃりとたわんだ。ソリッドレベルを下げているので破断こそしないが、そのままでは末端が支えられない。支えを失った網は少しずつ高度を落としていく。それを避けるようにシルルスの上昇角がきつくなり、悪あがき的に伸ばしたスパイクも到底届かない。

 シルルスの浮上からここまで僅かに十数秒、間もなく音速を超える衝撃波が大気を打った。もはや人の力では打つ手がない。

 周辺の基地から撃ち上げられた対空ミサイルもシルルス自体の電波ジャミングを受けて尽く狙いを逸らされたのが曲がった白煙の航跡で見て取れる。


 だがそれは決定的にこちらの敗北を意味するのだろうか?

 ディアナは塔の外壁に取り付いたままのギネイスを見上げた。ガントレットの照準を合わせ、キャプチャーコマンドに合わせてコントロールアレイのトリガーを引く。外壁に噛んでいたアレイの一部が蔓状に伸び、ギネイスの脚に巻き付く。次いでインターセプトフォームを解除したためアレイは外壁を離れてギネイスを繭状に包み込む。ただギネイスが力場で耐えているのか落ちてこない。ディアナは三次元ディスプレイ上でアレイを甲板にドラッグ。

 するとアレイから2本の足が伸びて甲板を掴み、パチンコのようにギネイスの繭を甲板に叩きつけた。甲板が陥没し下の格納庫階層まで突き抜ける。

「サキ、バローズ、無事?」ディアナは味方の状況を確かめた。

〈はい、どうにか。甲板の下に叩き落されました。なんとか這い上がります〉

 カイは甲板の端でクローディアを介抱している。怪我がなければいいが……。

「クソッ、何で降りてきやがった」ヴィカが甲板に転がり込みながら言った。ジェットテールは脱ぎ捨てている。

 言いたいことはよく理解できた。最後の最後で手が出せなかったのはあくまでギネイスがここに残ったからだ。もしギネイスもあのシルルスに同乗していたらこれほど効果的な防御はできなかっただろう。

 地声でも十分聞こえる声量だったが、ヴィカは気を取り直してインカムに声を入れた。〈ダイ、あいつはもうドミニオンなんかじゃない。気をつけろ〉

「どういうこと、ヴィカ」

 ディアナはアレイを巨大な檻状に配置しながら歩き、甲板の破孔の縁に立った。

 アレイの繭が半分潰れたような形で床に張り付いている。その側面に走った罅割れを押し広げて中からギネイスが這い出してきた。

「もう逃げられない。今度こそ逃がさないわ」ディアナはヴィカの答えを待たずにギネイスを見下ろした。

「逃げるつもりなんて、ない」

 ギネイスがゆっくり立ち上がり、翼を広げる。羽根の切られた翼の上、肩の後ろにもう一対の翼……だと?

「その羽……」ディアナは呟いた。

 二対の翼はケルディムの象徴だ。象徴には過ぎないが、相応の能力がなければ発現できるものではない。新陳代謝の尺度を超えて自らの形質を意図的に変化させる能力こそが上位天使による因果を超越した奇跡の特徴なのだ。二対目の翼は生まれ持ったものではないが、見せかけの幻影でもない。先ほどの機動がそれを証明している。そう、ヴィカを捉えた時に機敏に動けたのはその翼を使って空気を打ったからだ。

 ドミニオンのギネイスが2階級の位階差を飛び越えてケルディム相当の能力全般を獲得したとは思えない。しかしインレの煉獄が決してギネイスをただ単に衰えさせていただけではないということをディアナは認めないわけにはいかなかった。キアラとジリファだけでも必ずサンバレノに送り返すという強い思念が力の根源になっているのかもしれなかった。

 奇跡によって現れた第一列の完全なる翼、5年の間煉獄の炎に耐えた第2列の細い翼。そこにいるのはもはや牢に囚われたみすぼらしい天使ではない。紛れもなく歴戦の将の姿だった。


「どうか天使の本当の力を思い出してほしい。決してそんなふうに何の恐れも抱かず対峙できるものではない、と」

 ギネイスがそう言って手を翳すとともに力場が周囲を包み込んだ。波動が砂塵の波紋となって床を走る。足にかかる体重が2倍3倍になっていく。足場が崩れる、と思った時には空中に引っ張り出されていた。違う。ギネイスは私だけを別の力場に捕えたのだ。重力はフェイントだ。

 ギネイスは周囲に散らばった瓦礫を撃ち出してディアナを取り囲むアレイを排除する。ディアナは空中で身動きが取れない。ギネイスは翼を打って飛び上がり、一瞬で目の前まで間合いを詰めてきた。本当に一瞬だった。すでにその指先が顎の下に差し込み、首を鷲掴みにしていた。ギネイスは翼を使ってロールしながらディアナを投げ上げ、さらに力場の追い打ちで上空に突き飛ばす。

 ディアナは体を捻って回転を安定させ、ガントレットで周囲のアレイを呼び寄せる。足場が必要だ。ギネイスに照準してスパイクコマンドを連射。しかしギネイスは力場と翼を使ってスピードと敏捷性を両立している。捉えきれない。甲板からジャンプアップしたヴィカも一撃で叩き落される。次いでギネイスは再びディアナを捕まえ、塔の外壁に向かって突き飛ばした。

 円形に取り囲んだ楔が先行して外壁を突き破り、2人はディアナを前にして破孔に突っ込む。さらに数枚の壁を突き破ったのち、ディアナは奥の壁に背中と後頭部をしたたかに打ちつけて意識が飛びそうになった。


 ディアナは咳き込む。

 距離にして40mほど突っ込んできた。外の光が小さい。周囲は暗く、人気もない。倉庫区画だろうか。電源が喪失していて、人員の退避も済んでいる、ということか。

 ギネイスは外からのアレイの侵入を防ぐために壁の破片を集めて破孔を塞ぎ、あとはディアナが体を起こすのを待っていた。

「ごめんなさい。でも、あなたたちを本気で恨んでいるのだとでも思わせなければ辻褄が合わないでしょう」

「辻褄?」誰に対する辻褄だ、とディアナは思った。

 ふと部屋の隅に人影が現れる。違う。人間ではない。ジリファだ。

 ギネイスもディアナの目線を追ってすぐに気づいた。

「ああ、来てしまったのね」とギネイス。

「覚悟を曲げようというのではありません。ただ、どうしても知りたいんです。あなたがなぜ残ったのか」ジリファは答えた。

「無事に海まで出られそう?」

「はい。私が気づいた時にはマッハ2、高度18,000でした。オートスロットルが作動したんでしょう。今はマッハ4、24,000まで上がっています」

「もう何も追いつかないわね」

「はい」

 ジリファはそこでディアナに目を向け、背後の壁に手を伸ばした。指先は何の抵抗もなく壁の中に潜り込む。決して壁を抉っているわけではない。それがジリファの奇跡だ。

「怯えなくていい。私はこちら側に干渉することはできない」ジリファは言った。

 ギネイスは腰を下ろした。あぐらだった。

「なぜ残ったのか」

「はい」

「それは……私の弱さなのでしょうね。私は大勢の部下の死を見送ってきた。その死を負い、語り継いで生きていくのが彼女たちへの手向け、残された生者としての責務なのかもしれない。けれどこのまま感覚や思考が明晰になっていくにつれ自分がその重みに確実に押し潰されるという、疑いようのない予感が着々と大きくなってきている。私はすでに死者の国の住人なのでしょう。私が負っているものの重さを知らない誰かに私の命を負ってもらうというのは、とても都合のいい終わり方だと思ったの、命そのものが償いになるのなら、なおさら」

「黒羽に対する――」

「クローディア。彼女の名前。誰かが……あるいは自らその名前を与えたのでしょう。近くで見て確信した。彼女は私の姪よ。彼女が生まれた時、私は外征戦士クルキアトルとして最前線にいた。私が本国に戻った時、彼女はすでに忌み子として捨てられていた。それは愚かなことだと私は思った。因習の意味を考えもせず、無反省に恨みや戦争の種を撒いているのと同じだと。見つけて殺そうというのか、それとも隠して育てようというのか、自分でも判断がつかなかった。ただ探して、三日三晩探して、結局私は彼女を見つけることはできなかった。すでに消え去ってしまっていた。いずれにしても呪われ続ける生き方を与えてしまった。それは意図ではない。傍観であるという点において私の罪だった。――ディアナ・ベルノルス、マッチングを測った時点であなたは血縁に気づいていたのでしょう?」

 ディアナは頷いた。

「遺伝子配列からして3親等以内」

「クローディアには伝えたの?」

「いいえ。でも気づいていたと思うわ。その上で自分を捨てた天使たちの心を知ろうとしたのでしょう」

 少なくとも、ギネイスはそう思ったからアンチ黒羽を装おうとしたのだろう。献体になるだけならシルルスを脱出させた時点で抵抗する意味はなくなっていた。恨みを晴らすために残った、という演技をしなければならなかったのだ。クローディアがドナーの死のリスクを回避しようと手術を拒めばギネイスの償いは達成されない。

「あなたの覚悟、理解したわ」ディアナは体を起こした。


「ジリファ、もう行きなさい」とギネイス。

「はい」と返事をしつつジリファはその場を動かない。

 ギネイスが目を向ける。

「もとより私はここにはいません」

 ギネイスは、仕方ない、といったふうに向き直り、ディアナの手を取る。

 ……?

「あなたはこの数年の間に私たち天使に測り知れない苦痛を与えた。その咎を呪いにして贈るわ。この先一生、あなたがどれほど努力しようと、クローディアの本当の信用を得ることはないだろう」

 ギネイスはディアナの指を掴む。ディアナの手の形に呼応してアレイが瞬時にコントローラー形態をとる。ギネイスは外側からホイールを回して「スパイク」に合わせ、トリガーを押し込んだ。

 ガントレットの目の前にあったギネイスの胸をめがけてアレイが伸びていく。

「アボート!」ディアナはアレイの動作を止めるコマンドを唱えた。

 しかしアレイが動きを止めた時にはすでに鋭く尖ったスパイクがギネイスの胸を貫いていた。ギネイスの体はうなだれるように弛緩し、アレイの白い肌を伝って赤い血が流れ落ちる。

 ディアナは手を広げてガントレットを翳し、「凍れアコリア」と唱える。対象を冷却するスペルだ。ガントレットにはプリセットしていないので汎用触媒と同じように声に出さなければ発動しない。

 放熱による湯気が手元を包み、流れ落ちる形のままに固まった血液が姿を見せる。ディアナはスペルを維持したままスパイクアレイを握った。傷口を凍らせて止血する。

 そうか、ジリファがギネイスの言葉を拒んで居残ったのはその死を見届けるためだったのだ。ギネイスの「覚悟」を正しく理解していたのはジリファだった。

 だがディアナ頭の中から後悔を振り払った。今一番に考えなければならないのは、いかに血液をこぼさずギネイスを手術室に連れていくかだった。

 

 

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