囚われ天使の諸相
「気は済んだ?」エアロックの中でディアナが訊いた。
「初めに連れて行こうとしていたのは奇跡を使わない天使の牢ですよね?」カイは答えた。
「そっちも見たい?」
「はい」
ディアナは頷いた。
「二つ返事で見せてもらっていいものなんでしょうか」
「あなたが見たいと言ったから。決して積極的に見せびらかしているわけではないでしょ? クローディアにも言ったけど、やったあとで禍根の残るようなやり方はしたくないのよ」
マスクを外してし消毒用のラックにかけたあと、ディアナは自分の髪を直し、カイの頭に手を伸ばした。
カイがちょっと身を引くと「後ろのところが乱れているの」と言う。
後頭部に彼女の指が当たり、何度か撫でつけるように動いた。
「綺麗な髪の色ね」
「そうでしょうか」
「綺麗な灰色。薄いんじゃなくて、きちんと色が入っているのね」
「そういう表現は初めてです」
「ほら、目の色だってターコイズみたい。人間というより天使の色よ。これから行く牢にもあなたに似た目の天使が何人もいるわ。確かめてみて」
褒められて嬉しくないではなかった。でも喜んではいけない気もした。食虫植物におびき寄せられる虫の気分、というのが近いだろうか。
禍根を残したくない、というディアナの言葉はとても真摯に思える。でもそれは戻るに戻れないところまで誘い込まれているだけなのかもしれない。君は秘密を知ってしまった、もうただでは帰せないよ。そんなふうに。
拒絶して距離を取るのはたぶんまだ難しいことじゃない。でも今はむしろ懐に入り込んだ方がクローディアの役に立てるんじゃないだろうか。
考えている間にケージが止まった。見たことのある景色、面会室と同じフロアだ。廊下の奥が天井まである太い柵で仕切られていて、その先が監獄になっているようだ。
ディアナは守衛室の分厚い窓にアイコンタクトをとってロックを開けさせた。
牢は静かだった。天使たちは3,4人の相部屋に分かれて本を読んだりテレビを見たり思い思いに過ごしていた。基底部に比べればずっとマシな環境のようだ。ただ廊下向きの壁は柵に置き換えられているのでプライバシーはない。あとは全員お揃いの水色の服を着せられていた。
天使たちは2人が柵の前を通っても特に話をやめたりはしなかった。まして挨拶もない。ちょっと目を向けて自分たちにとって有害な人間なのか無害な人間なのかを判別しているだけだった。
たくさんの目が向けられる。そのせいでなんだか自分の方が監視されているみたいな気分だった。確かに白や金など髪の色が淡く、青い目の天使が少なくなかった。年齢層は若く、10〜20代、30歳を超えている天使はほとんどいないように見えた。単に見かけがそう思わせるのではなくて、生活態度みたいなものがどうも若々しいというか、良くも悪くも少女的なのだ。天使たちは閉じ込められている。でもその中で小さな社会を形成して気ままに生きているように見えた。
「彼女たちは何のためにここに囚われているんです? 労働でくたびれているという感じじゃない」
「そうね、労働力としては使いづらい。塔という機械の自立性、完結性というのは凄まじくて、人の手を必要としないでしょう。兵器や弾薬の製造は塔外の生産品だけど、それでも少人数で操業できるようにオートメーションが高度に進んでいる。機械の面倒を見る職人は必要だけど、頭数だけの素人には付け入る隙がない構造なのよね。兵器に触らせるわけにもいかないし、軍服の検品とか、その程度よ、与えられる仕事なんて。幸い衣食住の提供にもコストはかからないけれど、産業的に行使しようとしたらとても低生産なの。意味があるとすれば、天使の研究と、何より、一番大きいのは交換材料ね。エトルキアとサンバレノは時々小競り合いをやっていて、どうしても捕虜を取られる。そういう時にこの子たちの中から何人、誰々というふうに選んで交渉に持っていくの」
「捕虜交換」
「ええ。だからこの子たちとしてはエトルキアとサンバレノが戦って、できるだけサンバレノが有利な状況で停戦に持ち込めると美味しいのね」
「実際?」
「残念ながら、どちらかといえば増えているわね」
「でも入れ替わりもあるってことですね」
「そうね。向こうも拘束期間の長い子を優先的に指名してくるから」
なるほど、と思った。経験の浅い若い天使の方が捕まるリスクが高く、送還は年功序列。年齢層が低くなるわけだ。
「要するに、彼女たちはただここに居るべくしてここに居る」カイは言った。
「その通り」
ちょうど左手に灯りを落としている部屋があって、3人のうち2人までは薄いベッドの上で眠っていた。もう1人は柵に背中を預けて廊下の明るさを頼りに本を読んでいた。
「ねえ」とカイは少し屈んで小声で呼びかけた。
「何?」彼女は声より手元に落ちた影に反応して振り向いた。淡い真鍮色の髪と淡い水色の目。透き通るような色彩だった。
「ここの生活って苦痛じゃない?」
「あんた誰?」
「カイ・エバート。ルフトの方から来たんだ」
「人間が持ってくるのはロクでもないものばかりだ」天使は値踏みするようにカイの顔と足を交互に見たあと、突ッ慳貪な態度のまま本に目を戻した。拒絶だ。
「べつに大した質問じゃない」カイは諦めて上体を起こした。エトルキアが天使を差別している代わりにサンバレノは人間を見下しているのだ。捕虜が人間にいい感情を持っていないのは当然だった。
「人間は恐いけど、この部屋の中にいる分には気楽でいいよ。口うるさい威張りんぼのアークエンジェルもいないからね」天使は本に目を落としたまま小声で言った。
「人間は恐い?」
「何週間か前までそこのベッドにも1人いたんだ。連れていかれちゃった。一番若かったのにね。だからたぶん送還じゃない」
実験だ、とカイは察した。
確かに収容環境は悪くない。でもただそれだけだ。
監獄の通路は回廊になっていて、いくつか角を曲がった先に入り口にあった柵が見えてきた。
「十分?」ディアナは訊いた。
「ええ、はい」
「カイくん、よかったら私の部屋に来ない? すぐに戻るとか、30分くらいとか、クローディアと約束していなければ、だけど」
「いいえ」カイは答えた。ディアナから誘ってくるのはちょっと違和感があった。「でも、積極的に見せびらかしたいものがあるってことですか?」
「そうね。まあ、そんなところ」ディアナは可笑しそうに答えた。
「……うん、いいですよ」カイはさっき考えていた食虫植物のイメージを思い出しながら答えた。
「おつかいを頼まれているの。
酒保というのは売店のことで、生活用品・加工食品のほか、塔から直接供給される生鮮食品もいくらからストックしていた。自分で個別に注文すると多少待たされるから、その方がものを見てすぐに手に入れられる分便利なのだ。
ディアナはネギと卵をもらって、そこからは階段で部屋に向かった。88階。かなり中層に近いフロアだ。
「おかえりなさいませ」
扉を開けた先でメイドが待っていた。彼女はお辞儀をしながらも伏せた目をできるだけ上向けてカイの存在を確認していた。
「シピ、ご挨拶を」
「はい。ディアナ様のハウスメイド、シピと申します」
メイド、と言う割にシピは和装だった。赤い着物に黒い袴、帯は紫、編上げのショートブーツ。彼女は袴とエプロンを持ち上げて洋式に挨拶した。髪はショートボブで、灰色の髪に水色の目をしていた。翼もやはり灰色だった。天使だ。
「こちらカイくん」
「カイ・エバートです。よろしく」
ディアナは簡単に紹介を済ませてシピにネギと卵のパックを手渡した。
「ありがとうございます」
「おつかいってそういうことですか」
「ディアナ・ベルノルスの小間使いを襲おうなんて考えなしもいないでしょうけど、知らない人間は知らないから。外の用はやらせないようにしているの。――シピ、カイくんにお茶を。私は着替えてくるから」
右手に折れた廊下の先がリビングで、かなり広い作りになっていた。その一部屋だけでもゲストルームの倍くらいの面積がある。何より壁一面に窓が嵌められていて外の景色を見ることができた。普通の島なら珍しくもないけど、軍事島では窓があったとしても耐圧を考慮した丸くて小さなものがせいぜいのはずだった。いかにも高級士官用の官舎らしかった。
シピがテーブルの椅子を引いてくれたのでそこに座って、彼女が紅茶を用意するのを眺めていた。畳んだ翼は腰の高さまでしかなく、飛べないように羽根が切ってあるのがわかった。でもよく手入れしているようで、光が当たるとまるで金属のような光沢が見えた。身だしなみと品格は監獄の天使たちとは一線を画している。
シピはカイの前に金縁のティーカップを置き、ポットから紅茶を注いだ。白い底に渋みのある赤が映えた。高級なもてなしを受けている。そう思うと少し緊張した。
彼女は向かいの席にも同じようにカップをセットして、それからテーブルと壁の間くらいの位置まで下がって姿勢を正した。
「シピ、君は飲まないの?」
「あ、はい」話しかけられたのが意外そうな反応だった。「それがメイドというものです」
「そう……」
「ひとつ訊いても?」
「うん?」
「あなたはエトルキアの人間ですよね?」シピは訊いた。言葉少なでかなり大人しい喋り方だった。
「俺の島は海の向こうの東の辺境にあるんだ。軍の行政機関もないし、しばらく前まで天使を見たこともなかった。差別感情はない」
「そういうことですか」
「君はサンバレノ出身?」
「はい。5年前に捕虜になり、収容所でディアナ様に選ばれました。メイドに、と」
「救われた、とは思わないんだね」
「思います。外に出られないのは同じですが、暮らしはずっと快適です。死や暴力からも守られています」シピは首を横に振りながら答えた。言葉と動きが一致していないように思えた。たぶんディアナに聞かれてもいいようなことしか言わないように気をつけているのだろう。
カイは窓に目をやった。シピも窓を見た。外の景色が見える。シピは出歩けない。出たとしても、飛べる翼じゃない。その景色は慰めなのだろうか。それとも精神的な拷問なのだろうか。
間違っている、と思う。でもそれはタールベルグの価値観だ。ここはインレ、エトルキアのど真ん中なのだ。それがエトルキアの価値観なのだろう。
ディアナが着替えを済ませて入ってきた。キャメルのセーターにダークグレイのセミロングスカート。手袋の類はしていない。いたって普通のラフな格好だ。ただかなりタイトなセーターで、軍服の時より倍くらい胸が大きく見えて目のやり場に困った。
「やけに静かね。何か話していなかったの?」とディアナ。
どちらに訊いたのかよくわからない質問だったけど、立場的に自分が答えるべきだろうとカイは判断した。
「シピももとは捕虜なんですね」
「そうね、オルメト事変のあと。捕虜のままで個人のものにするわけにもいかないから、もう交換の話が来てもサンバレノには戻れないわよって話をしたわね」
カイが目を向けるとシピは頷いた。事実のようだ。
「サンバレノから交換の指名が来たら?」
「ありのまま。この天使はエトルキアに帰化しましたって答えるわ。向こうからしてみれば裏切りだから、もともと捕虜送還が好意的に受け止められていないのを差し引いたとしても、その答えはあまりいい受け取られ方はしないでしょうね」
そう考えるといくら環境がよくなるからといってメイドの仕事に飛びつく天使もいないだろう。シピも大きな決心をしたのかもしれない。
ディアナは向かいの席に座って紅茶を飲んだ。カイは結局ディアナが来るまで紅茶に手をつけていなかった。
「ディアナ、あなたの仕事は天使の研究なんですか」
「そうね。所属としては警務隊といって、要は|MP(ミリタリー・ポリス)なのだけど、半分医大の職員みたいなもので、研究メイン」
「あなたとしてはクローディアが奇跡を回復できるのかどうか知りたい?」
「そうね。結果次第でいろいろなことがわかると思うわ」
「彼女の奇跡がどういうものなのかは知っているんですか?」
「そうね、強力な光線系の術、というのは聞いたことがあるわ。もちろん直に目にしたことはない。彼女を見たという天使たちからとった事実か嘘かわからない証言頼みだし、おそらく戦闘向けの術しか情報が上がってこないのだろうけど。カイくん、あなたは何か聞いていないの?」
「光を操る奇跡、というのは言っていました」
「ああ、そうね。彼女が撃つ時、辺りが暗くなった、という証言もあった。瞳孔が締まったせいだと思っていたけど、太陽光を捻じ曲げているのだとしたら道理よね」
「でも俺も詳しくは聞いていない。俺が殺しをよく思っていないのを知って気を遣ってるんだと思います」
「そう……」
「エトルキアが彼女を欲しがるとすれば、彼女の奇跡に理由があるんじゃないかと思ったんですが」
「私は研究目的」
「ヴィカはどうです。あなたなら付き合いも長そうだし」
「魔術院からの親友なの。でも仕事ではあまり絡む機会がないのよね」
「親友」
「え、そう見えない?」
「見えますよ、大丈夫」
「大丈夫?」
いけない、いけない。余計なことを答えるのはやめよう。
「ヴィカもクローディアの治療に積極的みたいだけど、研究目的ではないですよね」
「そうね……。彼女もわかりにくいけど、たぶん手柄を上げたいんでしょう。煉獄で見てもらった通り、アークエンジェルの力はこの国の手に余るわ。もしかするとクローディアなら私たちにも制御できるアークエンジェルになってくれるかもしれない」
「制御」
「いい表現じゃないわね。つまり、交渉次第で望んでエトルキアのために力を使ってくれる天使、ということよ。煉獄では強制的すぎるし、純粋なサンバレノやルフトの天使では反エトルキア感情が邪魔してしまう」
「クローディアも十分反感を抱いていると思いますけど」
「そうね。それでも他に比べればまだ可能性があるってところじゃないかしら。」
つまりクローディアとサンバレノの敵対関係を利用できると考えているのだろうか。もしかすると対サンバレノ戦力として使うつもりなのかもしれない。そこまで考えが至ったけど、口に出すのはやめておいた。それを言ってしまえば決定的に意見が食い違ってしまうはずだった。
「いずれにしても、納得してもらいたいというのはそういう意味。自分で決めてほしいのよ。クローディアにも、あなたにも」
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