抱きしめる
メルダースの家はリビングダイニングの他に寝室が2つあって、ベッドが置いてあるのはその一方だけだった。男組はソファで眠るからベッドはあとの2人で使ってよろしいということになって、クローディアはダブルベッドの縁に座ってスピカに髪を乾かしてもらっていた。ドライヤーを切ると少し開いた窓から近隣の生活音が聞こえてくる。笑い声、食器の音、シャワーの跳ねる音……。本当にたくさんの人間がいる。かつての地上の都市圏と同じ規模の社会が築かれている。その音の向こうにどんな人間が生きているのだろう。年齢、家族構成はどんなものなのだろう。クローディアは想像していた。
「あなたは母親のことって憶えてないの?」スピカはクローディアの髪を梳かしながら訊いた。
「生みの親のこと?」
「そう」
クローディアは人間に溢れた景色をよく知っていた。でもそれは旧文明が残した写真や映画の中のものだった。自分で直接見たものではなかった。
「私は生まれて1日も経たずに忌み子として捨てられたんだって。知ってるわけない」
「じゃあ、それがどんな人か、なんて話を
「そうね」
「家族に憧れたことはない?」
「親ってどんなものなんだろうって思うことはある。自分に似ているのかな、とか」
「似ていたら?」
「……私みたいな天使がもう1人いるって、なんか嫌だな」
「え、どうして」スピカは少し笑った。
「なんとなく。家族って、わからないから」
「私は母親より父親に似ているって言われていたわ」
「顔?」
「そう。性格は……どっちでもないかな」
「スピカの故郷では天使と人間が一緒に生活しているのね」
スピカは頷いた。
「ルフト並みに平等志向なんじゃないかしら。ああ、でもあの国の独立には加わらなかった。なにせずっと西の方だし、西部は全体として中央ほどイデオロギーもきつくないから」
「翼を切ろうっていう時、親は反対しなかったの?」
「言ってたら、反対したでしょうね。言ってないの。何なら、軍に入った時から私はもう天使じゃなくなってるんだわ」
つまり、入隊した時から彼女は故郷と絶交状態なのだろうか。
「もしかして、天使には寛容だけど、軍人には厳しいの?」クローディアは訊いた。
「まあ、そんなところね」
「そういうこと……」
スピカの故郷の自治が守られているのはスピカの地位のおかげだと言っていた。でも彼女が疎遠になっているのだとしたら故郷の住民たちはその事情を知らずに生きているのかもしれない。
「こうしていると母親のことを思い出すわ。きっとこうやって私の髪も梳かしてくれたんだろうなって」
「娘みたい?」
スピカはちょっと手を止めた。
「あー、早く生んでいればあなたくらいの子供がいてもおかしくなかったのね、確かに」
「でも結婚したのは最近なんでしょう?」
「3年前」
「子供の話はしないの?」
「悩んでるのよね。男の子だったらいいけど、女の子だったら――天使だったら、決して生きやすい社会とは言えないし、何より、私のことをどう説明しようって。きっと葛藤を引き起こすでしょう」
「私の母親もそんなふうに向き合ってくれればよかったのに」
「そうね、確かにそう」スピカはブラシを置いてクローディアを後ろから抱擁した。スピカの腕や胸はとても柔らかかった。
「べつに、サンバレノの文化で育ちたかったって言ってるわけじゃなくて」とクローディア。
「大丈夫、通じてるわ。でもネグレクトがいいことだとは思わないでしょ?」
「もちろん」
「あなたは母親を恨んでいる?」
「恨んでる……のかな。わからない。私には地上の世界が当たり前だったから。そういうものだと思っていただけ。でも、サンバレノの天使がつけ狙ってくる元凶がその人なのだとしたら、何かしら罰は与えたくなると思う」
「もし会えたら?」
「あえて会いたいとは思わない。たぶん嫌なことだから、忘れたまま、意識しないでいられるなら、きっとその方がいいから」
………………
冷たいぬるぬるした液体が膝にかかる。それからぶよぶよした重たいものが腹部にのしかかる。熱っぽい。膝にかかった液体のせいで余計に熱く感じられた。肌が焼けそうだ。
そのぶよぶよしたものの中から何かが突き出して体の中に入ってくる。棍棒、あるいは、腕? 皮膚を切られるような痛み、内臓を掻き回される不快感。
天井の明かりが黒い影に遮られ、点滅する。眩しい。目が陰に慣れようとしている。
へばりつくような湿った空気が顔にかかる。
……酒臭い。
アルコールの匂いじゃない。アルコールが生き物の体内で分解される時に出るアセトアルデヒドの匂いだ。
詰まったポンプのようなものがふごふご音を立てながら顔の上で臭い空気を吐き出している。
人間、なのか?
私の体の上に人間が乗っているのだろうか。
重い。腰骨が擦り潰されそうだ。キアラはもがきながら手を突っ張る。じっとり汗ばんだ皮膚とザラザラした産毛の感触が手のひらに押しつけられる。滑る。いくら押しても重くてびくともしない。
ふと手首を掴まれる。
「大丈夫だよ。安心して。僕は君たちを傷つけたりしない。僕は君たちを愛しているんだ。君には僕の……」
湿った息が耳元で言った。
その言葉はまるで呪文のように頭の中で跳ね返り、何度も何度も再生されていた。
………………
午前4時前に目が覚めた。なんでこんな時間に? とジリファは思ったが、キアラが荒い息をしていることに気づいてその訳がわかった。悪い夢を見ているようだ。ジリファは起き上がって天井灯の紐を引いた。豆球が点いて部屋がオレンジ色に仄暗く照らされる。
「キアラ」
ジリファはキアラの肩を揺すった。起こしてあげた方がいい。首筋に汗が光り、借り物の肌着は襟までびっしょり濡れていた。
「平気?」続けて呼びかける。
キアラは顔をしかめて目を開けた。熱っぽいぼーっとした目だった。煉獄で初めて見た虚脱した彼女の目ともまた少し違っていた。キアラは体を起こす。掛布団をぎゅっと握り、何か体の中の気持ち悪さを我慢するように苦しく呼吸を続けていた。
「水、飲む?」
やはりキアラは答えない。
昨日、レゼのブンドに到着するまでの彼女は意外なほど元気だった。アドレナリンが効いているにしても、ほとんど正常な状態に思えた。この調子なら心配いらないとジリファも安心していた。
でもそれは結局のところ思い過ごしだった。彼女はどうやら夕方から憂鬱を感じ始めていたようで、そえが決定的に発露したのは夕食の時だった。スラムの中でもかなり高いフロアにある食堂では最下層甲板の物音が聞こえてくることがあった。おそらくかすかに何かのサイレンが聞こえたのが引き金になったのだろう、キアラはおもむろに頭を押さえてうずくまってしまった。煉獄で聞いたのと同じような音だったのか、それで記憶がフラッシュバックしてしまったみたいだった。
とても食事を続けられるような具合ではなくて、部屋まで連れ添って水を飲ませたりベッドに寝かせて布団をかけてあげたりしなければならなかった。意識が記憶に呑まれているせいで現実の自分の肉体のことが疎かになっていた。一応寝かしつけたのだけど、おそらく深い眠りには入れなかっただろう。夢の中で煉獄の記憶に魘され続けていたのだ。
ふと背後で物音がした。まさかギネイスが目を覚ましたのか、と振り返ると彼女はもう立ち上がっていて、キアラのベッドに膝で乗り、そのままキアラを後ろからぎゅっと抱えた。今この時にどうすればいいのか確信している動きだった。迷いもなかった。
キアラはふうっと大きく息をつき、手の力を弱めた。少しリラックスできたようだった。ギネイスは汗で額に張り付いた髪を分け、しばらくキアラの頭を撫でていた。ジリファはなんだか圧倒されて、硬直したままその様子を見ていることしかできなかった。ギネイスが目覚めた。それにこの雰囲気、もしかして彼女もかつての精神を取り戻しつつあるのだろうか。そこにいるのは私の知っているギネイスなのだろうか。
キアラの息は次第に落ち着き、ギネイスの手もいつの間にか動きを止めていた。2人ともそのまま眠ってしまいそうだけど、眠るにはかなり無理な体勢だ。
「ギネイス」
そう呼ぶと彼女は何度か瞬きしてからジリファを見返した。
「あ、あ、すみません」
「キアラはもう大丈夫そうです」
ギネイスは自分の腕の中にいるキアラに気づいて少し狼狽した。キアラが体を動かしたのでおずおずと引き下がって自分のベッドに戻った。
ジリファは少し幻滅すると同時に安堵も感じた。ギネイスは戻っていない。
「酷い気分だ……」キアラが呟いた。まだ少し
「少し落ち着いた?」
「うん。シャワーが浴びたい」
キアラは床を見て顔をしかめた。「不潔だな。昨日までは何も感じなかったのに、なんだ、妙に来るものがあるよ」
ジリファはキアラのためにスリッパを用意して先に通路へ出た。歩いているうちにキアラの足取りもしっかりしてきた。
「煉獄を思い出すのね」
キアラはゆっくり頷いた。それからぎゅっと拳を握って自分の額を何度か叩いた。
「そう、思い出してんだよね。あれは私の記憶なんだ。夢とか――想像じゃないんだ。まるで憶えていなかった。いや、憶えてたんだよ。感じてなかっただけで、体はきちんと憶えてたんだ。それが今になってうずきやがる」
「感覚を閉ざしていたから」
「そうだよ。感覚の殻に籠って、他人事みたいに捉えて、それで元凶の人間には恨みも抱かないでやり過ごそうっていうんだ。クソッ、自分のことかよ、腹が立つ。恨まなきゃいけないのは人間なのにさ、自分に腹が立つんだよ。この程度のことで過呼吸みたいになりやがって」
ジリファはシャワー室に案内した。ブンドの管轄で一番綺麗な浴室はここだというのを昨晩ケストレルから教わっていた。どこかで余った新品のユニットバスをそっくり嵌め込んだみたいな代物だった。
「よかった。カビだらけの風呂場だったらほんとにぶっ倒れてたよ」とキアラ。すぽんと服を脱いで中へ入っていく。
ジリファは脱ぎ捨てられたシャツとパンツを石鹸で洗ってよく絞り、あとは流しの縁に腰掛けてキアラを待っていた。
ギネイスもいつかかつての人格を取り戻してくれるのだろうか。彼女はキアラよりももっと酷いものをもっと長く味わってきたはずだ。それを受け止めることができるのだろうか。それとも、彼女の人格は完全に変質してしまっていて、もうずっとあのままなのだろうか。
いずれにしても、キアラに対するさっきの優しさは素晴らしかった。呆然と見ていることしかできなかった自分とは違う。たとえビビっていても、今のままでも、ギネイスは偉大だ。どれほど身を
ジリファは眠くなってきた。
でもキアラはなかなか出てこなかった。何度もシャワーで泡を流す音が繰り返し、そのうち水の跳ねる音に変化がなくなった。シャワーがただただ出っぱなしになっている。
「キアラ、大丈夫?」ジリファは訊いた。
返事がない。
「キアラ」
「……、……」
何か言っているが声が籠っていて聞き取れない。
「開けるわ」ジリファは断ってから浴室の扉を開いた。湯煙が吐き出される。
キアラはシャワーの下の壁に寄りかかってこちらに背中を向けていた。
「カルテルスにも悪いところがあるんだ。手応えがないところだよ。何を斬っても跳ね返りがないんだ。何の憂さ晴らしにもならない」
ジリファはキアラの脚に血が伝っていることに気づいた。それはまるで経血みたいに見えた。でも違った。下腹部についた切り傷から流れ出した血だった。白い肌から鮮烈な赤い血が流れ出していた。
「血……」
ジリファは服が塗れるのも構わず中へ入ってシャワーを止め、傷口に手を当てた。深い傷だった。まさか自分でやったのか。キアラは自分の足で立ってこそいたけど、妙にぐったりしていた。
「自分の体が汚れているような感じがして仕方がないんだよ」キアラは言った。「何度も洗ったよ。でも落ちてる気がしないんだ。体の内側に染み込んでるみたいなんだ。人間の穢れって、本当にタチが悪い」
「だからって、切らなくても」
「切って塞いで、そうでもしなけりゃ綺麗にならないと思ったんだ。でも、だめだ」
ジリファはどう言葉を選べばいいのかいよいよわからなかった。もう触れることしかできなかった。傷を癒し、さっきのギネイスを手本に頭を撫でた。髪はキシキシしていた。相当念入りに洗ったのだ。
けれど、自分にキアラを慰める資格があるのだろうか。
キアラの強姦は一度や二度ではないはずだった。つまり、ジリファが忍び込んで見ていた期間だけでそれは2回に及んでいた。救出の算段を整える都合、先走って手を出すわけにはいかなかった。傍観していたのだ。それはジリファにとってまるで自分の罪であるかのように感じられた。
煉獄で初めてキアラを見た時も、今も、キアラのこんな姿は見たくない、と思っていた。もっとしゃんとしてほしかった。でもそれを伝える資格はジリファにはなかった。なぜって、自分は同じ経験をしていない。それがギネイスとの違いだった。
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