覚醒

 状況はともかく、ギネイスと面と向かって話ができるなら願ってもない好機だ。一口に人質といっても今度はこちらにもメリットがある。もしかしてジリファはそこまで計算して自分を選んだのだろうか、とカイは思った。どこまで事情を把握されているのかわからない。場合によってはインレに来た時から目をつけられていたってこともあるはずだ。

 ジリファは主塔外壁のエレベーターを使って第10層まで上がり、インフラ整備用の通路から甲板地下に下りたところでハンカチか何か巻いて目隠しをした。彼女たちは潜伏先を誰にも明かしたくない。順当な扱いだ。でも最初から目隠しをしなかったのはなぜなのだろう?

 エレベーターの中ではジリファは自分自身にだけ透明化の奇跡をかけていた。目隠しした男が1人でエレベーターに乗っていたら変だし、たぶん透明化をかけると目隠しまで透明になるので結局意味がなくなってしまうのだろう。そもそも眼球まで透明化していて視覚が機能するのだろうか。ジリファは透明化してもどうやら周りが見えている。他の客に合わせてぶつからないようにきちんとカイの腕を引っ張ったりしていた。原理を超越するのが奇跡。そこが魔術との違いということだろうか。


 目隠しされたあとは細い通路を右へ左へ何度も曲がって進み、道順を記憶するのはどう考えても不可能だった。カイは諦めて連れられるままに進んだ。

 人気はない。そろそろ話しかけても大丈夫だろうか

「エサ?」カイは訊いた。

「ディアナ・ベルノルスを呼んでもらう。エレベーターのサービスフォンから制御室、そこから軍警の作戦室に繋がせる。交換は人の多いところでやるから、安心して」

「君たちがディアナを捕まえるまでは軍警の方にもいくらでもやりようがある気がするんだけど」

「彼女が完全に1人きりになるまでは私たちは姿を見せない」

「でも俺のそばにいないと人質として機能しないはずだ」

「私、こういうのは得意なの」

「それはわかる気がするけど、ディアナだって1人になったからってそんなにかんたんに捕まえさせてくれるタマなのかな。なんだか上手く行かないって気がするよ。思わぬところからバーンと撃たれて血みどろなんて展開はゴメンだな」

 目が塞がれているせいかイメージだけは豊富だった。


 ふとジリファが足を止める。

「また人質だね、ボク」聞き覚えのある声が言った。ジリファじゃない。

 ジリファが目隠しを外す。部屋の明かりが眩しい。天使が1人右手の壁に寄りかかっているのが見えた。キアラだ。

「キアラ」

「ああ、覚えてた?」

「こっちのセリフだ」

「アイゼンでは酷い目に遭わされたよ。忘れるわけない」

「じゃなくて、煉獄で会った時」

「あー……」

「よかった。結構心配してたんだ」

 カイはキアラの横に膝をついてハグした。

「な、なんだよ、私たちを捕まえようとしてたんじゃないの?」

 心なしか怯えているような感じだった。

「それは少し違う」カイは膝立ちで何歩か下がった。

「カイ・エバート」ジリファが後ろから呼んだ。「あなたは――あなたたちがインレにいた目的はキアラじゃない」

「そう、どちらかといえばギネイスだよ」

 キアラの横に膨らんだ寝袋が横たえてある。ギネイスはその中だ。

黒羽くろばねが奇跡を取り戻すのに彼女が必要なのね」ジリファは扉に背中をつけて体の前で手を組んだ。

「必要って何よ」とキアラ。

「血が必要なんだ」

「だったら連れて行かなくても、注射器を持ってくればいいじゃない」

「キアラ」とジリファ。ジリファは「血が必要」というのが脱換を意味するのだと理解しているようだった。

 そしてキアラも間もなく思い至った。

「……何なの、それ」

「俺もそう思う。サンバレノにはアークエンジェルが奇跡を使えなくなるケースはないのかな」

「あるよ。ほぼ精神的な原因だろうけど、あいつもそうなの?」とキアラ。

「違う。たぶん人間の血を入れたせいなんだ」

 キアラとジリファは少し絶句した。

「逆に訊くけど、サンバレノがそんなことすると思う?」とキアラ。

「思わない。でも、何かの手違いとか」

 2人はまたしばらく何も言わなかった。

「手違いじゃ済まされない」とジリファ。

「そんなの確実に首が飛ぶ。仮に飛ばなくても、翼が飛ぶ・・・・

 キアラはぶるっと震え、ジリファは自分の腕をさすった。


「キアラ、君はクローディアを狙った。ギネイスも同じような考えの持ち主なんだろうか」カイはギネイスの寝袋ににじり寄って寝顔を確かめた。やっぱり眠っていた。

「それはないと思う」とジリファ。「黒羽狩りは教会が主導していることだから。彼女は聖職者じゃない。戦士一筋」

「でも黒い翼を嫌うのは教会だけじゃないサンバレノ全体の文化のはずだ。だからクローディアは捨てられなければならなかった」

「まあね」とキアラ。

「でも、彼女があえてそういうことを言うのは聞いたことない」ジリファ。

「ジリファが言うんだから、そうなんだよ」

「できれば本人に確かめたい」カイは答えた。

「起こしてみなよ。インレを抜け出してから昼間はだいたい寝っぱなしなんだ。担ぎ上げたくらいじゃ起きない」

「10分あげる。そのあとは諦めて」とジリファ。

 カイはギネイスの耳に顔を近づけた。

「ギネイス、君はクローディアのことを知らないかな。名前は知らないかもしれない。忌避すべき黒い翼を持って生まれて、生まれてすぐ捨て子にされてしまった。そこで殺されなかったのはもしかしたら親の情けなのかもしれない。具体的な状況はまだ知らない。でも、なんにせよ、彼女は地上で生き続けた。それを知ったサンバレノの天使たちに追い立てられ、命を狙われた。その度に住処を移し、何度も死にかけ、それ以上に多くの天使を返り討ちにして、殺してきた。よくわからないけど、君たちにとっては黒い翼の天使を狩ることがとても名誉なことなんだろう。命を賭けてもいいと思えるくらいには、ね。彼女は長い間それに付き合わされてきた。ほとんど人生まるごと。もしあなたが彼女を狩る側の天使たちにより理解を示すなら、それがどうした、と思うかもしれない。それでもいい。べつに、構わない。俺は必ずしもエトルキア軍に同調しているわけでもないし、あなたたちに全面的に手を貸そうとしているわけでもない」


 ギネイスがその言葉を本当に頭の中で理解していたのかどうかはわからない。ただ、聴覚神経の入口で全く拒絶されてしまったわけでもないのは確かだった。彼女の夢の中に入り込んだ言葉は何かしらうねりや波のようなものを起こしたようだった。

「……黒、黒羽?」ギネイスはぼんやりと目を開けながら呟いた。

「そう。翼も髪も真っ黒なんだ。カラスみたいにね。あなたは彼女を殺さなければならないと思う?」

 ギネイスは何も言わずにやや険しく目を細めた。

「狩らなければならないと思う?」

「いいえ」ギネイスは準備運動のように唇をわなわなと動かしてから答えた。

「なぜ、いいえ?」

 ギネイスはまた答えない。瞬きをして、カイを見る。少し怯えたように瞼が引き攣る。キアラと似た反応だ。でも耐えている。

「とし、歳は?」ギネイスは訊いた。

「歳? 俺より少し下だと思う」

「青い目をしている?」

「うん」

「名前は」

「クローディア」

「クローディア」ギネイスは音を確かめるように繰り返して、それから目を閉じた。

「私が黒羽をどう思っているか知って、何か参考になるのですか」

「もしあなたが他のサンバレノの天使と違う、彼女を受容できる考えの持ち主なら、あえて犠牲を強いたくはない」

「……犠牲、犠牲」

「うん」

「ごめんなさい。私は彼女と融和することはできない。黒羽は災厄をもたらす」

「たとえ演技でも、そんなことはないって言えばいいのに」

「そこは曲げられないのです」

「どうしても?」

「はい」

「果たしてあなたは方便を使われるだけの脅威になりうるのかしら」とジリファ。

「ボク次第でそんなに状況が変わると本気で思ってるわけ?」キアラも続いた。

「そうだよ。俺自身、どう答えてもらいたかったのかよくわからないんだ」

 ジリファが襟の後ろを掴んでギネイスから引き離す。

 ギネイスはのそりと体を起こした。

「あの、人質作戦はやめましょう。キアラの案をとって正面突破を行う。私も戦う。ジリファ、彼を見送って」


 ジリファはカイを部屋の外に連れ出した。動揺しているのか、目隠しはなしだった。

「あんな一言で人質作戦を諦めちゃってよかったんだろうか」

「もしギネイスが戦えるならその方がリスクは少ない」

「俺はギネイスと話せたから満足だけど」

「なら喜んで」

「彼女がずっと眠っているっていうのは本当だったんだ」

「そう、私も驚いているの」

「だから目隠ししない?」

「すぐ動くことになる。もう知られても変わらない」

「本当に?」

 ジリファは立ち止まってエレベーターのボタンを押した。答えは返ってこない。

「本当に何の因縁もないんだろうか。何か含みのある反応に思えたけど」カイは続けた。

「因縁?」

「クローディアか、あるいは他にも黒羽の天使が存在するなら、その天使と」

「私にはわからない」

 下からケージが来て扉が開く。

「あとは1人で行けるでしょう」

「ああ」

 カイはエレベーターに乗り込む。第22層のボタンを押す。扉が閉まり、その隙間にジリファの姿が消える。次会う時はきっと戦わなければならない。甘い時間は一瞬だ。

 まっすぐメルダースの家に向かおう。メルダースがまだ最下層で待っているならスピカに連絡してもらえばいい。早くクローディアに知らせなければ。

 カイはケージが減速にかかったところで何度か軽くジャンプして足を慣らし、扉が開くとともに甲板に駆け出した。


………………


 ジリファは閉じた扉の前でしばらく足を止めた。階数表示がくだっていく。

――違う。少年の行き先を確認したいわけじゃない。ただ、ギネイスの様子が気がかりだった。さっきの彼女は昨晩キアラを慰めた時の感じに近かった。

 部屋に戻ったらまた眠ってしまっているんじゃないか。そんな気がして足が進まなかった。

 だめだ。モタモタしていたらまた逃げられなくなる。

 しかし結局のところそんなものは杞憂だった。ギネイスはきちんと起きていた。


「ここから北北西に50キロ離れたところに偵察部隊の基地がある。確か……スローン。フォート・スローン。私が戦力になれるなら今までとは違う作戦を立てられる、でしょう?」

 ギネイスの言動はナマケモノのように緩慢だった。だが言葉そのものは明晰だった。起き上がって寝袋を畳みにかかっていた。戸口に立ったジリファを振り返って見上げる。 

「ああ、ジリファ。……眼鏡? 前はかけていなかったでしょう?」

「前……? なぜそれを」

 前、というのはつまりオルメト以前のことだ。ジリファが眼鏡――サングラスを使い始めたのはオルメト事変のあとだった。目眩や頭痛が続いて原因がよくわからなかったのだけど、光のせいではないかと気づいてかけてみたらかなり改善したのだ。

「忘れていたわけではない、のだけど、認識と記憶? がうまく繋がっていなかった、のか……」とギネイス。

「度は入ってません。オルメトで核の火を見てから、どうも光に弱くなってしまって」

「そう……」

「あの、大丈夫なのですか」

「大丈夫?」

「眠たさとか、」

「ああ、ええと、大丈夫。なんというか、今までは自分の意識がとても高いところに遠ざけられていて、頑張っても少し指を掛けておくのが精一杯だった、のだけど、今はきちんとその上に乗っているような」

 ギネイスは畳んだ寝袋を携帯袋に押し込んで抱きかかえる。

 部屋の明かりを消し、入り組んだ通路を甲板の外周に向かって歩く。ギネイスの足は少しずつスピードを取り戻していく。痩せ細った脛がくねくねと重力に耐えながら体を前に推し進める。靴は軽いスニーカーを1足ブンドで用意してもらっていた。

「キアラ、50 キロの移動、策はある?」

「徒歩。どこへ向かったか一番わかりにくいでしょ」

「徒歩……」ジリファはギネイスに目をやった。

 彼女は何か言いかけて口だけ動かし、結局何も言わなかった。吃りが残っている。以前の彼女に戻りつつあるというより、煉獄で生まれた彼女の人格の上にかつての性格が上乗せされている、といった方がよさそうだった。

「キアラ、あなたはブンドでバクバク食べていたからいいかもしれない。でも――」

「ああ、ああ」ギネイスが声を出した。「大丈夫、大丈夫、そのくらい」

「パンとサラミはあるんで、食べてくださいよ」

 キアラはリュックサックの中を漁ってカルパスのパウチを取り出し、ギネイスに渡した。ギネイスはパウチを開けようとする。でも上手く指がかからない。キアラは一旦取り戻して半分くらい開いてから直接ギネイスの口に咥えさせた。

「あ、あいあお」とギネイスは礼を言った。

 キアラとギネイスにも煉獄で築いた関係があるのだろう。ジリファは口出ししないことにした。

 甲板外周に達して点検用のキャットウォークに出る。人の目はない。誰にも気づかれていない。

 西の空は真っ赤に燃え、地平線を覆う陽炎の中に太陽が沈みかけていた。塔の影が黒い縞になって旗のように空に伸びている。

 翼が切られていても滑空くらいなら問題ない。3人は各々自分の翼でまだ新しい夜闇の中に繰り出した。


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