救いのエゴ

「『――畢竟、人の罪は自己以外の事物に手を加え、破壊することによって生存環境を獲得せざるを得なかったその点にある』聖アーバインの言葉です。人は回顧なき技術力の行使によって地表を破壊しました。その代償ともいうべき爛気に呑まれ、地上を追われてなお技術に縋ってその侵食から逃れ、抵抗し続けた。その繰り返し、罪の塗り重ねをは嘆いたのです。その末に生み出されたのが私たちの祖先たる原初の天使。私たちは人の罪に学び、環境に適応していくことによって今日の清らかな生き方を手にしたのです」

 ペトラルカは聖書台に置いた聖人伝のページを捲り、ゆっくりと翼を広げた。背中の中ほどから一対、肩の後ろから一対、計4翅。

「曰く、不満あらばまず内なる進化を試みなさい。アーメン」

 教会堂に集まった100人以上の天使たちが「アーメン」と唱和する。

「今日は聖人伝2章2節を音読しました。来週も続きを読みましょう」

 ペトラルカは聖書を閉じ、翼を下から順に畳んで聖書台の下から腰掛けを引き出した。教会堂から人がはけるまでは残っておかなければならないのだ。

 足音が教会堂にこだまする。身廊の天井は50mくらいの高さがあって、大木が石化したような白く有機的な柱がヴォールトを支えている。枝分かれした柱の隙間には薄いステンドグラスが嵌め込まれ、色とりどりの陽光が降り注いでいた。

 大半の信者たちが出ていくのに逆らって一組の夫妻・・が演台に向かってくる。

「主教様、3日前に生まれた娘です。ぜひ祝福をお与えください」

 ペトラルカは演壇の縁にしゃがんで母親の抱く赤ん坊に目線を合わせた。赤ん坊はまだ髪も薄く、翼はフワフワの綿毛で覆われている。色素が定着しきっていないので目も青く濁っている。

「かわいいわね」

 ペトラルカは赤ん坊の頭を撫で、それから額に指を当てる。グリフォンの術式陣フォーミュラムによく似た、ただし直径10cm程度の小さな円盤状のホログラムが現れた。

「天聖教会主教の名において汝に祝福を与えん。雨雪と雷鳴の御子となり風と時を渡らん」

 ホログラムの模様が発光し、その光が指先に凝集して弾ける。赤ん坊はもぞもぞと身じろぎする。

「7つになったらまた私のところへ連れてきなさい。真名の洗礼を行いましょう」

「ありがとうございます」

「いい子に育つといいわね」ペトラルカは母親と父親の肩を順に抱いて送り出した。

 天聖教会は天使にも人間にも等しく信仰を与え、等しく聖人に列する。アーバインの一節はいい例だ。彼は旧文明の科学者だった。


 夫妻が去って教会堂が無人になると、ペトラルカは再び翼を広げた。伸びをするようにピンと張って、上の一対だけ羽ばたく。翼はすーっと半透明になり、ガラスのように砕けて消えた。上の一対が消え、下の一対は残る。ケルディムの4枚羽は奇跡によって具象化されたもの、力の象徴であって、骨格は他の天使と変わらない。

 ペトラルカは残った本来の一対の翼を畳み、聖書を片手に演壇を下りて側廊に入った。身廊と違ってあまり光が入らない。

「何の効果もない見掛け倒しなのに、なぜこんなもので喜ぶのかしら。それとも喜んでいるフリをしてくれているだけで、私の方が気を遣われているだけなのかしら」

 ペトラルカはさっきのホログラムを出したり消したりしてごく短いスパンで点滅させた。調子のおかしい電球みたいだ。

「主教様の発言ではないですね」ジリファは姿を現した。

「待ってたわ」とペトラルカ。「それで、首尾は」

「キアラとギネイスは無事に脱獄させました。今はレゼのブンドに匿われています」

「そう」

 満足そうな、でも少し物足りない反応。100点だが、それ以上ではない。2人は側廊を歩きながら話を続ける。

「そのまま渡洋便に乗るわけには行かなかったのね」

「ディアナ・ベルノルスに勘づかれたので。警備の回りが早かったです」

「カチ合ったの?」

「はい」

「大丈夫?」

「交戦そのものによる被害はほとんどないです」

「ならよかった。ブンドは使えそう?」

「はい。半日足らずで足を手配してくれました。今朝の便です」

「なんだ、じゃあすぐ戻れそうなのね」

「それがどうも、乗れるかわかりません。予想より包囲が厳しいようで」

「そう、まあそうでしょうね」

「あと、キアラは心的外傷を負っています。意識は元通り、もとのキアラの人格です。けど、パニック障害の気があります。昨日、夕食の時に取り乱していました」

「ああ、だめだったのね」

「完全な手遅れではないと思います」

「私のミスだわ。力があるからって、頭がいいとは限らないのよね」

「ええ」

「あ、今のはお世辞で返すところ」

「お世辞でいいんですか?」

「……それはあなたの認識次第ね」

 2人はちょっと立ち止まって視線を交わした。ここはもう何も言わない方がペトラルカも気分がいいだろう、とジリファは考えた。

 ペトラルカは仕方なさそうに大きく伸びをした。

「ああ、私が直接出て行ければいいのに」

「それは国体が傾きます」

「わかってる。願望の話よ。でも不思議ね、誰に強いられて閉じ籠もっているわけでもないのに」

「私たちや彼らのことを思っているからです」

「どうかしら。そのせいで『思っているもの』を救えないなんて」

「私がなんとかします」

「そうね、あなたが頼み。頑張って、無事に戻ってきなさい」



「ジリファのレフレクトがあれば念入りにガサ入れされても躱せるはずでしょ?」

 朝食の席でキアラはケストレルに食ってかかっていた。さして日も入らないのに不思議なものだけど、日中は至って元気なのだ。

 ジリファはレフレクトへの集中を解いて何度か瞬き。肉眼の情報に神経を慣らして状況を把握した。

「今度は軍警もレジオン(魔術院)も彼女の奇跡に対策を打ってくる。一筋縄じゃ行かないんじゃないかな」とケストレル。

「私の奇跡はあくまで光学的なものなの。赤外線放射は抑えられても、熱そのものは消えない。物音や、吐息による気流の乱れも感知の取っ掛かりになる。静的な環境では粗が出る」ジリファは補足した。

「サーモカメラ、オーディナルカメラの類は天敵になりうるということだね」

「私は今まで2度空で見つかっている。ヘリや飛行機のオムニセンサーロガーを解析すれば、その弱点を突くのは難しいことじゃない、と思う」

「レジオンもその程度の個人装備は使ってくるんじゃないかな。一度見つかったら、こっそり貨物機に乗り込んでいるなんてまず無理だよ」

「全員殺せばいい」とキアラ。

「全員?」

「私がぶった斬る」

「フフン、それはだめだよ。ブンドは共生を掲げているんだ。人間を傷つけたら説得力がなくなる。弾圧の口実を与えることにもなる。ブンドにはいいことがない。君がそういう手段を取るならブンドとしては協力できないし、場合によっては君を押さえる側に回ることになる」

「その時はその時よ」

 ケストレルは肩を竦めた。

「困ったね。このへん、エトルキアで暮らそうとしている天使ならわかってくれるんだけど、確かに、サンバレノに帰るなら関係のない話なのかもしれないね」

「どっちにしても、貨物ターミナルを使うのは厳しい」ジリファはキアラの擁護はしなかった。反対もしなかった。どちらの立場も理解できたからだ。

「警戒が解けるのは半月以上先だろうね。その間にここにももっときちんとした検分が入るはずだよ。隠れてやり過ごすのは難しい。貨物ターミナルに行くのと同じくらいリスクがある。それより先に別の手を打たないといけない。例えば、そうだね……、人間の格好をして堂々と旅客便に乗り込むとか」

「パスポートを偽造するのね」

「うーん、翼を隠すために3人とも厚着をしているのはちょっと怪しいか。旅客機の中は結構暖かいからね。人間が同行して、全くそのまま天使として連れて行く方法もあるんだけどね、顔が割れていなければ、の話だね」

「それに途中で保安官にバレたらもう乗っ取りしか手がない。それはきっと軍警やレジオンを殺すよりマズい」

「うん。他の乗客を人質にするのと同じだからね。かといってそこから引き返したら軍警が空港で待ち構えているわけだし……」ケストレルはコップをぐるぐるしてコーヒーを掻き回した。朝食は食パンとソーセージで、ケチャップもマスタードもなかった。

「当局が意識していない、不意を突くような方法が必要」ジリファは言った。

「そうだね。もっとダイナミックに考え方を転換しないと」

「例えば……、あえて軍の輸送機を使う。あえてインレに戻る」

「リスキーだね。すごくリスキーだ。軍人にツテがないわけじゃないけど、彼らも職務を全うしてナンボだからね。あまり無理は言えない」

「そうね。ただ、アイデアとして」

 ケストレルは頷いた。

「ひとまずフェスタルルートで準備を続けよう。こちらが勘づいたかどうか、それもできるだけ相手に気取らせない方がいい。その分向こうの対応を遅らせることができるからね」

 匿ってもらっているだけでも十分だ。脱走方法は自分たちで考えればいい、とジリファは思った。けれどブンドとしては一度匿ってしまった以上は勝手なことをされるのも困る、ということなのだろう。裏返せば、この国――少なくともこの街――を出るまでは確実に面倒を見る、ということでもある。そこは信じてもいいはずだった。


………………


 レゼに軍用飛行場はない。空港は相手が軍だろうが魔術院だろうが等しく乗り入れ料の請求書を送りつけてくる。その額がまたバカにならない。そんなわけで空港の独占管制区域を外れる高度3000m以上の甲板には自前のヘリポートを備えるビルが少なくなかった。もちろんあくまでもヘリポート。どんな金持ちでもレゼに滑走路を敷くほどの甲板面積を確保するのは不可能だ。

 特務部隊S51が司令部を置くホテル・ソサエティもその一つで、塔北側の第20区にあり、周囲より少し高い30階の屋上にテニスコートくらいのヘリポートを備えていた。しかも2,3機程度なら収容できる格納庫を併設していた。発着だけならともかく、収容まで考えた建物はさほど多くない。つまり自家用機を所有する程度の客層をターゲットにしたホテルだった。


 ディアナがメロをタッチダウンさせると、ヘリポート専従のボーイが2人出てきて機体を預かり、ローターを畳んでウィンチで格納庫に引き込む。

 ヴィカが出てきてディアナを出迎えた。まずダークグレイの軍服を上から下までじっくり観察した。

「イメチェンか?」

「あれは1着しかないのよ」

 2人は階段を下りてエレベーターを呼ぶ。

「シピの手術は」

「つつがなく」

「治りそうか」

「足は動くかどうか」

「背骨だな」

「ボルトとプレートで止めてあるわ」

「いやはや、鳥肌が立つね」

「肩も」

「ギネイスが戻ればいいが」

「でも、奇跡が羨ましいとは思わないわ。あれは人智を超えた力だもの。救えるはずのないものを救うことができる」

「それは医術も同じだと思うけどね」

「そう?」

「自己治癒能力を超えた損傷をその範疇に引き摺り戻す。そういうことだろう。手術を前提にした『助かるはずの命』なんてものは幻想さ。逆だよ。助かるはずのないものが手術で助かるんだ」

「弄んでいる?」

「もとより天使を飼うというのはそういうことだろう。貫けよ」


 エレベーターの扉が開く。3階、個室のない、ホールが並んだ階層だ。畳んだ椅子や机が廊下に並べてある。院士と警官が動き回っていた。

「市が展開を認めたのは」ディアナは訊いた。

「今朝。まだ5時間ってとこだな。まるで引っ越し中だ」

「この分だと空中行動もなしね」

「もちろん。おまけに長杖ロッドとライフルの携行も規制対象。デカい顔はできない」

「目星は?」

「物流ハブの網にはまだ何もかからない。まだこの島にいるはずだ。基底部か、でなければ各層地下。現状、交通局に5人派遣、基底部と地上に10人、各層の聞き込みに15人、戦闘データ解析は私がやってる。残りは司令部のセッティング」

 ホールの中ではコンピューターの配置・配線作業が進んでいた。

「何もかも任せきりでごめんなさいね」

「他人の部下を動かすってのもなかなか気持ちのいいもんだぜ。人選はガルドから鼻の利くやつ、軍警からレゼの地理に詳しいやつ、レジオンから対人戦闘で腕の立つやつを選りすぐった」

「そういえば、私の兄は」

「いや、レジオンの人選はやってくれたが、自分の名前は入れてこなかった。ケンカでもしたのか?」

「してないしてない」

「軍嫌いなやつでもないしなあ、じゃあ何か残りたい用でもあったのか」

「さあ……」

 ヴィカはホワイトボードに貼ってあった写真を剥がして席に座った。机は教室のような並びだ。先生の席に隊長が座っている。

「地上班がそいつを見つけた。しかもブンドのほぼ真下だ。昨日、今日と軍警に尋ねさせたが、怪しいな。どうも雰囲気が違うらしい」

「あえてレゼに逃げ込んだのよ。間違いないでしょう」

「それでも行政向けの証拠が必要だ。次は何も言わずに下から行ってみるか。向こうもそろそろ慣れてきたところだろう」

「そうね」

「ジリファ・エクテの奇跡は厄介だが、測温方式のサーモカメラには捉えられていた。今携帯型を手配している。あと2時間もあれば10人分は揃えられる」

「意外と粗があるのね」

「相手も手練だ。ブラフじゃなければいいが」

「私が当たった時は余裕があるようには見えなかった。正面戦闘は不得手なのよ。そんな小細工をしてくるとは思えないわ」

「備えるに越したことはない」

「そうね」

「――1500からミーティング。全員集める」ヴィカは声を張った。「それまでに準備を整える。いいな?」

 ホールのあちこちから「はい」という返事が湧き上がった。

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