バラの街へ

 メルダースが席を立って水を汲みに行く。コートの下はダークグレイのタートルネックで、着たままでも鍛えられた逆三角形の肉体美がよくわかった。コートを預かっておいてよかった、とクローディアは思った。

「カイもあれくらい鍛えればいいのに」

「やだよ。ナイブスのコクピットは狭いんだ。小柄な方が都合がいいんだ」カイはコーラのコップに刺したストローを吸いながら答えた。

「別に今すぐってわけじゃなくて、大人になってからでもいいのよ」

「それに、飛行機のパワーは限られているから、削れるところは削らなきゃいけない。パイロットの体重だって例外じゃない」

「彼だってパイロットでしょ?」

「レース機の話をしてるんだよ。メルダースは戦闘機のパイロットだ」

 噛み合っているのかいないのかよくわからない会話だ。


 そういえばラウンジには他の客もそれなりに入っていて、学生なのか、上着を脱いだ若い女性に背中の開いた服装が少なくなかった。チューブトップだったりホルターネックだったりするのだけど、特にパーティ用に着飾っているわけでもない。ちょっと妙な感じだ。

「流行りなのかしら」

「目のやり場に困るよ」カイも気になっていたようだ。

「クリーン・バックというんだ、あれは」メルダースがコップを持って戻ってきた。

「モード?」

「いや、もう何十年もあんな調子だよ。気を悪くするかもしれないけど、あれはね、『自分は天使じゃない』って証明なんだ。たとえ天使でも、君のように厚着をしているとわからない。間違われると困る、と彼女たちは考えているのだろうね」

「だから男はやってないのね」

「でも、あのまま外に出るのは寒そうだ」とカイ。

 メルダースは笑った。

「さすがに彼女たちも外では防寒するだろう。意味があるのは店に入った時だ。パブだとか。悪い男が寄り付かないようにしているんだ。私が士官学校の頃は――まあ、私も当時はまだ調子のいいもので、そういった店にもよく世話になってね――クリーン・バックの女は気が強いからやめておこうって男どもでよく話していたのを憶えているよ」

「そんなの、でも、人間の女にしか興味のない男にはむしろセクシーアピールでしょ」

「ああ、そういう意見もあったね。大抵上手くいかなくてね、賭けに負けて酒を奢っていたよ」

 クローディアはカイと同い年くらいの頃のメルダースを想像した。彼にも向こう見ずな飛行機野郎の時代があったのだろう。


 自分の奇跡を取り戻すためにギネイスの血を奪う必要があって、場合によっては死なせることも厭わない。天使愛護主義者エンジェフィリストのメルダースに事情を説明するのは心が傷んだ。胸の内側がひりひりする感じだった。

「ネーブルハイムであなたが私の味方をしてくれたのはそれがあくまで任務だったからでしょう?」

 メルダースは頷いた。

「でも、そもそも私がエンジェフィリストだからこそヴィカは君をネーブルハイムに連れてきたんだろう」

「天使同士が争っていたら、プライベートなあなたはどちらにつくの? それとも、傍観?」

「……それはケースバイケースとしか言いようがない。ただ、どちらかを選ばなければならないなら、より理不尽な方を敵に回すだろう」

「ギネイスに関しては私に道理はないわね」

「確かにサンバレノの捕虜の収監環境は劣悪だよ。特にアークエンジェルは酷い。軍の中にも天使の権利を擁護する派閥があって、何度も査察を申し入れているんだが、警務隊が見せてくれるのはエンジェルの区画ばかりさ。アークエンジェルの牢は危険だからと、その一点張りでね。あそこは右寄りの人間が集まっているから、自浄作用がない」

「ディアナは警務隊だって言っていた」とカイ。

「ベルノルスの人間こそ右派の筆頭だよ。監獄や、それこそ『煉獄』の今の環境を整えたのは彼女だ」

 カイは黙っていた。愕然としていた。

「右派、というのは」クローディアは訊いた。

「天使か人間か、という観点で言えば、人間中心主義の持ち主、という意味になる」

「彼女、私には挨拶しなかったものね。天使が私服でいるのは危ないから軍服を着ておけって言われたわ」

「コスプレだよ、それは。守るだけなら自分がそばにいればいい。趣味で着せたんだろう」

「コスプレ……」

「天使愛護主義者を名乗る差別主義者もいるよ。いや、自分から名乗る場合はむしろそのパターンの方が多いくらいだ。きちんと中身が伴っているタイプは権利擁護主義といった正式名称を主張することが多い」

「つまり、どういうこと?」

「愛護、という言葉が上から下への方向性を持っている、といって理解してもらえるかな。愛護するものが上で、愛護されるものが下、というように。例えば、親は子供を愛護する。親が上で、子供が下だ。

 一口に差別といってもその内実は暴力や暴言、あるいは、市内に禁制のエリアを設けるとか、生活の利便の制限だけではない。愛護を一方的に押し付けるのもその一端なんだ。両者対等であるべきなのに相手を下に見ているわけだからね」

 クローディアは身に覚えがあった。ネーブルハイムの大浴場で会ったパイロットの女は何の了解もなしに頭や翼を撫でできた。不快な体験だった。かわいい、とか、綺麗、というのも差別の言葉になりうるのだろう。

「ディアナは愛でることによってむしろ天使を精神的に貶めているのね」

「シピも貶められているんだろうか」カイが呟いた。

「シピ?」

「ディアナの部屋にお手伝いの天使がいたんです」

「ああ、奴隷的行使は典型的な愛護的差別だね。決して待遇は悪くない。しかし上下ははっきりしている」

「危ないから部屋の外には出さないと言っていた。でも彼女は空が恋しそうだった」

「うん、籠絡もその諸相だ。人間にとっては天使が自分の独占的所有物であるということを確認できる端的な手段だからね。刷り込みだよ」

「私、彼女のことがなんとなく怖い人だなって感じていたの。たぶんそういうことなのね」

「その感覚はおそらく正しい」メルダースは頷いた。

「つまり、あなたはキアラたちが脱獄してよかったと思っている」クローディアは言った。

「少なくとも、そう思うべき立場ではある」

「まさか、支援は――」

「それはない。実力に訴えれば国家権力と真っ向から対立することになる。私はあくまでエトルキア軍人で、そういう立場でしかできないこともある。ネーブルハイムの一件のように」

「そう、それならよかった」

「話を戻そう。確かに道理という観点で言えば君の手術は褒められたものではない。……だが、人には縁というものがある。信用と言ってもいい。その都度その都度どちらにつくか、というふうに割り切れるものでもない。つまり、我々はネーブルハイム以来の縁だ。妻に会わせるという約束もした。今は君たちのためにできる限りのことはしたいと思っている。立場として、ではなく、個人的感情として、ね」


 レゼ行きの便はとても大きなヘリコプターだった。遠目にはルナールに乗ってきたやつと同じくらいに見えたけど、近づいてみると長さは目測2倍以上あって、反り立った舷側はまるで船みたいだった。なんと2階建てだ。内階段がついていて、それぞれの階に前後通路が2本あって、右・中・左と座席が2列ずつ並んでいた。それがだいたい15行で乗客定数が180くらい。もう立派な旅客機だ。

 客入りはその1/3からせいぜい半分くらいで、身なりのいい老人が多かった。あとはぽつぽつと学生らしい若者が数人、それぞれ単身で2,3席分広く使っていた。帰省だろうか。

 クローディアはカイに窓際の席を譲ってもらった。インレからルナールの時は逆だったからだ。頭上で5枚羽根のローターが回る。フゥゥゥンと機体の外殻を震わせるエンジン音が大きくなり、ほとんど何の加速度もなく車輪が甲板を離れた。離陸時刻と行き先の機内アナウンスが流れる。他の乗客たちは慣れきっているようで、機体が空中にいるのかそれとも甲板の上にいるのかなんてまるで気にかけていない。


 レゼの飛行場はさながら花の萼だった。最下層に滑走路が三方向きで設置されているのだけど、すぐ上に居住用の甲板が張り出していて、どの滑走路も長さの半分くらいはほとんどトンネルのような状態だった。構造物の間は気流が乱れるのでヘリポートも滑走路の端に設けられていて、着陸してからターミナルまで延々と誘導路を走っていかなければいけない。やけに早く着いたなと思ったら、所要時間の半分くらいは甲板の上を走っていたのだ。

 駐機場の真ん中にあるターミナルビルはなんだかパイプオルガンを思わせるような重厚な佇まいで、ヘリがエンジンを止めるとその下の方からタコの腕みたいなものが伸びてきて先端を舷側にくっつけた。それこそ吸盤みたいだ。

「ボーディングブリッジだ。初めて見た」とカイは上に覆いかぶさってきて窓に顔を近づけた。角度が浅いのでそうしないと見えないのだ。

「ボーディング?」とクローディア。

「あの橋を伝って客が乗り降りするんだ」

 なるほど、ヘリには2階にも扉がついていた。何に使うのだろうと思っていたけど、このためなんだ。

「でも、ちょっとそこまででしょう?」

 ターミナルビルまでは100mない程度だ。客が自分で歩いていけばいいのに。

「タグやローリーが走り回ってるから、素人がウロチョロしてると危ないんだよ」

 下に目を向けると確かに虫みたいなミョウチキリンな形の車がたくさん走っていた。貨物や燃料を運んでいるようだ。

 でもせいぜい10乗りくらいの小さな航空機にもあの橋がくっつくのだろうか、と思っていると、比較的まともな形のワンボックス車が走ってきて隣に止まっていた小さなヘリ(たぶんルナールに行く時に乗ったのと同じタイプだ)に横付けした。中からたくさん荷物を持った一団が出てきてヘリに乗り移る。夜逃げかもしれない。なるほど、やっぱり一定の大きさがないとあの橋は使えないようだ。

 じゃあ橋の方が快適なのかというとたぶんそんなことはなくて、見るからに支柱が細くてグラグラしているし、中は相当な上り坂だった。本来はもっと背の高い旅客機のための設備なのだろう。


 ロビーが近づくにつれて奥から何かガヤガヤした地鳴りのようなものが聞こえてくる。何かあったのだろうか。魔術院が一帯を封鎖しているとか? クローディアは緊張した。

 でもメルダースも他の乗客たちもまるで身構えていない。たぶん大丈夫なのだろう。恐る恐る橋を抜ける。

 結局のところ、ロビーには特に異常はなかった。ただ大勢の人間がいるだけだった。いや、その「大勢」のレベルが異常といえば異常だった。輸送機の格納庫みたいにとても広大な空間なのに、その中にぎっしりと人間がひしめいているのだ。地鳴りの正体は彼らの声だった。何かロビー全体に共通のイベントが発生しているわけではない。もちろん魔術院もいない。てんで好き勝手に喋る各々の声が混じり合って、どうにもおどろおどろしい音を合成しているのだった。

 人間たちは各々自分の目的地に向かって足早に歩いていく。メルダースもその流れに合わせて歩いていく。右から左から人波が押し寄せ、背中を掠めて通り過ぎていく。メルダースの背中にぴったりくっついていないと肩がぶつかりそうだった。

 こういう光景には見覚えがある、とクローディアは思った。旧文明の映画だ。駅や街中のシーンにはちょうどこんな感じに数え切れないほどの人間が映っていた。そうか、実際自分でその中に飛び込んでみるとこんなに慌ただしいものなのか。息苦しくて目が回りそうだ。クローディアは今までこんなに大勢の人間を一度に目にしたことはなかったし、それがどんな感覚を催すものなのかも知らなかった。

 ベイロンの夜の街やエアレースの会場にもたくさんの人間が集まっていたけど、この島は1,2段格が違う。足並みの速さもこちらの方が全然上だ。

 ベイロンに比べると人々の格好はどことなくモノクロームで華やかさがなかった。色彩がないわけじゃないけど、それがとても薄いのだ。たぶん仕事で出てきている人々の割合が多いせいだろう。借りているメルダースのコートでも目立ちすぎるくらいにモスグリーンだった。最初に見た時は緑か茶色かわからないくらいだったのに。

 それと、ベンチやカフェテラスに座って上着を脱いでいる人々の中にはやはりクリーン・バック・ファッションの女がちらほら見えた。確かにルナールだけの流行りではないようだ。


 メルダースは売店に寄って冷凍のキッシュを2ホール買い、エスカレーターで2階層降りて地下駐車場を進んだ。さすがに駐車場にはほとんど人気がない。その頃にはクローディアもカイもすっかり人間疲れ・・・・してなんだか妙な息切れを起こしていた。その様子を見てメルダースは笑った。

「東部とは時間の流れが違うだろう」

「そうね、何だか時間も空間も圧縮されてるって感じがするわ」

「田舎者にはつらいですよ」

「昔の地上の街に似ているって思った。塔の上にもまだこんなに人の集まる場所があるのね」

「まるで見てきたようだね」

「アーカイブにも地上の街の記録は残っているでしょう?」

 メルダースは頷いた。

「この国は旧文明の残照を崇拝している。この街の都市化を進めてきた人々にとっては君の言葉はありがたいものだろうね」

 彼はポケットからリモコンを取り出す。奥に駐まっている水色のワゴン車のウィンカーが光った。

「あなたの車?」

「一応ね」

 後部座席に座る。メーターに光が灯ってもエンジン音がしない。電気車のようだ。

 自家用車を持ってるってことは上流階級だ。メルダースは将官なのだから不思議なことではない。でも周りには彼の車より高級そうな車がたくさん並んでいた。

「レゼの甲板は主要甲板を含めて45層ある。上から順に番号が振られていて、ここが45層。最下層。私の家は22層にある。中層の1つ上だね。高度差にすると約1300メートル。普通、自家用車を持っている住人でもリフトを使う高さだ。ただ、自走して行けないわけでもない。この島には縦貫道という道路があって、各甲板の一番幅のあるところを辿って螺旋状に走っている。総延長が30キロもあるし、傾斜5パーセントの坂が延々と続いているから、まともに使うなら1つか2つ上下の甲板へ渡るくらいのもので、上から下まで走ってみようというのはほとんど趣味の試みだ。レゼがどんな島か知るにはいい眺めに出会える。甲板を渡る時の高度感が恐いという人もいるけど、どうだろう?」

「私は構わないわ」

「俺も平気です」

「じゃあ、少しドライブをしよう」

 

 駐車場の出口が最下層の外環に面していて、少し走ってジャンクションを抜けると上り坂になった。もう縦貫道に入ったようだ。

 上に目を向けると、それこそ螺旋階段のような甲板が連なり、その間を飴細工のように細い曲線を描いた高架が結んでいた。甲板の並びが均一ではないせいか、部分的にループ線が見える。全体としては反時計回りに上っていくようだ。

 高度が上がり、最下層の街が俯瞰で見えてくる。ほとんどが日陰の中にあり、空港ビルや格納庫、倉庫といった屋根の広い建物で占められている。でも景色が見えたのは一瞬で、間もなくポリカーボネートの防音壁が視界を遮った。もとは透明なのだろうけど、真っ白く濁っていて視界が通らない。

 車道は中央分離帯付きの各2車線、周りは上りも下りもほぼトラックで、甲板間は横道もないので100km/h前後で流れていた。次の甲板まで1分かからないくらいだ。

 甲板上の区間は傾斜もなく、他の道との交差点もあって流れが緩やかになる。下から走ってきたトラックたちもほとんど次の層で横道に逸れていく。縦貫道こそきちんとした規格道路だけど、建物の間隔が詰まっていてどの道もかなり細い。44層、43層あたりは道沿いに背の高い商業施設が並んで人出も多く、いかにも「街中」という雰囲気だったのが、30番台に入ると明らかに住宅街の気配が濃くなってきた。そしてしばらくして気づいたことに、高度を問わず西向きの甲板の方がなんとなくハイソだった。戸建ての屋根がきちんと三角だったり、壁が真っ白なのにちっとも落書きされていなかったりするのだ。人間が塔の西側を好むのはこの島でも同じなのだろう。

「この道は20年前には影も形もなかった」メルダースは言った。「レゼの45層構造はもう40年来になる。でもその初めからこの道が整備されていたわけではないんだ」

「ルフトですか?」カイが訊いた。

 メルダースは頷いた。

「あの国の首都はノイエソレスといって広大な人工地殻だ。階層構造ではなく、一枚の平面で構成されている。したがって陸上交通による移動が発展している。水平面を移動できるというのはやはりエネルギー的にメリットだよ。かつて人類の黎明期に山越えの陸上交通よりも水上交通がより早く広く発達した例がよく示している」

「この道がルフトへの対抗ですか」

「かなり大幅な譲歩を含んだ『平面』だね。確かに発想としてはかなりナンセンスだ。だがこれだけの幅の道を、しかも45層全てに渡って敷設するとなれば島全体の都市改造計画が必要になる。野放図に増築されて首が回らなくなりつつあったこの島を根本的に立て直すためのきっかけになったのは違いない。インフラの合理化と塔の構造強化も絶え間なく続けられ、今なお人口が増えている」


 案の定22層は西向きの甲板で、空軍の官営マンションは甲板の端に3棟並んでいた。やはり地下が駐車場になっている。空港から30分ほどのドライブだった。

 メルダースは8階までエレベーターで上がった。チャイムに応えて玄関ドアが開く。中で扉を引いていたのは彼と同い年くらいの女性だった。人間の女性だ。あえて補足するなら、人間にしか見えなかった・・・・・・・・・・・。彼の奥さんは天使だという話を聞いていたから、お手伝いさんを雇っているのか、と思った。

 でもメルダースはこう言った。

「紹介するよ。妻のスピカだ」

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