左上腕骨、右烏骨突起完全骨折、頭蓋骨後頭部、右肩甲骨体部亀裂骨折、左手薬指・小指、第1・第2腰椎、骨盤複雑骨折……。細かいところを数えるとキリがない。X線写真数枚ではまだ見落としもあるはずだ。外傷の具合と現場の天井高から考えて10〜15kg程度の瓦礫が3つ、1〜5kg程度の瓦礫は少なくとも5個ぶつかっていた。それで自分はほぼ無傷だったのだからよく守ってくれたものだ。そう思いながらディアナはシピの頬にそっと手を当てた。もはやどこを触っていいのか判然としない。ダメージの少ない腹側を下にしてベッドに寝かされているものの、骨折箇所を固縛しているのでほとんど宙吊りになっている。止血と最低限の処置は済ませてあるが、整形治療はまだこれから、今は鎮痛剤を打って眠らせているだけだ。効いているのかいないのか、黒くクマになった瞼の下に汗の滴が浮かんでいた。

 命は儚い。追い込まれた命のぎりぎりの灯火が目の前にある。


「ハサミ持ってきたぞ。結局自分の部屋まで取りに戻っちまった」ヴィカが入ってきた。先にシャワーを浴びてきたのか、髪をアップにしている。タンクトップとハーフパンツ。薄着だ。ベッドを見る。「もう終わったのか?」

「まだ。骨折に関係のない傷は先に塞いでおかないと」

「自分でやるのか」

「エトルキアで私より天使の骨格に詳しい医者はいないわよ」

「免許を持ってるのは、だな。あとは闇医者だ」

「訳あって免許を取らないんでしょう。軍の召喚に応じるわけがない。大丈夫よ。きちんと治してあげる」

「ダイ」ヴィカは部屋の真ん中に椅子を置いて背凭れを叩いた。ディアナはシピの頬をもうひと撫でしてから席を移した。

 ヴィカはディアナの肩にタオルをかけて首元を詰めた。切りっぱなしのディアナの髪は長さが不揃いになっていた。長いところは腰まで、短いところは顎下ぎりぎり。下手なテクノカットみたいでそのままでは全く不格好だ。

 ヴィカは長い部分が残っている右側の後ろ髪をまずバッサリ行った。感触だけで真横にハサミを入れたのがわかった。なんだか頭が軽くなったような……。

「ちょっと、今の大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。まずは大まかに揃えてあとで整えればいいんだよ。細けぇことは気にするなって」

「何なのよその勢い。こけしみたいになってたら泣くからね」

 ヴィカは本当に横一直線に髪の長さを揃えているみたいだった。ちょっと面白がってやっているような感じもする。不安だ。ハサミは耳元でジョキジョキと暴力的な音を立てている。確かめたくても下手に動けない。


「この具合だと下手に目が覚めたところでどこもかしこも痛くてたまらないだろうな」とヴィカ。

「今も痛がってるわ。よく息の音を聞いてみなさいよ。時々唸っているのがわかるから。反応が表に出ないだけで、感覚は機能している。酷い夢を見ているでしょうね」

「わかってるんだろうな?」

「何?」

「こいつは一種の拷問だぜ。なんで殺してやらなかった? それとも苦しませたいのか」

 ディアナは少し考えた。

「……そうね、生かしておきたいのよ。この可愛いものを失うのが嫌なんだわ。私が嫌なのよ」

「まあ、下僕なんだ。生きろと言えば喜んで生きるさ。しかし、従順な生き物ってのは難しいもんだな。言うことなんて聞かずに身勝手に生きているなら本人の自己責任で構わないが、なまじっか言うとおりにするものだから言った方にも責任が生じるのさ。要するにこいつは自分の命を体よくお前に預けているわけだ。押し付けていっているといってもいい」

「癪に触る言い方ね」

「事実だろ。まあ、もう少しの辛抱さ。クローディアを上手く使えよ。あいつがアークエンジェルに戻ればそれくらいのケアはしてくれるさ」


 30分前、基地司令のモーリス・ペロー上級大将はディアナがシピの処置を終えるのを待って2人を会議室に呼び出した。他でもない。彼が警務課全体を動かして脱獄の対応に当たらせようとしたのを圧して単独で挑んだのはディアナだ。落とし前をつけなければならなかった。

 ただペローはさほど苛烈な人間ではない。実力主義のパイロット派閥の中を才気と和を以てのし上がってきた老人だ。額から頭頂部まで綺麗に禿げ上がった白髪と小太りでムチムチした容貌にも穏やかさが表れていた。

「予備電源は4基とも正常に作動しているし、原子炉もあと5時間ほどで水を入れられる。念のため午後の航空機整備作業は全て延期したけどね、まあ明日の朝にはスケジュールに戻せるだろう。アークエンジェルの脱獄というのは決して初のケースではない。過去に何度も例がある。それこそ君たちが軍に入る前から年に何件と起きていたことだ。むしろ何年も大人しく電源役をやり続けたゼネラルの方が稀有なケースさ。我々は備えていたし、その備えは正常に作動した。この数年起きていなかった事態だが、起きるかもしれなかったことには違いない。想定の範囲内だ」

 ペローはあえて責めなかった。自責を促しているのだ。優しいが、ある意味性格の悪いやり方でもある。

 それともベルノルスの名を畏れているのではないか? いや、それだったらもっと腰を低く、慇懃で卑しい態度になるはずだ。そういった輩の例には事欠かない。

「対応を申し出たのは私の方です。必ず捕らえると約束し、それを果たさなかった。申し訳ありません」

「私もそれを信用したよ。過信はしなかったがね。内輪で揉めるより先のことを考えようじゃあないか」ペローは机の上に置いたファイルに手を乗せて少しばかり自分の方に引き寄せた。「君の部下は優秀だよ。脱獄に手を貸したアークエンジェルの素性をもう上げてきた」

ジリファ・エクテ聞き耳のジリファ」とディアナ。

「ほう。知っていたね」

「自分の体だけでなく身の回りの物体を選択的に不可視化することができる。その能力には心当たりがあります」

 ペローは頷いた。「オルメト事変の最中に2度に渡って派遣軍司令部に忍び込み、のベ17名を殺傷、うち2名は拉致監禁の上に殺害された。数の上では17の尊い命に変わりないが、我が軍の指揮系統に与えたダメージは計り知れない。ゼネラルが最前線の兵力に与えた損害に匹敵すると言っても過言ではない。戦術家の欠員は今なお尾を引いている。停戦協定の内容によっては重大戦犯として裁かれていてもおかしくはなかっただろうね」

「戦争をやるってことは殺される覚悟をするってことさ。それを頭でっかちの連中に教えてくれた、ある意味じゃあありがたい存在ですよ」

 「ケンプフェル」ヴィカが口を挟むとペローはすかさず諭した。

「エクテのバックについては今のところ確証はないが、ラゾワールカミソリを助けに来たんだ、天聖教会と考えていいだろう。その辺りの資料は用意した。ぜひ活用してこのあとに活かしてもらいたい」

「このあと?」とヴィカ。

 ペローは頷いた。

「ケンプフェルは本日をもって休暇辞令を解除、特務部隊S51の編成を命じる。ベルノルスは副官としてケンプフェルを補佐、人員はガルド及び警務隊より40名まで自由に選定して構わない。本日1300時より48時間以内に態勢を整えろ。魔術院とよく協働して、脱走したアークエンジェルの確保に当たれ。この命令については軍令部総長権限において事後議決とする」

 ペローが手元のファイルから辞令を2通取り出したのでディアナとヴィカは一度立ち上がって受け取った。

「ありがとうございます」ディアナは礼を言った。48時間あればシピの治療を済ませられる。

「何が?」とペロー。

「時間の猶予をくださったことです」

 ペローは首を傾げた。ヴィカも何も言わなかった。

「まあ、協働と言っても内務だ。実質魔術院の方に優越権があるのは折り込み済みで頼むよ」


「ほら、できたぜ」ヴィカは櫛を置いて手鏡を渡した。

 ディアナは手鏡に自分を映して顔を右に向けたり左に向けたりする。首に手を当てると髪の薄さに愕然とする。こけしっぽいといえばこけしっぽいけど、悪くないといえば悪くない。時間が経てば毛先も落ち着いてくるだろう。

「皮肉ね」とディアナ。

「何が」

「散々天使たちの髪を切ってこの髪型にしてきたツケが回ってきたのね、と思って」



………………



 全身に負った貫通創はすでに塞がっていた。でもまだ肌の内側に切り傷が残っているみたいな違和感があった。傷跡の部分を伸ばすと妙につっぱる。奇跡は傷を消すことはできる。でも神経や痛覚の作用まで消すことはできない。鎮痛アナージェスはあくまで抑えるだけだ。

 キアラは自分の体を鏡に写して全身くまなく確かめていた。痩せたな、と思う。どうりで力が出ないわけだ。肉付きも自分の奇跡ではどうしようもない。容姿に干渉する力があるくらいならとっくに上位の天使になっているはずだ。

 それにしても汚い鏡だ。全体が斑模様だし、角のところに錆びが入って真っ黒になっていた。2年くらいドブに漬けてあったんじゃないか。映った景色はまるで銀塩写真だった。


 公会堂、といったか、要するにブンドのアジトだが、どこもかしこもそんな汚さだった。長い間汚れるがままに放っておいた汚さというより、いくら掃除をしても拭い去れない傷の蓄積といった方がいいかもしれない。本来なら節目節目でまるごと新しくするべき建具や調度がどういうわけか延々と使い続けられているのだ。そういうみすぼらしさだった。具体的に言えば、鉄製の階段は錆に食われて踏み板がもとの半分くらいの面積になっていたし、天井という天井は軒並み板が落ちて垂木やダクトが剥き出しだった。何より、十分な電気が来ていないのか、どの照明も明るいと感じられるレベルの1/10くらいしか照度がなくて、そのせいで何もかも10年分くらい薄汚れて見えるのだ。

 ホイストはちょっとした空中桟橋のような構造体に取り付けられていて、公会堂というのはその袂に設けられたカマボコ型の空間だった。天井の骨組みは大きなクジラの肋骨を思わせた。側壁に開いた巣穴のような通路が天使たちの住処に繋がっているのだろう。

 行き場を失ったのか、あるいは別の島から辿り着いたばかりなのか、壁際に寝転がっている天使も目についた。手前に祭壇があるので一応教会の機能を持った施設なのだろう。教会建築としての様式をまるで押さえていないので「だろう」としか言いようがない。インレのかっちりした感じとはまた違うけど、ここも息が詰まりそうだ。キアラは到着して早々からそう感じていた。


 出迎えたのは人間だった。男だ。白っぽいカールした髪、ツヤっとした余計なもののない顔立ち。まだ10代半ばに見えたけど、物腰は見かけよりずっと落ち着いていた。というか心持ち「上から」なのだ。

 ギネイスは早速ジリファの背中を掴んで後ろに隠れていた。

「掴まないで。羽根が抜けてしまいます」

 キアラのことは庇うくせにジリファなら盾にしてもいいと思っているみたいだ。その不公平はどこから出てくるのだろう?

「ようこそブンドへ。僕はケストレル。みんなにはそう呼ばれている」彼はいささかサイズの大きなワイシャツの裾を紺のチノパンのウエストから出して着ていた。

「人間?」とキアラ。

「そうさ。天使の組織のトップが人間じゃおかしいかな。その気持ちはわからないでもない。でも、僕の組織、人間の組織ということにしておかないとこの島までは何かと不都合なんだ。いくら最下層の下でも天使が天使だけでやっていけるほどこの島も甘くなくてね」

「あなたの名義があるから摘発を免れている、と? 名士か何かなの?」今度はジリファが訊いた。

「いや、僕自身はブンドの首班という以外特に何者というわけでもないんだ。ただ、家の名前があってね。エトルキアというのはそういう社会なんだよ。だからこそ――家柄だけで自分自身には何もないからこそ、僕はブンドのためになろうとしたんだよ」

 ケストレルは公会堂を奥へ進み、右手の通路に潜り込んだ。すれ違うにはどちらかが立ち止まって端に寄らなければならないレベルの細さだ。

「この島の市長はなかなかの堅物でね、軍や魔術院といえども街中でのさばるのは許さない。1日くらいは持たせてくれるはずだよ」

「面識が?」ジリファは訊いた。

「いいや。決して僕らの味方というわけじゃないんだ。相手が何であれ、島の秩序を乱すものは敵さ。僕らが暴動でもやれば矛先は途端にこちらを向くだろうね。このぎゅう詰めの島をやりくりしているんだ。それくらいの心構えでなければやっていけないよ」

「頼れるわけじゃないけど、利用はできる」

「そうそう」

「人間がわんさかいるからこそ天使の聖域としても機能しているって、皮肉だな」キアラは呟いた。


 通路は一度外気に出てすぐまた穴蔵の中に戻る。全体が吊られているだけなのか。心許ない構造だ。

「1つ聞きたいんだけど、ブンドというのはエトルキアでの定住を支援する組織でしょう? サンバレノへの帰還の斡旋は」とジリファ。

「いや、しているよ。あえて勧めてはいない、というだけで。サンバレノでも、エトルキアでも、住みたい場所に住めればいい。それがブンドの思想の本質さ。そのために僕たちは『留まる』という行為で抗い、主張している。大丈夫、君たちのことは必ず送り出す。まずは、お疲れ様。ひと眠りするといい」ケストレルは通路側面の扉を開いた。

 天井の低い狭い部屋の中にタンスとベッドが押し込まれている。角の黒くなった姿見は手前の壁に立て掛けられていた。

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