黒い巨樹の森
大西洋上空、巡航高度10000m。水平線が弧を描いて見えた。その丸みの表面が全部黒っぽいもの――水で覆われているのだ。
右舷の窓から見ても左舷の窓から見ても陸地が見えない。海の上には塔もない。普段なら空を支える柱のような塔のシルエットがどこかしらに見えているけど、今はそれもなかった。完全な空だ。高度のせいでスピード感がないので空と宇宙の間に宙吊りになっているような感覚だった。
でもプープリエは超音速巡航が可能なのだからこれだけ開けたところなら確実に音速を超えているはずだ。プープリエは平面形が戦闘機に似た幅の狭い三角翼を持っている。エンジンポッドもパイロンを介さずに主翼の下面に直接くっついている。短距離離着陸能力(と多少の整備性)を犠牲にしてその分速度性能に振っているのだ。
ナイブスの最高速度が600km/hと少しだから、高空で音速が1150km/h程度まで落ちていることを加味してもプープリエの方が2倍近いスピードで飛べるわけだ。いや、抵抗が極大になる音速ギリギリを保っているとも思えない。少なくとも1400km/h程度までは上げているだろう。ともかく、全然速い。だいたいナイブスは低空用の過給器しか積んでいないから10000mまで上がってきてまともにエンジンパワーが残っているかも怪しい。浮かんでいられるかわからない。
ヴィカの言ったことももっともだとは思ったけど、あのゲンコツまで認めるのは癪だった。
プープリエの機内は旅客機と同じような内装だった。いやもちろん旅客機に乗ったことはないけど解体のためにタールベルグに運び込まれる機体なら度々目にしていた。
座席は横4列で奥行きは10行。ランプドアのある後部は貨物室になっている。超音速機とはいえ輸送機なのでさすがに胴体が太い。
乗客4人に対して40席だからわざわざ密着して座ることもない。クローディアは通路を挟んで反対の席に座っていた。翼を肩の横に出して畳み、顔を向こうの窓に向けていた。でも景色を見ているというより考え事をしているみたいだ。
中部エトルキアに入るのが不安なのだろう。奇跡を取り戻すための治療というのがどんなものか想像しているのだろう。翼が回復するまで待ったくらいだ。彼女が用心しているのはよくわかった。
もちろん俺だって旅行気分なわけじゃない、とカイは思う。そのための魔術だ。杖はホルダーに入れてある。まだプロの魔術師とやり合えるレベルじゃないのはわかっているけど、それでも護身用くらいにはなるだろう。
「ねえ、クローディア」カイは声をかけた。
クローディアが振り返る。サファイアのような青い目がこっちを見る。首が少し斜めになり、肩から髪が垂れる。彼女の髪は初めて会った時よりいくらか長くなっていた。
「ずっと座っていて翼が痺れたりしない?」
「ああ、平気よ。背中の後ろに敷き込んで背凭れに凭れていたらなるけど、痺れないようにこうしてるの」クローディアは翼を肩よりもう少し前に出した。「うつ伏せで腕を下敷きにしてると痺れるけど、横にこうやって広げたりしていたら痺れないでしょう? たぶんそれと同じ」
「わりと邪魔にならないんだね」
「背中から生えてるみたいに見えるかもしれないけど、付け根が結構横に開くの。そうじゃないと飛ぶ時に打ち下ろせないでしょ?」
「なるほど、合理的だ」
言われて気になったのか、クローディアは翼を広げてバサバサ小刻みに揺すった。要は伸びだ。でも人間の腕とは必要スペースが全然違う。翼の先が内壁を擦り、前の席に引っかかった風切り羽が跳ね返りで顔面に来た。
「ちょっと」
「アハハ」
「横でやってよ、横で」
カイは通路の前後を指した。でも楽しそうで何よりだ。
海の西岸は近づいていた。まず大気の霞の向こうから海岸に並ぶ塔の先端がうっすらと浮かび上がり、海の上を這うような雲の切れ間から見慣れた黄色っぽい地表が姿を表した。
プープリエが高度を下げるにつれて塔全体のシルエットが顕になり、反対に先端部は宇宙の暗がりの中に溶けていく。
海の上に立っている塔もあった。水深が浅いから建設できたのか、それとも建設した頃には陸地だったものが海水面の変動で沈んでしまったのだろう。
海と陸地の境目が真下を通り過ぎる。カイは時計を見た。結局3時間足らずのフライトで大西洋を渡ったことになる。
いつしか塔より低い高度を飛んでいた。まるで巨大な樹木が立ち並ぶ林の中に迷い込んでしまったような感じがした。
「何か変だ」
「変?」通路を挟んで隣に座っていたクローディアが訊いた。
「……塔の間隔が狭いんだ」
東部より塔の密度が高い。だから林のような印象を受けたのだ。
「セカンド・グリッドだよ」ヴィカが答えた。前の席の背凭れに肘を引っ掛けている。
「塔の建設計画のフェーズ名さ。この辺りは第2段階までは進んだわけだ。東部では塔の間隔は60キロ、こっちではその中間地点にも立っているから37キロと少し。数字の上じゃ半分だが、直線で間を抜けようとすれば塔との距離はファースト・グリッドよりずっと近づくことになる」
「半分で、37?」とクローディア。
「簡単な図形の問題だよ。ファースト・グリッドの塔は最も近い塔との距離が等しくなるように配置されている。無限に隣接する正三角形の頂点に位置するわけだ。その1辺の長さが60キロ」
「タールベルグからアイゼンまでの距離だ」
「あの辺りは平地で地殻も安定しているからね、計画通りに建てられたんだろう。で、そこから正三角形を1つ取り出してみればいい。3つの頂点から距離が等しいのは三角形の中心だ。頂角120度、底辺60キロの二等辺三角形において頂角に接する2辺の長さは37.5キロになる」
「三平方の定理?」
「そう」
「ヴィカ、あなた頭良いのね」
「……あのね、この程度で褒められても困るし、私が覚えてるのは三平方の定理じゃなくて塔の配置なんだよ。ツッコミどころが多いなまったく」
「ああ、辺の上の中点を取るわけじゃないんだ」カイももう少し考えて理解した。
「ファースト・グリッドが一辺60キロの三角形なのに対して、セカンド・グリッドの塔同士は45キロ間隔で、六角形の頂点にある。ファースト・グリッドの塔から見た時、最寄りの塔は6基、セカンドは3基になる」
「その通り」
「素朴な疑問なんだけど」クローディアが言った。「もっとうんと近づけて建てるわけにはいかなかったの? 塔の建てやすい場所だって限られているだろうし、地表面にまんべんなく分布させようとしたのって、ちょっと不可解」
「塔は撓るだろう。いくら近づけても甲板同士をつなげるわけにはいかないわけだ。それに、塔が近すぎれば地下資源の食い合いが起こる。そのためにむしろ塔同士を遠ざける必要があったんだ。この辺りは他よりキャパのデカい地域だと判定されたのか、それとも建てられるところから手当たり次第に建てただけなのか、それはわからないが」
カイは改めて窓の外を眺めた。黒々とした塔のシルエットが周囲を取り囲んでいる。巨大な構造物だから実際には何十キロも離れているのに、まるで手が届きそうな距離に感じられる。
多くが5層構造の住居島で、その中に隠れるように工業島や軍事島がちらほら見えた。肉眼で見える範囲に20基近い塔がある。一度にこんな数の塔を見るのは初めてだ。その1基1基の上に何千という人々が暮らしているのだろう。ここが大国の首都なのだ。
けれどよく見ると中には航空障害灯を灯していない島や、甲板の崩れた島、つまり死んだ島もあって、ただ数が多いだけで賑やかだと思えるような雰囲気ではなかった。なんとなく寂しいのだ。
右前方から工業島が近づいてくる。3,4kmの距離まで近づいた。大まかな容姿はタールベルグに似ているけれど、どことなくいかめつらしい感じがした。背景が曇っているせいだろうか。……いや、外壁の色が明らかにタールベルグより黒い。それに塔の外壁が角張っていた。明らかに真円断面ではない。それに単純な先細り構造でもなく、ところどころ段がついていて、とても縦長の細長いブロックを慎重に積み上げたような造形だった。その角張った構造はよく見るとその塔だけではなく、周りの他の塔も同様だった。甲板は現代人が後付けしたものだから国や地域によって造りが違って当然だろう。でも旧文明が造った塔本体にも地域差があるとは思わなかった。
「珍しいか?」ヴィカが訊いた。「東部とはかなり違うだろう。どうもこの辺りの塔はマスプロを重視した急造品なんだ」
「マスプロ?」
「ああ。あの微妙に変形した細長い円錐形というのは精密に造るのが結構難しいらしい。旧文明の技術なら失敗こそしなかっただろうが、それでも手間か時間はそれなりにかかったってことだろう。この辺の塔はある程度まできっかり円柱か六角柱で作ってそいつを積み上げているのさ」
「外壁が黒いのは」
「耐候塗料の組成の違いだろう。この辺りで汲み上げられる素材で一番いいものを合成するとこの色になるんだ」
やれやれ田舎者はものを知らなくて困る、という感じがヴィカから伝わってきたのでカイは質問をやめた。
さらに5分ほど飛んでプープリエは大きく旋回した。旋回の内側に軍事島の特徴的なシルエットが見えてくる。下層飛行場に着陸しようとしているようだ。
着地の衝撃はほとんどなかった。スラストリバーサーを開いて減速。エンジンの吹き上がる音がごうごうと機体の外殻を伝ってくる。路面が濡れていたようで水煙が白く舞い上がった。
格納庫の前までタキシングしてエンジンカット。静かになった。
クローディアは惜しむように翼を伸ばしたあと、上から青いジャンパーを羽織って翼を隠した。フード付きで丈も長いので上から下まできちんと隠れている。元々が細いので多少ゴワゴワしていても違和感はない。
「大丈夫?」クローディアは手を上げたりしゃがんだりして具合を確かめた。
しゃがんだ時にちょっと裾の後ろが持ち上がるような感じがしたけど、気にしなければ「ちょっと硬い生地なのかな」という程度だ。問題ないだろう。
外に出ると空気は冷たく湿っていて、それでいて心なしか埃っぽい感じがした。上の層から他の飛行機のエンジン音が聞こえていたけど、下層は静かだった。あまり発着の多い島ではないのだろう。周りに駐機してあるのは主に中型輸送機と練習機。戦闘機能を重視した島ではないようだ。
雨上がりらしく空は白くどんより霞んでいて、周囲の塔も機内から見るよりもっと黒く、迫ってくるような存在感があった。その手前や向こうに旅客機や貨物機の航法灯がちらほら見える。空が狭い。
パイロット2人が機体の周りを回ってフライト後の点検を進めている。
ヴィカとラウラが降りてこないのでタラップの下で待っていたけど、格納庫の陰の下から人影が1つ出てくるのが見えた。どう見てもこちらに向かってまっすぐ歩いてくる。出迎えだろうか。整備員や甲板員はグレーの作業着なので白い軍服は目を引いた。
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