空中給油

 高度3万m、マッハ4.8。高空は気圧が低く音の伝播が遅くなる、つまり音速が下がる。時速はほぼそのまま、マッハ数だけが上がっていく。

 ただ眼下の景色を見てもさほど速度感はない。ほぼ静止画に見える。水平線は丸く、空は黒い。太陽は右前方から刺すように降り注いでいる。

 熱い。計器盤から冷風が吹き出しているが光線そのものの熱は遮ってくれない。本来ならコクピットの中でも与圧服と分厚い遮光バイザー付きのヘルメットを着用すべき高度、生身では危険な高度のはずだ。

 汗がべっとりと固まった返り血を溶かしていく。キアラは額を拭った。が、腕や手の甲も血を浴びている。塗りたくっているのと同じだ。舐めてもいないのに口の中が血の味になる。髪はまるでプラスチックみたいに固まっている。持ち込んだ飲み水も残り少ない。まともに日を浴びていたら日射病まっしぐらだ。キアラは翼を広げて頭上を覆った。が、羽根が切られているせいで膝のあたりに日向が残る。

 

 その日向がじりじりと股の方に上がってくる。太陽が高度を上げているのか、と思ったが、姿勢計を見るとベクトルマーカーが微妙に水平を割っていた。高度が下がっている。コンピューターのフェイルでオートパイロットが正常に作動していないのかもしれない。操縦桿は後席にもある。キアラは右手をかけてほんの少し手前に圧力をかけた。下降は止まる。が、もちろん操縦は前席のジリファの仕事だ。

「はーぁ、あッつい。エトルキアの飛行機ってのはどうしてこうもキャノピーがデカいかな」キアラはぼやいた。

「我慢してよ」とジリファ。

「シートも人間の背中ぴったりだしさ、翼の収まりが悪いのよね」

「うるさい」ジリファはそのあとに何か続けた。

「何?」

 シルルスの前席と後席は空間的にはつながっているが、間に後席コンソールのための機械を置いているせいで2mほど隔たっている。ヘッドセットで内線が通っているわけでもないので声は通りづらい。さっきのぼやきもそれなりの声量だった。

「少しくらい気を遣ってって言ってるの」ジリファは後ろを向いて言い返した。彼女にしてはなかなか見られない激情だ。

「気ぃ遣ってんのよ。こんなところでボーっとされちゃ自害とおんなじじゃないの」

「キアラは何も感じないの?」

「ンなわけないだろ。私だってギネイスと煉獄でひと月お供したのよ。世話になったのよ。あんたほどじゃあないだろうけどね、私だってやるせないの。でも彼女は『生きろ』って送り出したんだ。それをふいにしてやるわけにはいかないでしょうが」

 ジリファは前に向き直った。

「わかってるから、もう軽薄なことは言わないで」

「それでいい」

 落ち込みたいならあとで好きなだけ落ち込めばいい。ただ、落ち込むことのできる未来さえまだ確実なものではない。今は現実的な問題に始終しなければいけない。


 飛び立って最初の10分はシルルスはひっきりなしにレーダー警報を鳴らしていた。ジリファのレフレクトもレーダー波には効果がない。エトルキアの基地や迎撃機から撃ち出されたミサイルが何本も機体を掠めた。

 当たらなかったのは相手の狙いが悪いからではなかった。ミサイルのシーカーは確実に目標を捉えていた。が、その目標自体がシルルスによって作られた電波的な虚像だったのだ。

 シルルスの電子戦システムは相手のレーダー波を受け取るとともに偽造した反射波を送り返す。相手のシーカーはその偽造波をもとにシルルスの座標を特定するので、実際とは異なった座標にその像を認めることになる。虚像を実際の座標から離しすぎるとそれぞれが別個の像として認識されてしまうので、ある程度ギリギリを狙う必要がある。掠める、というのはそういう意味だ。

 キアラはジリファの指示に従って電子戦システムを操作し、ディスプレイ上でターゲットを指定した。

 大まかな電子戦モードの選択は前席でもできるが、細かな操作は後席のコンソールを使わなければできなかった。後席は本来偵察装備を扱う専門家のための席なのだ。


 沿岸500kmまで出ると攻撃は止み、しばらく残った警報音もやがて消えた。シルルスに追いつけるミサイルも飛行機もないのだ。同機種のシルルスですらそれは変わらない。

 次の山場は東部エトルキア沿岸上空だ。大西洋からサンバレノの間にはまだエトルキア領が1000kmほどの厚みで横たわっている。近づけば確実に迎撃が上がってくる。燃料が問題だ。迂回できればいいが、事前の計算ではエトルキア領をまっすぐ突っ切ったとしても残り100㎞は滑空頼みになるはずだった。無理に上から行かなくても、途中で乗り捨てて地表を伝ってサンバレノ領に入るのも手だろう。

 エトルキアの防空網を避けるなら南に2000㎞ほど迂回したいところだが、そうすると確実に海に落ちる。あとは救命ボードを漕いで救援を待つほかない。

 燃料計の針は刻々と沈んでいく。シルルスの心臓たる2発のターボ/ラムジェットエンジンは圧縮タービンを完全停止した高速モードで分間100ℓ以上の燃料を消費する。音速の5倍を維持するためには厖大な熱量が必要なのだ。超音速巡航を続けた場合の航続時間は1時間を切るという。針の動く速さはじっと眺めているだけでどうも不安になってくる。


「針路104に取る」とジリファ。

「いいよ」キアラはとりあえず返事をした。

 右に15度ほどの転針になる。機体が右に傾き、機首がやや上向く。日差しの方角が少しずつ変わり、それとともに凄まじい力で体がシートに押さえつけられる。五感や身体感覚そのものが体からズルっと抜け落ちそうな嫌な感じだった。要はマッハ5の強烈な慣性が乗っているせいでほんの少し進行方向を変えただけでもとの方向に残ろうとする力がやはり強烈に働くのだ。

 機体が正立に戻ると今度は体が投げ上げられて機体からすっ飛んでいきそうな感覚に襲われた。

 キアラはレーダースコープとレーダー警報装置のインジケーターを確認した。何もない。至って平和な空だ。何かを避けたわけではない。

「迂回ルート?」キアラは訊いた。

「そう、ペトラルカの指示」ジリファが答える。

「ああ、海水浴か……」

 翼さえ万全だったならシルルスの乗り捨てだって苦にはならなかっただろう。ギネイス、こちらキアラ、道はまだまだ険しいよ。


 レーダースコープ、ちょうど距離500㎞のゲージの上に輝点ブリップが出現する。

「ジリファ」

「見えた。この距離で捉えられるのだから、大型機」

〈……大西洋上を東に飛行中のエトルキア軍機、機種S-5、こちらルフト空軍戦略哨戒軍支援飛行隊所属VB6T。エトルキア空軍標準チャンネルで交信している。以後、事前通達の周波数に切り替えるがよろしいか〉

 レーダーに映った機体からの通信だ、とキアラも直感した。こちらのスコープに映ったということは、相手のレーダー警報装置ではもう少し前からこちらのレーダー波を捉えていたはずだ。それで呼び掛けてきたのだろう。

「エトルキア空軍機シルルス、了解した」ジリファは送話ボタンを押して返答した。

 2人ともヘルメットをしていないので無線通話はスピーカーになっている。

「事前通達?」とキアラ。

「ペトラルカ」ジリファは送話が切ってあるのを確かめてから答えた。

「ああ……ん? VB6Tって?」

「タンカー。空中給油機」

「空中給油……あっ、じゃあサンバレノまで飛べるの?」キアラは目の前がパッと明るくなるのを感じた。

「うん。上手くランデブーできれば」

 ジリファは話しながら受信機の周波数をマニュアルで切り替えていた。

〈こちらルフト軍VB6T、コールサインはロングショット02〉

「ロングショット02、こちらサンバレノ陸軍ジリファ少佐、救援感謝する」

〈少佐、これから誘導を行うので従われたし。針路99、高度11000に合わせ。こちら毎時1050キロで飛行中。距離500キロ、降下角の目安は2度〉

「ラジャー」

 ジリファはスロットルレバーを引いてエンジンをほぼアイドルまで落とした。機体ががくんと揺れ、まるで何かに引っかけられたように減速を始める。体がつんのめりそうだ。エアブレーキやスポイラーの類は展開していない。ただエンジンパワーを落としただけだ。今までそれだけ強い空気抵抗に打ち勝って飛行していたということなのだろう。

 空気の薄い高空なので少しスピードが落ちただけで翼が揚力を失って降下を始める。すでにかなりの落下感だ。ジリファは操縦桿を倒して機体を背面に入れた。正立のまま降下角を深くすると頭に血が上って意識が飛ぶ恐れがある。重力方向の強いGでブラックアウトするより危険だ。

 陰が上に回り込み、頭上に黒い海面と真っ白な雲が見える。今までより深い角度で降下していく。重力加速と空気抵抗が釣り合い、マッハ数はほぼ3のまま、対気速度は上がっていく。空気が濃くなってきた証拠だ。機体が受ける抵抗も大きくなり、速度超過のアラートが鳴り出した。ジリファはそこでエアブレーキを使い、機体をゆっくりとロールさせて正立に戻すとともに水平飛行に入った。高度15000、マッハ2。スロットルを8割まで開いてスピードを保つ。

〈針路100、速度1300に合わせ。やはり速いな。こちら対気速度IAS900。すまない、フライングブームの制限が950だった〉

「ラジャー」

 シルルスは高度を11000mまで下げ、マッハ1.2で巡航する。かなり細かく姿勢を調節しているがもうさほど暴力的なGは感じない。


「でも、何でルフトが」キアラは疑問だった。

「アトラス回廊の制空権はルフトが握っているし、エトルキアの動向を探るために大西洋の偵察を重視しているのでしょう」

「いや、それはわかるよ。通常運行でしょ。何でサンバレノの天使をルフトを助けるんだろうってこと。同盟国でもないのに」

「ペトラルカが手を回してくれたんだと思う」

「そう、それを聞きたかった」

「ルフトはたぶん私たちのことなんかどうでもいい。でも、シルルスが無傷で手に入ったら嬉しい。しかも大西洋に沈んだはずの綺麗・・なシルルス」

「どういうコネなんだか……」

「ロングショット02、目視した。距離60」ジリファは会話をぶった切って通話に入った。

〈さすが天使だ。目がいいな〉

「ここからは当機FCSの空中給油モードでランデブーのアシストができると思う。胴体下方後方につければいいか」

〈なるほど、ではそれで頼む。接近したら精密誘導を行う〉

 ジリファがレーダーモードを切り替えたのだろう。スコープがカメラと同じような立面表示に変わり、そこに飛行機の後ろ姿の形のマーカーがひとつ現れた。速度と相対距離など飛行諸元が表示されている。

 キアラはスコープの中でぐんぐん減っていく相対距離表示に目を奪われていて、気づくと頭上いっぱいに飛行機の陰が広がっていた。胴体の太さだけでシルルスの全幅を超えそうな大型機だ。細長い低翼の主翼に吊下げ型のエンジンが2発。サンバレノでも見かけるタイプの旅客機だ。それをタンカーに改造した機種なのだろう。尾翼の付け根下に虫の産卵管のような給油用ブームが取り付けてある。


「相対速度合わせた」とジリファ。

〈よし。あと10メーター前。……ちょい右、ちょい右、よし、そのままそのまま。ブーム伸ばす〉

 産卵管が下に折れ、シルルスの背中にある給油口めがけて伸びていく。互いの揺れの違いで先端がブレる。かなりタイミングを狙ってぶっさすような感じだった。

〈JPB規格の燃料で問題ないか〉

「エトルキアの燃料車にはJP-40と書いてあった」

〈まあ、ジェットエンジンなんてガソリンでもアルコールでも回るんだ。大した違いじゃないさ〉

 よく見るとブームの付け根の後ろに窓がついていて中で男が手を振っていた。真下と後方の視界を確保するために床に寝そべっているようだ。キアラの視線に気づいてラフに敬礼する。キアラも答礼。すると相手は血みどろに気づいたらしく、急に真面目な表情に変わった。こちらがどういう状況で脱出してきたのかを察して寒気がしたのだろう。それ以上特に会話もなかった。


 10分ほどでタンクの容量は9割を超え、給油ブームは接続を解除した。

「ありがとう」とジリファ。

 シルルスは翼を振って挨拶、上昇しながら加速して高度2万mで水平飛行に入る。あとは別段遠回りを気にすることもなく、エトルキアの防空網を避けて飛行するだけだ。洋上ならともかく、ルフトやサンバレノの防空域も広がる陸上ではエトルキアも安易に手出しできない。


 残り400km。サンバレノのアルサクルが迎撃に上がってきてオープンチャンネルで所属を問いかける。エトルキアからの逃亡天使である旨を告げると飛行場までエスコートを申し出た。

 給油からサンバレノ南端のルクシオンまで30分足らずのフライトだった。サンバレノらしい真っ白な塔が山の麓に見えてくる。その手前で鳥の群れがひらひらと光っている。飛行を妨げるような位置ではない。十分に減速して滑走路の軸線に乗り、車輪を下ろす。鳥の群れを頭上に見て追い抜く。タッチダウン。ドラッグシュートを広げて時速100kmまで落とす。滑走路の端で転回して誘導路に入る。

 キアラはキャノピーを上げた。エトルキアとは空気の匂いが違っている。知っている匂いだ、と思った。

 駐機場に入ってエンジン停止。キアラは足元のレバーをぐいっと引いて内蔵タラップを下ろした。半分まで伝ってあとは飛び降りる。戦闘機のコクピットは天使にとっても広いものではない。全身を伸ばして側転2回。滑り止め塗料が手にザラザラと刺さる。清々しい気分だ。


 が、ジリファが降りてこない。

 キアラは機首下の隠しレバーを探して前席のタラップを下ろし、キャノピーの開ハンドルを回した。こういうインターフェースはある程度わかりやすく表示されているものだ。

 ジリファはシートに座ったままやや俯いて放心していた。目は開いているが視線が感じられない。まるで気絶しているようだった。

「外の空気を吸いなよ」

 さすがにキアラも言ってから自分でうんざりした。励ます資格なんてないじゃないか。

「森の匂いがする」ジリファは呟いた。

 標高が高いので周囲に迫った山肌には確かに植生が残っている。これがサンバレノの景色だ。暗い煉獄と茫漠たる荒野の中で死んでいったギネイスが不憫でならないのだ。

 何かがジリファの上に陰を落とす。顔を上げるとペトラルカがシルルスの機首の上に立っていた。飛び乗った、というよりも元からそこに立って待っていたような佇まい。位階第2位の天使の存在感は強烈だ。歳下にしか見えない、幼いと言ってもいいほどの容姿でありながら、何か声をかけたり目を向けたりするのが躊躇われるほどの威厳を放っている。

「ペトラルカ」

 ジリファは唾を飲んで立ち上がった。ペトラルカはその頬を両手で包み、心持ち上向ける。

「何度も話していたのに、触れるのは久しぶりね」とペトラルカ。「よく頑張ってくれた。おかえりなさい」

 ペトラルカは甲板の上に場所を移し、2つ折りにした赤いフェルトのラグをいささか大仰に足元に敷いた。ジリファの肩に手を置いて跪かせ、胸の下に抱き寄せる。

 こんな人前で、とキアラは思ったが、白い祭衣を着た天聖教会の天使たちが人払いを済ませていた。駐機場はほぼ無人だった。


「キアラ、次はあなたの番」ペトラルカはジリファを立たせながら言った。ジリファもキアラに目を向けた。どこか物憂げではあるものの、もう先ほどまでの生気のない目ではなかった。

 キアラもまた赤いフェルトの上に両膝をついた。ペトラルカは祭衣や翼が血で汚れるのも厭わずにキアラを包み込む。羽根に光が透けてぼんやりと紅色に光っていた。

「あなたが戻ってこられて本当によかった。インレは辛かったでしょう?」

「でも、自分で選んだことですから」

 キアラは答えながら眠気を感じていた。ペトラルカの声や体温がそうさせるのだろうか。

「ネロがあなたを待っているわ。たくさん可愛がってあげなさい」

「はい」

「そう、それから、話を聞かせてね。魔術院ルナールであなたが何をされたのか」

 ――ルナール?

 キアラはその言葉が黒い触手になって心の中に飛び込み、記憶の底にある重く分厚い鉄の二重蓋をグサッと貫通するのを確かに感じた。

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