二重の苦痛
詰襟の制服は思いのほかクローディアに似合っていた。彼女は戸口に立ち止まってちょっと手を広げて見せたあと、ディアナに促されて私服の入ったズックとスニーカーをカイに預けた。ジャンパーが入っているので嵩張るけど、大した重さではない。
ディアナの先導で居住区のある中下層まで上ってきた。非番の兵士たちが廊下を歩き回ったりユーティリティスペースで談笑したりしている。一行が通りかかると彼らはちょっと怪訝な目でクローディアに目を向けたが、まあ、たまにはそういったこともあるのだろう、自分には関係のないことだ、といった感じで自分たちの活動に戻っていった。本当に無関心だ。翼を剥き出しにしてもその程度の反応、特に不快に感じることもないような反応ばかりだった。
部屋は2人部屋が2つだった。ゲストルームなのだろう。ホテルのような造りで、個室の中にきちんとトイレとシャワールームがついていた。
「出歩きたい時は8805にかけなさい。私の部屋の番号。電話機はそこにあるから」ディアナは戸口に立って寝室のカウンターテーブルを指差した。
「はい、中佐」とクローディア。
「夕食は一緒にとりましょう。呼びに来るわ」
ひとまず一方の部屋に3人で入って扉を閉めた。ラウラはその場に荷物を下ろして30秒ほど待ち、一度扉を開けて廊下の左右を確認した。それからまたドアを閉め、手帳を出して「何か考えがあってオペを渋った?」と書きつけてクローディアに見せた。
「いいえ、本当に迷っているの」クローディアは食い気味に声に出して答えた。
「そうかい」ラウラも声に出した。もしディアナとヴィカに対して裏表をつけているのだとしたら隠しておくべきだと思っていたわけだ。要は盗聴されている前提なのだ。2人とも相当警戒しているな、とカイは思った。当然だとも思った。
「私とクローディアがこっちの部屋でいいかい?」ラウラが訊いた。
「ごめん、カイと一緒の部屋でもいい?」とクローディア。
「えっ」カイは驚いた。
「なるほど。男女ではなく少年少女と大人で分けるかね。そいつはすまなかったね」
カイはドギマギして上気するのを自覚した。けれど浮ついた気持ちは波のようにすぐに引いていった。
クローディアはラウラのことも信用していないのだ。ラウラはたぶん隠し事をしている。ラウラ自身それを察したから「すまなかったね」と言ったのだ。
ラウラは荷物を持ち直して部屋を出ていった。扉が閉まる。
クローディアはしばらく扉の裏側を眺めたあと、おもむろに軍帽を取ってちょっと見下ろし、シューズラックの上に置いた。それからやや倒れ掛かるような具合でカイの胸に額を押し当てた。カイはその勢いで後ずさりして壁に凭れかかった。あまり前兆がなかったので戸惑ったけれど、クローディアの背中に手を回した。羽根がざわざわと膨らんで息が荒れてくるのを感じた。
「ディアナの言った通り。私だってわかってるの。他の天使のことなんか考えてる時じゃない。なのに、どうしても決められなかった」
カイは顎の下にあるクローディアの頭を撫でた。
面会室からこの部屋へ歩いてくるまで彼女はとても毅然としていた。でもそれはディアナにそうしろと言われたからであって、心の中ではきっと思い詰めていたのだ。
「いつの間にかすごく繊細になってる。私、こんなんじゃなかったはずなのに、どうしたんだろう」
「おかしくない。この国は天使に酷い扱いをしている。彼女に罪はない。たとえ君のためでも無理やりに命を奪われていいはずなんかないんだ」
「手術を受けるべきではないと思う?」
「それは……」
どっちなんだ?
自分のことじゃないって、彼女が全部自分の責任で選べばいいと思っていたのか?
カイは答えを用意していなかった自分自身に憤った。
「ごめん。ナンセンスな質問だった。命の選択に白黒つけないのはあなたのいいところよ」クローディアは少しだけ目を上げてカイの背中を撫でた。
「本当に彼女を殺すしか方法がないんだろうか」
「彼女、きっととても高位の天使よ。位が職務に直結するサンバレノで軍隊の司令官なんて。エトルキアにとっては、サンプルとしても、政略的なカードとしても価値がある。みすみす死なせたくはないでしょう。それを潰してでも私の奇跡を回復しようというの」
「……手術は受けないと言って簡単に帰してもらえるなんてことはなさそうだね」
「初めからそのつもりもなかった。大丈夫、何とか踏ん切りをつけるから」
クローディアは離れて目尻を拭い、部屋の奥へ入りながら髪を整えた。
自分に何ができるだろう。カイは背中を壁に預けたまま考えた。左手に軍帽が当たる。拾い上げて頭に乗せる。クローディアの頭に合わせてあるので深く被ろうとすると窮屈だった。
ここは人間の国だ。天使より人間の方が動きやすい。魔術院と確執のあるラウラよりただの付き添いの自分の方が動きやすい。
何をしていいかわからない時は、結局、目の前にあるものを手に取るしかない。
「僕らが今どういう状況に置かれているのか、ディアナやヴィカから聞けるだけのことは聞いてみようと思う」カイは言った。
「行く?」クローディアはジャケットを肘まで下したところで訊いた。
「たぶん1人の方がいい」
カイは内線電話で8805を呼び出した。初めて見る電話機だけど、工場にも同じようなものはある。使い方は大丈夫だ。
「さっそく掛けてきたわね」ディアナの声だ。
「天使の監獄を見てみたいんです。勝手に行ったらまずいだろうなと思って」
「あら、カイくん?」
「はい」
「……そうね、いいわよ。南側のエレベーターの前で待っていてくれる? 5分くらいで来られるかしら」
「はい」
「じゃあ、
別にこっちは急いでるわけじゃない。後ろに何か予定があるのだろうか。とにかく電話は切れた。
クローディアはベッドの上でストッキングを脱ごうとしていた。スカートの下から引っ張っているから脱ぎにくそうだ。男がいると邪魔かもしれない。
「行ってらっしゃい。少しお昼寝するわ」
「うん」
カイは隣の部屋の扉を叩いてラウラに声をかけた。いつの間に脱いだのか、彼女はすでに黒いキャミソール1枚になっていた。
「少し出歩いてくるのでクローディアの方に居てもらってもいいですか」カイは目のやり場に困りながら訊いた。
「ふふん、追い出したり子守りを頼んだり、忙しいね」
「すみません」
「いや、今のはギャグだよ。君たちのためにここへ来たんだからね、気にすることはない。うん。いくらか暇潰しを用意してから移るよ」
「頼みます」
カイは南側のエレベーターホールへ向かった。ディアナはまだ来ていない。部屋の隅で待っている間に2,3組の男たちが通り過ぎたりエレベーターに乗って行ったりした。ほんの2分くらいのことだろう。上から降りてきたケージが開いてディアナが手招きした。他に乗客はなかった。
「監獄でいいのね?」
「キアラもこの島にいるんですか」
「キアラ……淡い赤毛の子?」
「はい」
「会いたい?」
「会えるなら」
ディアナは額に指を当ててちょっと考えてから、光っているボタン――88にその指を伸ばした。2回押し、次いでB、00と順に押した。88の光が消え00が点灯している。B00が行き先だ。
「基底部?」
「ええ。彼女はそこにいる。さっき見てもらったギネイスも一緒。――そう、あなたは確かキアラに人質に取られたのよね。ヴィカの報告で読んだわ」
「そんな記録が出回ってるんですか」カイはちょっと恥ずかしくなった。人質なんて、公式文書に載るにはかなり不名誉なパターンじゃないか。
「ああ、いえ、報告書そのものには名前は載ってないわ。ヴィカが話してくれただけ」
「……それなら、まあ」
「キアラをここに連れてこられたのはあなたのおかげよ。クローディアがトドメを刺そうとしたのを止めてくれたんでしょ?」
「いえ、俺が優柔不断だっただけです」
ケージはぐんぐん降下していき、扉が開いた。目の前がエアロックだった。やけに暗くて狭苦しい空間なので降りるのを躊躇してしまった。
ディアナは壁にかかったフィルターマスクをひとつカイに渡した。外に出るのだろうか? ともかく上からかぶり、鼻梁の形にぴったりと合わせて密封する。頬の部分に丸いフィルターがついていて、息を吐くと弁が作動してシュコーっと機械的な音がした。
「準備、いい?」同じようにマスクをつけたディアナの声はかなりくぐもって聞こえた。黒くて真ん中に排気口があるのでマスクをするとかなり人相が悪くなる。
カイは頷いた。
エアロックを抜けた先は鳥籠のようなスペースになっていて、ディアナが壁のボタンを押すと折り重なっていた柵が上下左右に開いていった。
「この柵は魔術で強化してあるから奇跡を使っても破られることはないわ。天使の捕虜が200人と言ったけど、奇跡を使う天使はその中でもほんの一握り。奇跡って厄介なのよ。拘束も薬剤も効かないケースが少なくない。適当な設備ではすぐに破られてしまう。囲っておけないの。それを何とか実現したのがこの層。ここは奇跡を使う天使のための牢なの。それでも体力のある天使を閉じ込め続けるのは難しくて、どうしても弱らせておかなければいけない。現に、キアラをここへ連れてくる途中にも鎮静剤が予定より早く切れて暴れて、警護兵が1人死んでしまった」
広大な基底部の全体が藁敷きになっていて、心なしか鳥小屋のような、何かが乾いて発酵したような匂いがした。清潔な環境ではない、と感じた。
ディアナはハイヒールでその中へ踏み込んでいく。右手の発電塔の手前で何かがびくりと動いた。ギネイスだ。酷くおびえた様子で被っていたブランケットを体に巻き付けた。まともかどうかは別として面会室で見た時よりアクティブな反応に思えた。さっきは鎮静剤でも打たれていたのだろう。
「いたわ」ディアナはギネイスの方を指差した。キアラはギネイスの足元に横たわっているようだ。
2人が近づいていくとギネイスが後ずさりしてキアラを一緒に引っ張っていこうとした。何かされると思っているのだ。
「ギネイス、大丈夫よ。また上に連れていこうっていうんじゃないの。この子がキアラに会いたいって言うから連れてきただけよ」
ギネイスはちょっと迷ったような反応を見せたが、キアラを引き摺るのはやめなかった。
「言うことを聞きなさい。痛いのは嫌でしょう?」
ディアナがそう言うとギネイスはさすがに動きを止め、キアラを離して自分の手をブランケットの中にしっかりと隠して丸くなった。
キアラは面会室で見たギネイスと同じような状態だった。羽根は切られ、短くなった髪は座敷童のようにボサボサ、目は虚ろ、干物のようになった唇からスースーと音を立てて空気が出入りしていた。
予想していたのとあまり変わらない姿だったけれど、それでも実際に目の前にするとさすがにおぞましい感じがした。あの苛烈な性格のキアラがこうなってしまうのだ。ギネイスの場合はもとの状態を知らなかったけれど、変わりようをありありと目にしてしまうとまた一味違ったインパクトがあった。
「キアラ、カイ・エバートだ。憶えてないのか?」カイはしゃがんでキアラの目の上に手を翳した。なぜだろう、触れるのは躊躇われた。
キアラの目は手の動きを追っている。ただその人間が誰なのかは認識していないようだった。
カイはマスクの簡易フラム計に目を落とした。グリーンゾーンの中間。外しても問題ない。
「キアラ、わかるか」マスクを外してもう一度呼びかける。
すると漫然と唇が動いて「カイ……?」とかすかな声が出てきた。
その時にわかにサイレンが鳴り始めた。
「カイくん、出ましょう。時間が来てしまったわ」
キアラが飛び起き、カイの手を跳ねのけるようにして発電機へ走っていった。肉体の疲労や衰弱など関係ない。条件反射的な動作だった。
「一体……」
「この島は死んでいるの。発電に足るだけの地熱が得られないの。それを天使の力で持たせている。もともとギネイス1人で担っていたのだけど、このひと月はキアラも頑張っている。かわいそうだけれど、エトルキア軍の中枢たるこの島の存続と、捕虜として価値のあるアークエンジェルを篭絡しておくという2つの目的が悲劇的に組み合わさってしまったのよ。この場所は『煉獄』と呼ばれている。嫌なものを見せたわね」ディアナは説明した。
カイが発電機に近づいていくとキアラは霞んだ目を凝らして「なに?」と言った。近寄るな、と言われているみたいだった。明らかにこちらを認識している。休んでいる時よりキツイことをしている時の方が意識がはっきりしているのだ。それもまたいたたまれなかった。
カイはそれ以上近づかなかったし、声もかけなかった。
「彼女はいつまでここにいるんです?」カイはディアナに訊いた。
「わからない。決まっていないの」
「無期限」
「ええ。残念ながらキアラの血はクローディアには合わなかったけれど、彼女がここへ来たことでギネイスがドナーになることができる。もしキアラがいなかったらクローディアの治療は進められなかったわ。カイくん、あなたはアイゼンでキアラをクローディアから守った。あなたの行動は間接的にクローディアのためにもなっていたのよ」
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