地の天使

 スピカという名前には聞き覚えがあった。どこで聞いたのだろう? ……そうだ、ディアナが言っていた、高級将校になった天使だ。カイはリビングに通してもらいながら思い出していた。

「今日は疲れたでしょう。今お茶を淹れるから、少し待っていてね」スピカはカウンターキッチンに入って紅茶の用意を始めた。

 カイとクローディアは何度か目を見合わせた。互いに混乱しているのがよくわかった。

「君たちにはまだ説明していないことが色々とあったね」メルダースは2人が着ていた上着を預かってハンガーにかけた。

 スピカは紅茶のコップをテーブルに並べる。カイ、クローディア、メルダース、自分の順だ。

「メルダース、あなた、奥さんは天使だって言ってなかった?」クローディアが一番に訊いた。

 スピカは微笑した。

「天使には見えなかった?」

「見えなかった。というか、見えない」クローディアは首を振った。

 スピカが目を向けてきたのでカイも首を振った。スピカはもっとにこにこした。

「翼がないからそう見えたのかしら」

 それもある。それが一番大きいだろう。でも髪だって黒いし、それに、天使にしては太りすぎだった。いや、人間の女性基準なら太っているとは言えない。ヴィカよりはふくよかだけど、ラウラよりはひと回り細いくらいだ。

「背中を見てもらえばわかると思うわ」とスピカ。

「いや……」カイは遠慮した。

「私のことを理解してもらうには端的な方法だと思うのよ」

 スピカは立って背中を向け、ブラジャーの高さまでセーターをまくり上げた――

 と思ったら視界が真っ暗になった。何かと思ったらクローディアの手が眼窩を覆っていた。

「えっと、見せてるんだけどな……」とスピカ。

「そ、そのまますぽんと脱いじゃいそうな勢いだったから」

 クローディアはそっと手を外した。カイは目の調子を直すために何度か瞬きした。

 覆われる前からちょっと見えていたけど、人の背中にしてはいささかごつごつしていた。肋の後ろに出っ張りがあるのだ。そのでっぱりの上に縦10㎝ほどの縫合痕が左右対称に入っていた。

「切られたの?」クローディアが座り直しながら訊いた。

「いいえ、切ったの。自分の意思で。もう少し綺麗な背中にしてもらえればよかったんだけど、内臓を守るのに支障が出るからって、根元の骨は外せなかった」スピカは背中の出っ張りを動かした。腕で言えば肩甲骨にあたる骨のようだ。

「手術」

「そう。執刀医はディアナ・ベルノルス。私は翼を外したい。彼女は天使の体の構造を知りたい。ウィンウィンだった」

「彼女はあなたのことを話していましたよ」カイは言った。

「あ、じゃあ翼のことも聞いちゃってた?」

「いいえ。それは言ってなかった。空軍で一番階級の高い天使があなただって」

「ああ、なるほど」スピカはセーターを下し、裾を直しながら席に戻った。「そうね、天使は天使。私は天使。でも人間に見られたい。髪も染めてるの」

 スピカは顎くらいまでのショートヘアで、そう言われてみると生え際がほんの少しだけブロンドだった。かなりこまめに染めているのだろう、本当にほんの少しだけだ。それと、確かに黒髪ではあるものの、染料のせいなのか全体的に少しだけ緑がかっていた。目の色は薄い水色で、それはもともとの色のようだ。自分と似た色だな、とカイは思った。

「人間として生きるために?」クローディアが訊いた。

「可能な限り、人間のように。天使だから、天使のくせに、そういう言葉をできるだけ聞かずに済むように、かな」

「ルフトへ行こうとは思わなかったの?」

 スピカは首を振った。

「ここよりずっと西の方に天使の人口が多い自治島があるの。私の故郷。私が軍で頑張っているから自治権が認められているみたいなところがあってね、見捨てられないんだわ」

「メルダース、奥さんが天使だってこと以外何も教えてくれなかったわね」とクローディア。

「あのね、前情報なしで連れてきてって私が頼んだのよ」スピカが遮った。

「……それで天使に見られるかどうか確かめたかったってことね。同じ国でも、東部の人間にはどう見えるのか」

「そう。本当は天使か人間か知らないままで来てほしかったけど、それは言っちゃったんでしょ。ネーブルハイムの時だものね、少し前だから仕方ないわ」

 メルダースは視線を向けられて少し目を泳がせながら首を傾げた。

「外では私が天使ってことは内緒ね。近所の人にも言ってないの」

 カイとクローディアは頷いた。


「私の血の件、あなたには話があった?」クローディアは訊いた。

「血の件……脱換のこと?」

「血液型からして不適合だよ」メルダースが先に答えた。「彼女は軍人だから軍が詳細なプロフィールを持っている。わざわざ改めてサンプルを採る必要はなかったんだろう」

 スピカは黙って頷いた。状況に察しがついたみたいだ。彼女はふと上体を引いて机の下を覗き見た。クローディアの脚を見たようだ。

「ケガ?」

「そう、魔術院でやられたの」

「あ、あなたはアークエンジェルなんですか」

 カイが訊くと、スピカは数秒間じっと見返した。してはいけない質問だっただろうか。

 でも最終的に彼女は頷いた。それから席を立ってクローディアの横にしゃがんだ。脚を出して、というジェスチャー。

 外脛の湿布を剥がして赤くなった皮膚を確かめ、手を翳す。

「このくらいの奇跡なら使えるの。でもこれは他の天使にも言わないでね。たぶんすごく面倒なことになるから」

 30秒ほどで肌の赤みはすっかり消えていた。

「ありがとう。全然気にならなくなった」

「ヒリヒリしてたでしょ? 大したことないのに気になるケガって嫌よね」

「カイも肩をやられたんだ。頼めるかな」とメルダース。

「もしかして、そのつもりで連れてきたでしょう」スピカは横目でメルダースを見た。

「ケガがなくても連れてくるつもりだったよ」

 カイは袖を抜いてシャツを袈裟にした。肩を上げるのが大変だった。

「あら、天使並みの細さね」

 スピカは湿布の上に手を当て、軽く腫れ具合を確かめた。肌の内側がじんわりと温かくなる。熱いスープが胃の中で熱を発している感触に少し似ていた。スピカが手を離すとその熱は余韻を残して引いていった。

 そういえば奇跡で傷の手当をしてもらうのは初めての経験だ。試しに腕を回すと今度はきちんと回った。痛みもない。

「痛みを抑えているだけだからあまり無理に動かさないでね」

「はい。ありがとうございます」

「素直でよろしい」

「アークエンジェルだと知られて面倒なことって」

「もし知られちゃったら、こんなふうに自由に暮らすことはできないかな。潜在的な脅威として考えた時に、エンジェルとアークエンジェルではまるで重みが違う。アークエンジェルはより厳重に管理されなければならない。軍の上層部も、またこの国の市民・・の多くもそう考えている」スピカは答えた。

 カイは「煉獄」と他の天使たちの監獄を思い出した。

「当然、軍にも言ってないの。だから、頼むわね」

「よかったんでしょうか、聞いてしまって」

 スピカは頷いた。

「彼が私のところに連れてきた時点であなたたちは信用されているのよ。すごく用心深いから、絶対に大丈夫って人しか連れてこないの。あなたたちの場合、それぞれ経歴から考えても体制側につく要素はまるでないでしょう?」

 何も言うことはなかった。きっちり調べ上げていたのだ。



…………



 ドッドッドッドッという震動とともに天井や棚の上からカビの胞子や埃が舞い上がってくるような感じがする。小さな部屋だ。換気も効いていない。舞い上がった粒子は瞬く間に部屋中に行き渡る。キアラは鼻の下に手を当てて大きなくしゃみをした。

「うわっ」とジリファはボーッとしていたのかちょっと声を上げて驚いた。

 およそ10分に一度こんな具合だった。真上が滑走路なのか、たぶん飛行機が通るのだろう。それも10トンや20トンではない。100トン級の巨人機がひっきりなしに発着しているのがレゼだ。その度に部屋全体がガタガタ揺れていた。

 それでもギネイスはよく眠っていた。キアラは1時間ほど眠って震動に起こされたけど、ギネイスの方は十倍くらいも深い眠りの中にいるようだった。何の害も不安もないこの空間によほど安心しているのだろう。雨漏りなのか、壁と天井の隅なんて得体のわからない黒い斑点模様で覆われているし、床材だって半分くらい剥がれている。綺麗とか汚いとかという以前に清潔じゃないのだ。けれど一時的な安全が確保されていることだけは確かだった。

 ジリファは絞ったタオルでギネイスの額を拭って頭を撫でた。「かわいい」と独り言を言っていた。

「かわいいかよ。格上の歳上だぞ」

「キアラも格上の歳上にその口の利き方」

「これはジリファがそうしてって言ったんじゃないか」

 ジリファは首を傾げた。かなりの角度だ。

「自分はあんたより強いわけでも優秀なわけでもないからって」キアラは続けた。

「そうだったかしら。そんな気が……しなくもないけど」

「ふざけンなよなぁ。ジリファが憶えてないんじゃ私ただのチョー失礼なやつじゃん」

「……言うには言ったけど、まさかこんな馴れ馴れしい態度になるとは思わなかった、って思ったかも」

「おいおい」


「でも、よかった」とジリファ。

「何?」

「あなたがまだ私の知っているキアラのままで。もっと心を擦り潰されてけちょんけちょんになっているかと思った」

 キアラはギネイスに目を向けた。ジリファの言う「けちょんけちょん」の例がたぶんギネイスだ。

「私は彼女に救われたことがあるの。オルメト戦役が終わる間際だった。私はエトルキア側の司令官の拉致任務を負っていた。2度目だった。向こうも対策してくるだろうと用心していた。でも相手の方が上手だった。罠だった。塔の中枢部に袋小路を作って、あとはガス。私の力では手足に枷を嵌められたら自分では抜けられない。それに、前線から500キロは離れていた。そこで見殺しにされるのが筋だったでしょう。

 でも彼女はそうは考えなかったみたい。単独で飛んできて、塔の外壁ごとぶち抜いて私を救い出した。そう、全軍の指揮を引き受けた司令官が1人でなんて、あってはならない。軍が動けなくなってしまう。でも彼女はもともと反対していたのね。戦力になる高位の天使こそ前線に出るべきだ、エンジェルの中にも指揮の才能を持った者はいるはずだ、って。私が捕まったと知った時、きっといい加減もどかしくなってしまったのね。そして、結局その選択は裏目に出た。エトルキアがICBMを使ったのはその時だった。拉致してきた敵の司令官が交渉材料になると思っていたのに、エトルキアは予想よりずっと早く動いたの。ギネイスは持論の墓穴を掘ってしまった」

 キアラはジリファとギネイスを順番に見た。

「……本人の前で話すことかよ」

「大丈夫、よく眠ってる。とてもよく眠ってる」

「じゃあ、ギネイスの指揮のミスというのは流言じゃなくて本当だったわけね」

「そう。オルメトにいた天使たちはギネイスの単独行動を知っでいたから、逃げ延びて本国でそう伝えたのも無理ない」

「ふーん、ジリファ、ギネイスに借りがあるんだ」

「そうね。――なのに、こんなにかわいくなっちゃって」

 ジリファがオルメトの経験者だというのは知っていたけど、このエピソードを聞くのは初めてだった。

 本人と直接会ったことのなかったキアラでもギネイスのみすぼらしさには愕然とさせられたのだから、ジリファの受けたショックは比べ物にならないだろう。

 それから5分ほど経って「食事の支度ができたよ」とケストレルが呼びに来た。

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