血液のゆくえ

「私はディアナ・ベルノルス。あなたがクローディア?」

 彼女は朗らかに名乗った。薄いブロンドの長い髪、赤い目、白い肌。顔立ちはとても整っていて、色彩を除けばどことなく古い映画の中の女優を思わせた。

 けれどクローディアは何かビリビリした感触を覚えていた。彼女のオーラのようなものだろうか。体のどこかにある危険を察する器官が「近づいてはいけない」と警告を発しているようだった。

 結果、クローディアは「ええ」と小声で頷くことしかできなかった。

「そしてあなたがカイ・エバート」

「はい」

「話は聞いてるわ」

 ディアナはカイに向かって微笑み、手を差し出した。握手だ。当然のようにカイが先で――そう、でもそのあとでクローディアにも握手を求めた。

 この女がメルダースのような天使愛護主義者でないのは一目見てなんとなく察しがついた。けれど苛烈な差別主義者でもなかった。ヴィカと同じような表向きには公平なタイプなのだろうか。それもしっくりこないような気がしたけど、ひとまずはそんな捉え方で問題なさそうだった。

「カイ、その頬はどうしたの?」ディアナは訊いた。

 カイは自分の頬をひとしきり触ったあと、「殴られたんだ」と目を伏せたまま答えた。

「誰に?」

「ヴィカ。ヴィカ・ケンプフェル」

「ヴィカに? どうして」

「……ハンドメイドの飛行機で海を渡ろうとしたら、バカ言うなって」

「それは……災難だったわね」ディアナは右手の指を揃えて口に当てた。笑いを堪えられなかったようだ。白いアームカバーに覆われていて素肌は見えない。

「……もう少し時間があればきちんとした改造ができたはずなんだ」カイは恥ずかしそうに赤くなった。

「顔を上げて、パイロットさん」ディアナはカイの頬に手を当てた。左手で袖を捲り、アームカバーの内側に指を滑らせる。ちょっと痒かったとか、アームカバーの皺を伸ばしたとか、そんな感じではなかった。明らかに何かを操作する動きだった。タッチパネルなのだろうか。

「冷たっ」カイが声を上げた。

「消炎と血行を抑えるスペルをかけたわ。しばらくすれば腫れは引いてくるでしょう」

 なるほど。

 ディアナは魔術師で、アームカバーが触媒なのだ。魔術院の関係者なのだとすれば、ヴィカを知っているような反応だったのも、迎えに出て来たのも頷けた。

 ディアナは少しカイの頬を撫でてから手を下ろした。

「ありがとう……ございます」カイはぽーっとして答えた。さっきの赤さとはまた違う反応だった。


 ディアナの目がふと上向く。

 ヴィカがタラップを下りてきた。ダークグレイの軍服を着てきちんと軍帽を被っている。膝までのタイトスカート。そういえばヴィカのスカート姿を見るのは初めてかもしれない。その格好だといつも以上に冷ややかな雰囲気になる。

 さっきまでタールベルグ滞在中と同じカジュアルな格好だったから、着替えに時間がかかっていたわけだ。もしかして飛んでいる間に着替えるべきだったのを忘れていたのだろうか。

「ヴィカ」ディアナはタラップの下で待ち構えていた。

 ヴィカはそれを見てちょっと足を止め、唇を斜めにした。嬉しさ半分、面倒臭さ半分といった感じだ。

「おかえりなさい。いい休暇だった?」ディアナは下りてきたヴィカをハグで受け止めた。

「ああ、おかげさまでね」

「うんうん……? えっと、どういう意味?」

「文字通りさ」

「私がいなくて清々せいせいしたみたいな言い方ぁ」

「ん? そう聞こえたかな」

 なるほど、2人は仲がいいみたいだ。少なくともディアナの方はそう思っているようだ。

「なんだ、友達なんていないって言ったわりには仲が良さそうじゃないかね」タラップの上からラウラの声が聞こえた。

「ああ、こいつはな……友達というより、そうだな、ファンみたいなものだ」

 ディアナは声の主を見上げてヴィカを解放した。

「あら、もしかしてラウラ・クレスティス? こんなところでお目にかかれるなんて、珍しい」

「彼女に2人を預けるのが心配だったからついてきただけさ」

 ディアナはラウラもハグで出迎えた。ヴィカよりは軽いけど、きちんとしたハグだ。

「また下らない派閥争い。仲良くしなさいよ」

「そう言うならあなたの権威でもって魔術院の態度を寛容にしてくれると助かるんだけどね」とラウラ。

「残念ながらあそこの連中は王族をも恐れぬ無頼集団なのよ」

「世知辛いねえ」

 ディアナはハグのあとラウラとヴィカの肩に手を置いた。派閥争いにも中道派というのがあるらしい。


「サン=ジェルマン・イン・レにようこそ。案内するわ」ディアナは4人の前に出て改めて言った。

 そうか、ここがインレ、エトルキア軍の中枢なのだ。クローディアは塔を見上げた。黒々とした外壁が視界にのしかかってくる。心なしか他の塔より威圧的だ。

「シャトー・ルナールというのは? 手術はそこで受けるんでしょう?」

「ああ、それなら南の方。あそこに見えるわ。中層のちょっと尖ったのが魔術院。医大は中下層ね」

 ディアナが指差したのは南面に見える一番近い塔だった。住居島のシルエットで、確かに中層にやや特徴的な尖塔の形が見えた。医大のある中下層はこの距離では特に変わった感じはしない。私に血液を分け与える天使たちはそこで待っているのだろうか。クローディアは想像した。

 ディアナは塔の周りを取り囲むような円形の格納庫に入っていく。屋根の陰の中に入り、目が暗闇に慣れる。中には輸送機や大小の練習機、ヘリコプターなど様々な機種の航空機が並んでいて、それを整備する整備士たちが動き回り、少し開けたところに20人くらいが集まってレクチャーを受けていた。その集団は作業服が真新しい。

「士官候補生ですか」カイが訊いた。

「ええ。インレの機能は主に軍政と作戦立案、そして士官教育にある。士官学校と、それから上級将校の慣熟訓練ね」ディアナが答えた。

「慣熟訓練」

「オフィスで命令ばかり出していたら操縦の腕が鈍るでしょう? だから何週間に一度は飛びなさいって軍規で定められているの。ちなみに軍の墜落事故で一番多いのが慣熟飛行、それも佐官の訓練の時だと言われているの。ね、ヴィカも気をつけて」

「私はまだバリバリ前線の現役じゃい。ダイこそこの島に籠ってるんじゃないのか」

「あら、見くびらないでよ。近場に出向く時は自分で飛ばしてるんだから」

 2人が話していても周りの兵士たちは特に気に留めていない。挨拶もない。まして自分から敬礼するなんてこともない。景色そのものはネーブルハイムと同質だった。でもどこかクールな雰囲気だ。私語が聞こえないからだろうか。なんとなく都会的で、澄ましたような、無関心な空気が充満していた。


 駐機スポットの間の歩行帯は黄色いペンキで区切られ、飛行機や作業車両の通路を渡るところは縞状の横断歩道になっている。その手前には「車両優先」の警告タイルが敷かれている。ディアナはその歩行帯を中央部まで進んでいって外壁エレベーターの操作盤で上階行きのボタンを押した。

「どこへ行くの?」クローディアは訊いた。

「病院区画。事前に簡単な検査が必要なの。どういう治療をするのか、説明も聞いておきたいでしょう?」

「検査?」

「防疫検査と健康診断みたいなもの。ドナーは血液サンプルをもとに選定させてもらったけど、本当にそれで合っているのか確認しないと危ないから」

 エレベーターのドアは開いていた。踏み込まなければ始まらない。クローディアはケージの中に入った。他の4人も乗り込む。

「エトルキアの人間に囲まれているのは落ち着かない?」ディアナは訊いた。

「少し」

「私と一緒にいる限りは大丈夫よ。誰も悪いことはしてこないわ」

「1人で歩き回るなってことね」

「そうね。1人になるとしても、今みたいにビクビクしているのはよくないわ。脱走した捕虜だと思われたら余計に危ないから、堂々としていた方がいいわ」


 ケージの中にいたのはほんの20秒程度だ。病院区画といってもかなり立派な施設で、通路も広く、手術室も10室以上、病室もかなりの面積が確保されていた。大量の傷病兵を受け入れるための造りだ。全体に比較すると診察室はかなりミニマムな広さで、5人で入ると窮屈なくらいだった。硬くて細いベッドがひとつ、医師用のデスクと患者用の椅子がひとつ。それだけだ。ディアナが医師席に座り、クローディアが患者席に座り、あとの3人はドアの前で立ち見――になりそうだったがラウラに促されてカイはベッドに腰掛けた。

 ディアナは手術内容の説明を始めた。

 血液脱換というのは文字通りの治療で、もともと流れている血を全部抜いて、新しい血液を入れる。単純明快。それだけのことだ。ただ、数分間酸素供給が停止しただけで脳には機能障害が残るおそれがあるので、まず頸部動脈に人工心肺をバイパスして脳を保護するところから始める。

 脳を除いても血流の停止は肉体に非常な負荷をかけるのでごく短時間で施術する必要がある。したがって針は大静脈に直接刺す。動脈では血圧がかかりすぎて穴が塞がらなくなってしまうので静脈を使うのだ。

 古い血液を完全に抜き去ったのち、まず人工血漿を注入して血管内を洗浄し、これも完全に抜いたのち新しい血液を注入する。十分な血圧を確認したところで頸部バイパスを閉塞、人工心肺に通していた血液も静脈から完全に排出して新しい血液に入れ替える。

 血液を抜き始めてから新しい血が体内を循環するまでの所要時間は予想で約5分。大掛かりな手術だがスピード勝負だ。ただし大静脈注射のための開胸を伴うので全身麻酔をかけるし、拒絶反応の経過観察も含めて術後2日は入院していなければならない。


「内容は理解できたけど、そんな大胆なことをしてクローディアがきちんと目覚められるのか、力が戻るかどうかはひとまず置いておくとしても、その保証はあるんだろうか」カイが訊いた。

「ええ。安全性は確保されている。理論的にも十分だし、複数の検体による実験でも問題は起きていないわ」

「検体?」

「ラットとハトで合わせて50回、天使でも10回は試したわ。意識の回復が見られなかったケースはない。拒絶反応で継続的な免疫抑制が必要になった数例を除いて失敗と言えるケースはないわね。ただそのケースもマッチングのスコアが比較的低かったものに集中しているし、クローディアに関してはその点、成功例の上位平均よりもスコアの高いドナーを見つけることができたから安心してもらって大丈夫よ」

 クローディアはカイと目を合わせた。カイは頷いた。決して安心しているわけじゃない。ただ確認すべきことは確認できた。そういう目だ。

「治療のあとは?」クローディアは訊いた。

「あと?」とディアナ。

「私が目を覚まして、退院できたとして、そのあと。あなたたちは私に何かを求めるの? なぜ私が力を回復することにエトルキアが積極的になれるのか、そこが腑に落ちないの」

「そうね。あなたがきちんと奇跡の力を取り戻せるかどうか、その力が以前と比較して変わらないレベルのものかどうか、それは確かめたいわね。一度力を失って、脱換によってそれを取り戻した天使、というのは例がないもの。医療界にとっては貴重な実例になるでしょう。研究材料として記録は取らせてもらう。費用を大学で負担するのもそれが目的」

「それだけ?」

 ディアナは首を傾げた。

「ねえ、ヴィカ、何か悪いことでも吹き込んだの? この子すごい疑ってるじゃない」

「ベイロンの作戦でエサに使ったのを根に持ってるんだよ」

「失礼な表現だねえ」とラウラ。

「え、そんなことしたの?」ディアナ。

「奇跡が使えなくなったのもその絡みよ」クローディアも言った。

 ディアナは溜息をついた。

「それは仕方ないわ。でも、受けてくれるでしょう?」


 クローディアは頷きかけた。でもそれより早くカイが手を前に出して会話を遮った。

「実験は人間ではやっていない?」とカイ。ちょっと機嫌が悪い時の口調だった。

「ええ」ディアナは頷く。

「ボランティアがいなかったから」

「ええ。募集もしてない」

「うん。だと思った。彼女でもなければ受ける方にメリットのない実験だ。ラットとハトは実験動物なんだと思うけど、天使は? ここには実験用の天使というのがいるのか」

「いいえ。それは違うわ。捕虜を使ったの。中央管区のあちこちで200以上の捕虜の天使を収容しているのよ」

「だとしても本人の意思に関係なく検体にするなんて……」

「そうね。かわいそうだけど、でも必要なことだと思ってくれないかしら。この国では天使に人間と同等の権利は与えられていないし、捕虜の天使たちは誰かしらエトルキア人の庇護下にあるわけでもない。条約によって保護されているわけでもない」

 クローディアは自分の爪先を見下ろした。でも気がかりはカイの論点とはまた違ったところにあった。200人。その中から10人。必要量の血液を集めるのに何人くらいのドナーが必要なのだろう。3ℓ入れ替えるとして、1人から400㎖取って7.5人。それが10人で75人。2人か3人に1人は誰かのドナーになる計算だ。適合率というのはそんなに高いものなのだろうか。

「クローディアに関してはその点、成功例の上位平均よりもスコアの高いドナーを見つけることができたから」とディアナは言った。

 ドナー。それは明らかに単数形だったじゃないか。

「ねえ、私の血液のドナーは何人いるの?」クローディアは訊いた。

「何人って、1人よ。そんな、何人もの血液を混ぜたら免疫の反応を抑えられなくなってしまうじゃない」

「1人から全部を抜いて、私に入れるの?」

「そう」

「私から抜いた血はドナーに入れ直すの?」

 ディアナは首を振った。「AにとってBの血液が適格だからといって、BにとってもAの血液が適格とは限らない。あなたの場合はこのパターン。交換ではない。残念だけど、ドナーには死が待っている」

 それは予期していた回答のはずだった。それでもクローディアは愕然として何も言えなかった。

 ディアナは表向き公平な人間だ。でもその綺麗な顔の裏側には残酷な本性を隠していた。

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