ガラスの向こうの天使
「そもそもだけど、脱換治療が有効だという根拠は得られたのかい?」
ラウラが訊いた。呆然とした沈黙を破ったのは彼女の質問だった。
「私が調べた頃は奇跡は神経系をエネルギーパスにしているという考え方の方が主流だったね。なぜそれが血液によって阻害されたりされなかったりするんだろう」
「そうね」ディアナは頷いた。「つい最近まではそうだった。きっと『魔術と奇跡は違う』という先入観が始点にあったからでしょう。クローディアのケースがとても意味深い研究材料になったのよ。パスの問題はひとまず置いて、実際的に、輸血によって影響が生じたのだから、原因は人間の血液にある、ということになるわ。輸血した彼女の血液も調べたけど、人間として至って普通だった。人間と天使の血中成分の差はごくわずか。赤血球量の平均が多少異なる程度で、あとは血中魔素の存在くらい。したがって、奇跡を回復するために考えうる最善の方法は血中魔素の除去であり、魔素の除去には今のところ脱換しか方法がない。魔素が微小すぎてフィルターにはかけられないから」
「血中魔素が奇跡に干渉する、というのはどういう理屈なのかね」
「そこに関してはまだ確かなことは言えないわ。定常時の血中魔素が外部に与える作用といえば、常に微弱なベータ線を放射していることくらいしか考えられない。ベータ線って、要は電磁波の一種ね。人間が年がら年中浴び続けても問題ない程度の線量だし、それが何らかの形で奇跡に影響するとすれば、その強度からして同じ血管内で作用しているとしか考えられない、という結論に至ったのよ」
「でも血中成分にはほとんど差がない」
「そう。そこが不思議なのよね。今の研究レベルでは説明がつかないのよ。高度な魔術と同じくらい科学的に謎なの」
体重測定、心音測定、血圧測定、エトセトラ。ディアナは簡単な診察を全部自らやって、最後に採血に取り掛かった。ジャンパーを脱いだクローディアの肘の内側をアルコールで消毒して、静脈めがけて浅く針を刺す。
採血用の太い針から透明な管を通りシリンダーの中に静脈血が溜まっていく。
「自分のために1人の天使が死んでいく。そんなのいたたまれないという顔をしているわね」ディアナは訊いた。「あなたを国の外に追い出した天使たちの一分なのよ。情けをかけてあげる必要なんてあるのかしら?」
「ない。ないけど、ねえ、その天使に会うことはできる?」
「普通の移植手術ならドナーの情報を患者に与えることはない。なぜって、そんなことしたら移植された相手の一部に責任を感じてしまうでしょう。相手を知ればあなたがここへ持ってきた決心はほぼ確実に弱まると思う。それはわかってる?」
「ええ」
「ここであなたを眠らせて強引に手術まで持って行ってしまうこともできるのよね。でも、しない。目覚めたあとのあなたと険悪なムードになって、奇跡を使われたら厄介だわ」
「そう見込んで頼んでるの」
「わかったわ。ケースがケースだもの。特別よ?」
ディアナは一行を最下層のその下まで案内した。基底部の上層だ。塔の内部が監獄に改装され、フロアの一角に設けられた面会室は分厚い重ねガラスで真ん中から仕切られていた。
5分ほどしてガラスの向こう側に1人の天使が車椅子に乗せられて入ってきた。壁は分厚そうだけど、こんな簡素な部屋で、例えばキアラのカルテルスを防ぐことなんてできるのだろうか、あまりに脆弱じゃないだろうか、と思っていた。でもそんなものは必要ないのだとすぐに分かった。その天使は憔悴しきっていた。体はガリガリで羽根もほとんど抜け落ち、目は焼き魚みたいに霞んでいた。自分の意思で身動きすることもほとんどなかった。ディアナは乾いた銀色の髪を撫でてから部屋を出た。天使は頭の手の上の感触にゆっくりと反応して天井を見上げ、それから部屋の四隅を見た。本当にものが見えているのかどうかわからないくらい虚ろな目だった。
「この天使はオルメト事変でサンバレノ軍を率い、2000人以上のエトルキア人を死に至らしめた。物的にも膨大な損害を与えたわ。同時に捕えられた天使の中では最も重い罪で収監されている」
「名前は?」
「ギネイス。サンバレノでは有名な軍事指導者だったようね」
クローディアは首を振った。
「知らない。少なくとも地上にいる間の私を殺しにきた天使じゃない。それを指示した天使でもない」
「じゃあ、逆に、あなたを狙った天使なら死んでも構わない?」
「ええ」
「でも、その血液があなたのものになるのよ?」
クローディアは頷いたが、気が進まないのは確かだった。
「それに、直接私を狙った天使はそんなに数がいない」
「何人くらい?」
「生きているのはキアラくらい。あとはほとんど死んでしまったから」
「あ……ああ、そう」
ガラスの向こうの天使はひとしきり部屋の中を見回したあと、目を閉じてかっくりと首を上にして眠っていた。それはもはや干からびた死体のようだった。
「なぜこんなに弱っているの?」クローディアは訊いた。
「監獄は食事が少ないの。それに定期的に奇跡を使わせているからラディックスもカラカラになっているでしょう」
「そうね。それくらいしないと、奇跡を使う天使は危険だから。それに、このひとはきっと強かったんでしょう?」
「そうね。強かった。手懐けるまでに私の周りでも10人以上の憲兵が犠牲になったわ」
「体重も20キロなさそうなくらいだけど、十分な血が採れると思っているの?」
「いいえ。正直なところギリギリ。手術後すぐは体を動かすのもかなりしんどいはずよ」
「それも織り込み済みなのね。その方が私のことを扱いやすいから」
「ごめんなさいね。でも、わかって。状況が状況とはいえ、一度脱走したことのある天使を自由の身のまま首都に連れてくるって、それだけでもとてもリスキーなことなのよ。これでも結構頑張って内務部の偉い人を説得したんだから」
「私のドナーに適合するのはこの天使しかいなかったの?」
「ええ。エトルキアが管理している天使の中で許容ラインを超えたのは彼女だけ。幸い適合レベルは高かった」
「そう……」クローディアはガラスに両手を当ててしばらく考えた。「ねえ、少し時間をもらえないかしら。気持ちの整理がつかなくって」
「いいわ。じっくり考えなさい」
「ダイ」ヴィカが口を挟んだ。
「いいの。あなたに納得してもらわなければこの手術は成立しない」ディアナはヴィカを黙らせた。
「ありがとう」
「少し待っていて。彼女を牢に戻してくるから」
ディアナは部屋を出てガラスの向こうに回り、車椅子を押してまた出ていった。
沈黙。
カイは隣で険しい顔をしてまだガラスの向こうを見つめていた。
ラウラは後ろの壁の前で自分の肘を抱いてクローディアとカイの様子を見守っていた。
ヴィカは扉の横の壁に寄りかかって火をつけないままのタバコを咥えていた。齧っていると言ってもいい。苛立っている感じだった。
「なぜ先に説明してくれなかったの?」クローディアはヴィカに言った。
「説明されていたら、ここへ来ていたか?」ヴィカはタバコを噛んだまま答えた。「タールベルグで見せた電報、私が貰った命令もあれがあのままだったんだよ。手術の中身なんてここへ来て初めて知ったんだ。それは私も同じだ」
「よくわからないまま私を連れてきたのね」
「よくわからないままついてきたのはお前も同じだろ」
「ずいぶん不毛な会話だねえ、と言ってやりたいところだけど、よくわからないままついてきちゃったのは私も同じだね」とラウラ。クローディアとカイの背中をさする。「酷だけど、エトルキアというのはこういう国なのさ。私や姉さんがタールベルグに戻った気持ちもなんとなくわかるだろう?」
「でも、お前は奇跡を取り戻すためにここへ来たんだ。幸い猶予はある。しっかり切り替えろ」とヴィカ。
クローディアは頷いた。
「今日はこの島に泊って。部屋を用意したわ」ディアナが戻ってきて戸口で言った。やっぱり朗々としている。本性はともかく人当たりのいい人間だ。
ヴィカから順に廊下に出る。
「クローディア、少し残って」とディアナ。
「何?」クローディアは身構えた。
「着替え。さっき言ったでしょう。堂々と歩きなさいって。一番いい方法は軍人になることよ。基地の中では人種に関わらず階級が全てだし、民間人でも軍人には決して手を出さない」
「軍人になる?」
「恰好だけね」
「ああ」
ちょっと残っていたカイもそれで頷いて廊下に出た。ディアナは扉を閉め、畳んだ制服を隅の椅子の上に、踵の低いパンプスをその下に置いてドアの横の壁に寄りかかった。
「エトルキアにも天使の軍人がいるの?」クローディアは訊いた。
「ええ。数はとても少ないし、まともに出世街道を登ってきた天使もいないのだろうけど」
「出世街道」
「例えば軍令部にスピカという大佐がいるわね。彼女はもともと特務下士官に過ぎなかったのだけど、配属先の島で反乱が起こった時に不在の指揮官の代わりに隊をまとめて被害ゼロで脱出、そのあと逆襲をかけて首謀陣を完封したという逸話の持ち主なの。その一件で指揮能力を買われて、今では戦術シミュレーションの
「案外、能力重視なのね」
「帝国だもの。世襲と権威に依存していたら簡単に構造が腐敗していくということは誰しもよくわかっているわ」
クローディアはまず制服の内容を確認した。下から、ストッキング、ワイシャツ、スカート、ジャケット、あとは軍帽。
ディアナはちょっと首を傾げただけで何の憚りもなくクローディアの着替えを直視していた。なんだかストリップショーに出ているみたいな気分だ。当然いい気分ではない。ただ、着替えさせるってことは何か変なものを持ち込んでいないか調べる意味もあるのだろう。純粋に軍服を着てみたい気持ちもあった。
壁の方を向いてジャンパーを脱ぐ。黒い翼を見るのは初めてだろうけどディアナは何も言わなかった。それくらいの配慮は持っているようだ。
セーターとジーパン、靴下も脱いで制服の隣の椅子の上に置いておく。ストッキングを穿き、ワイシャツに袖を通し、スカートのファスナーを上げる。人間用のワイシャツなので翼を通すために裾を出しておかなければいけないけれど、スカートのウエストが高いおかげで背中が冷えることもなさそうだ。
スカートはウエスト回りが余ったが、中にアジャスターがついていて上端を絞ることができた。
「下がらない?」とディアナ。ウエストの話だ。
「平気」
「よかった。一番小さいのを持ってきたのだけど、合わないかと思った」
ジャケットはダブルで開きは右側、パンプスは見かけよりソールが軟らかくて履きやすく、踵もぴったりだった。
「すごい、ぴったり」
「体重測定の時足のサイズを測っておいたの。気づいた?」
「いいえ」
「嘘。勘よ。目測。私もなかなかやるでしょ?」
クローディアは頷いた。ディアナは服飾に傾倒した人間のようだ。珍しい軍服だとは思ったけど、特製のワンオフなのだろう。王族だとかいう話もしていたし、そういうものを着るだけのステータスを持った人間なのだ。
クローディアは脱いだ服を畳んで重ね、それから軍帽を合わせた。その間にディアナは壁のボタンを操作してガラス面を鏡に変化させていた。おそらくガラスの向こう側の部屋にも同じ仕組みがあって、さっきは向こうからこちらが見えないようになっていたのだろう。
鏡になった壁面に自分の姿が映る。横に並んだディアナの方が頭1つ身長が高い。彼女も人間としては細い部類だが、クローディアの方がずっと華奢だ。軍人というには無理がありそうだけれど、天使なのだから仕方がない。ダークグレイの軍服と黒い毛色との相性も悪くなかった。なかなか冷酷な生き物に見える。
冷酷な生き物。
確かに、この事態を切り抜けるためにはエトルキア流の冷酷さが必要なのかもしれない。まずは形から、か。いい衣装だ。
ディアナが後ろに立ってジャケットの肩や軍帽の傾きを少しばかり直した。心持ち深めに被るのが正しいようだ。
「いいわね。似合ってる。背筋を伸ばして、心持ち顎は高く。翼を隠す必要はないわ。そう。少し歩いてみて」
クローディアは鏡と平行向きに部屋の中を行ったり来たりした。意識すると何だか逆にぎくしゃくする。
「手は揃えなくていいわ。もう少し大股で」
言う通りにして、体に馴染んでくるまで往復する。
「いいわね、かっこよくなった」ディアナは満足そうに頷いた。「ナメられないようにやっているの。凛々しく堂々と、かつ礼儀正しく。いいわね?」
クローディアは今のウォーキングで恰好が乱れていないか確かめるために鏡に向き直った。大丈夫そうだ。それから一歩前に出て鏡に顔を近づける。襟のところに四角いワッペンがついていた。黒地に金色の斜線が2本、左側にダイヤ型の星がひとつついている。
「この階級章は?」クローディアは訊いた。
「少佐」
少佐。士官階級では中の下だけど、士官学校を出た若者が下の下の少尉からスタートするのを考えると高すぎる気もした。尉官程度だとまだイビられるという判断だろうか。
「その歳で少佐なんて、よほど武勲を上げたのね」
なるほど、そういう設定なのだ。どういう手柄なのかイメージするのは難しかったけれど、でも実際に今までエトルキア領で仕留めてきた天使の人数を考えるとそれくらいの評価をもらってもいいのかもしれない。気負うこともない。
「あなたのは?」
ディアナの襟章は同じデザインで星が2つだ。
クローディアが訊くとディアナはにっこり微笑んだ。
「中佐。つまりあなたより一つ上。上官には敬語を使いなさい。いいわね?」
「う、はい」
「よしよし、これで完璧ね」ディアナは上機嫌でクローディアの軍帽の上をポンポンと叩いた。
くそっ、やられた。敬語を使わせるのが目的だったのか。
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