色のない奇跡

 ディアナ・ベルノルスはホテルのベッドに地図を広げていた。天使たちがどんな逃走経路を使うのか考えていたのだ。潜伏場所の目星はすでに先段の調査でいくつかつけてあった。合理的に考えれば上層から中上層の間、甲板地下だろう。だが退路を断つとなれば場所だけわかっていても仕方がない。問題は甲板地下全体の精密な地図が存在しない、という点だった。建設業者から取り寄せた区画ごとの工事図面を繋ぎ合わせなければならなかった。地図上の空白は抜け道そのものだ。わかっている。でもそれを埋めるのは容易なことではなかった。今さら実地調査もできない。

 幸い地図を広げる空間には事欠かなかった。ヴィカは部屋のグレードに注文をつけた覚えはないと言っていたけど、たぶんスイートだ。ベッドはクイーンサイズだった。ホテル側が気を利かせてくれたのだろうか。

 ――と、ちょうどフロントから内線がかかってきた。

「ベルノルス様でしょうか」

「ええ」

「カイ・エバートさんがフロントにおいでですが」 

「カイ?」

 なぜここがわかったのだろう。聞くべき人に聞かなければわからないはずだ。暇になってふらっと遊びに来た、なんてわけはない。

「あの、ご存じで――」

「いいわ、通してもらえるかしら」

「かしこまりました」


 さて、しかしどうしよう。シャワーを浴びたばかりでまだ濡れた頭にバスタオルを巻いているような状態だった。軍服もクリーニングから戻ってきていない。とりあえず作業着のズボンを穿き、上のシャツはそのまま、改めて髪を拭いた。短いとこういう時は便利だ。

 間もなくノックが聞こえる。廊下にカイとクローディアが立っていた。カイは見慣れたオリーブのフライトジャンパー。クローディアは雨合羽のような薄手の黒いコートで背中を隠していた。カイがいささか焦った様子だ。

「入って」ディアナは2人を連れてきたボーイにチップを渡して下がらせる。むろん口止め料だ。

「ルナールにいるって兄さんは言っていたけど」

「抜け出してきたんです」

「ごめんなさいね、放ったらかしで」

 ディアナは2人をリビングのソファに座らせた。幸いベッドルームはドアで仕切られている。カイはさっそく話を始めた。

「そちらでも把握しているかもしれないけど、ギネイスたちはたぶん今夜中に島を出ます。もう動いているかもしれない」

「どこに向かって?」

「それは聞かなかった。正面突破に切り替える、とだけ」

「その話、出どころはどこ?」

「本人たちです」

 ディアナは指で自分の膝を叩いて少し考えた。

「直接それを聞けるような立場の人間が軍警に本当のことを話しに来るの?」

 カイは少し口を開けた。まだ全然信じてもらえていないということをはっきり認識したようだった。

「俺はジリファに捕まったんです。彼女たちは人質を取ろうとしていて、本命はあなただった」

 状況が飲み込めない。ディアナは少し時間をかけてイメージを膨らませた。この支離滅裂な感じはむしろ事実を話しているからなのだろうか。

「あなたの引き換えに私が丸腰で出ていくと?」

「彼女たちはそう言ってました。でも俺が連れていかれたあとでギネイスが目を覚ました。戦って道が開けるなら、そのほうが確実だと」

「つまり、争うつもりなのね。軍の飛行機でも奪って逃げるつもりなのかしら」

「……確かにそうだ。民間機のハイジャックだったら正面突破とは言いにくい。やっぱり軍事島に向かっているんだ」

「あなたの話が本当なら、という前提で話を進めているわね」

「信じられませんか」

「多少足手まといでも、天使たちはあなたを連れていくべきだったんじゃないかしら。いざというとき盾にすることができるし、何より、あなたが知ったことを私たちに知られるまでにもっと猶予が得られたはずでしょう?」

「そう、私もそこが引っかかったの」クローディアが言った。「まるで誘っているみたい。追ってきなさいって」

「あなたを踊らせることで、別の島の空港に向かうとか、レゼに留まるとか、本当の選択を見えにくくしようとしている、というのも十分考えられる」

「だとしたら演技が上手すぎる」

 ディアナはまた膝をぱたぱたと叩いた。よく考えてみれば、実際のところ他の軍事島は警備上の穴なのかもしれない。レゼと物流ハブの空港には人員を割いているが、軍事島はノーマークだ。基地ごとの能力に頼るしかない。

「いいわ。確かに可能性は否定できない。でもひとえに軍事島といってもレゼの周りには20基以上が点在している。相手にとってもどこでもいいってことはないはずね」

「彼女たちはたぶん足の速い飛行機を欲しがる」

「妥当な考えね」

「アークエンジェルならあえて飛行機同士の戦闘を想定する必要はないだろうし、きっちり制圧してから飛ぶつもりなら、危ないのは領空を出る前後でしょう。他の飛行機や対空ミサイルに追いつかれてはいけない」

「偵察機ね」

「はい」

 結局のところこれこそヴィカが期待していた状況なのだ。天使がレゼを出てしまえばこちらも不自由な行動制限を課せられることもない。むろん相手もブンドに気を遣わなくていい。実力同士のぶつかり合いだ。しかし私の目的はあくまでギネイスの捕獲。そこで上手くヴィカをセーブするのが私の役目になる。いかにも副官らしい仕事じゃないか。ディアナは内心軽く笑った。


………………


 荒野の中に一本の道が残っていた。もともとは何車線もある幅の広い幹線道路だったのだろう。今は押し寄せる砂によって大部分が覆い隠され、ひび割れたアスファルトの黒さによってかろうじてその存在が示されているに過ぎなかった。地面が平坦で摩擦が少なく、風が吹き抜けるおかげで砂が厚く堆積することはない。踏んでもじゃりじゃりと靴底を均す程度の薄さだ。砂の中に含まれる石英などの鉱石が星明りでキラキラと輝いた。よく晴れた夜だ。フラムによって空が隔てられているのだとは思えないほど上空の視界はクリアだった。その分よく冷える。塔の上層かと思うくらいの肌寒さだった。キアラは肩を翼で覆って風を遮った。

 先頭を歩くのはギネイスだった。徒歩行程の序盤こそその弱々しい歩みにキアラとジリファが気を使って合わせているような具合だったのが、2人のペースが落ちてきてもギネイスは全然そのまま変わらずだった。一見衰弱しているように見えても、煉獄で5年耐えてきた体力は尋常なものではない、ということか。煉獄はただ衰弱を強いるだけの場所ではなかった。息吹アドフラクトの拷問によって天使を鍛えてもいたのだ。解釈が間違っていた。


 ギネイスが振り返る。

「休憩しましょうか」

 キアラは道端の砂丘を少し掘って腰を下ろした。靴を脱いで足の裏と足首を奇跡で手当てする。幸い地上なので根源ラディックスは潤沢だ。天使は人間に比べると歩行機能が弱いらしい。脚の骨格などが貧弱なのか。かつての人間と同じだけの距離を歩こうとすれば余計に故障が生じるのは道理だった。アークエンジェルだからいいが、エンジェルにとってはそれこそ拷問だろう。


 なぜカイ・エバートの呼びかけでギネイスが目を覚ましたのか、なぜ彼女が人質作戦を却下したのか、キアラも疑問は抱いていた。

 ジリファがすぐ正面突破方針に乗ったのは理解できる。それはギネイスが言った通りだ。戦力がキアラとジリファだけ、しかもギネイスを背負って行かなければならないとなると勝算は薄い。しかしギネイスが――ドミニオンが戦力になってくれるなら話はまるで違う。マイナス1だったものがプラス10にも100にもなるはずだった。

「ギネイス」キアラは呼んだ。「カイ・エバートを知っていたのですか」

「カイ……、ええと、あの、少年?」ギネイスはカルパスをかじりながら答える。気に入ってくれたようだ。

「そうです」

「インレでキアラに会うために、煉獄まで降りてきた」

「それが初めて? 喋ってはいないでしょう」

「はい」

「なぜそれでボクの声に反応したんだろう」

「声のせいじゃ、ない。話しの中身よ」

「黒羽の年齢とか名前を訊いていたのは、だからですか」

「そう。私、思い入れがあるの」

「黒羽に、それとも、クローディアに?」

 ギネイスは俯いた。

「……ごめんなさい、思い出せない。でも何か、それは、泥の塊のように心にのしかかっている。インレに来て間もない頃、仲間の天使たちが死んでいくのを見殺しにするしかなかった。あの時の感じに似ている」

「黒羽狩りに参加した経験でも?」

「いいえ」

 これ以上訊いてもギネイスの気分を害するだけだ。キアラは話をやめた。

 おそらく彼女は人間に向けるべき憎悪に近い感情を黒羽に対して抱いているのだろう。カイ・エバートの言った通り、何かしらの因縁なのだろう。


 キアラは携帯食のショートブレッドを1袋食べてから横になった。やはり夜になると気分が悪化する。頭が痛い。翼を切られているせいで体を丸めても足が隠れない。冷気に晒されている。

 クソッ。

 キアラは起き上がって砂丘を登った。頂上でジリファが見張りをしている。彼女は必ずしも全行程歩いているわけではなくて、風向きや地形によってはひとっ飛びに先回りして体力を温存していた。

 砂丘の上から見渡すと、なだらかな丘陵が地平線まで延々と連なっているのがよくわかった。かつてはこの一帯にも豊かな森林があったのだろうか。

「ギネイスは戦えるのかな」キアラは横に腰を下ろして訊いた。

「そう思うしかない」とジリファ。

「私、彼女の奇跡って知らないんだけど」

流星メテオリテ。これくらいの矢尻を打ち出すの」ジリファは腕を広げて1mくらいの長さを示した。

「それだけ?」

「それだけ」

「ドミニオンって、もっとこう、空間的に作用するような奇跡を使うんじゃないの」

 ジリファは頷いた。

「一見、それだけ。打ち出すと言っても、現出した物体そのものを動かすわけじゃない。物体の前に細長い引力場をつくって引っ張っているの。言ってみれば、重力式レールガンの砲身を出現させている。当然それは場であって物体ではないからほとんど不可視。それに、矢尻の方は自由に質量を変えられるみたい。どんな重いものでも砲身の長ささえ長く取れればいくらでも加速できる」

「だからメテオリテ」

「そう。パッと見は中位の奇跡と見分けがつかないから、目の悪い天使にはなぜそれでドミニオンなのかわからない」


 50m以上離れているので声が届いたってことはないだろうけど、ギネイスはちょうど奇跡を試していた。頭上に手を翳す。手の上に細長い八面体が現れる。現出体は発光しているわけではないのでわかりにくいが、もとの色からしてかなり暗い。黒っぽい紫に見えた。

 その先端がほぼ真上を向き、ぬるりと動き出して加速、高い放物線を描いて200mほど離れたところに落下した。そこでようやく「ドスッ」と音が聞こえた。それまではかすかな風切り音だけだった。弾速が亜音速で留まるようにセーブしたらしい。衝撃波が生じれば爆音だし、周りの島のセンサー精度によってはこちらの位置を特定されることになる。迫撃砲みたいなションベン軌道だったのはそのためだ。

「彼女の周りに砂煙が立ったでしょう」ジリファが言った。「あれは風圧で舞い上がったんじゃない。引力場に吸われたの」

「うーん、そう言われてもなぁ」

「天使の位階というのは能力を深く見抜きすぎるのかもしれない。もっと表面的に決めた方がコンプレックスを抱く天使も少なくて済むんじゃないかしら」

「セラフが決めることだからね」

「私も同じ。レフレクトに遠隔性能があるからパワーズを与えられたけど、正面戦闘では役に立たない。他の天使も私には命令されたくないと思っていた。肩書きばかりで戦力にならない私を、彼女はオルメトで上手く使ってくれた。戦闘に活かすのが奇跡の本質でもないし、味方に実力をわかってもらえなくたって戦果は上げられる。強さではなく結果で評価されればいいって。同じようなコンプレックスを抱く私の気持ちがよく理解できたのね」

 ジリファはギネイスの後ろ姿を見つめながら語った。

 ジリファは昔のギネイスを本当に慕っていたんだ。キアラは確信を抱いた。もしかすると実は私なんかどうでもよくて、よほどギネイスの方を助けたくて乗り込んできたんじゃないか、私はついでか。そんな疑念にも思い至ったけれど、まあ、いい。その程度のことで彼女の感傷をぶち壊す気にはなれなかった。

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