リリース・ザ・スピリッツ

 ギグリはリビングの真ん中に立って翼をいっぱいまで伸ばした。そのまま体の向きを変えて回ろうとしたので翼を避けるためにエヴァレットは屈んで頭を低くしなければならなかった。ギグリは一周回ってさらに翼の先端を上に伸ばしてクリアランスを確かめ、終いにはバサバサと羽ばたいた。

「すごい、家の中で羽ばたけるのって、さすがに城でも場所を選んだわよ」

 ギグリはかなり純粋に興奮していた。やはりアルピナに来るとギグリが素直になる。それは嬉しいのだが、ともかく舞い上がった積年の埃のせいでくしゃみをしないわけにはいかなかった。

 くしゃみのために吸った息でまた埃が入ってきてまたくしゃみが出た。いけない。キリがない。一足早くハンカチで鼻を覆っていた市長と一緒に一面の窓を開け放った。冷たい風が入ってカーテンが膨らみ、森に住む鳥たちの声が入ってきた。南面はほとんど端から端まで横長の窓になっていてパノラマ写真のような景色が広がっていた。木々が稠密で隣家とも離れているので人目が気になるようなレベルではない。

 ギグリが余裕を持って翼を広げられるわけだからリビングは幅も奥行きも6m以上、天井高も3m以上はあるのだろう。しかも幅に長い作りなので、いまのところ家具は入っていないが端にテーブルなどを置いてもまだ余裕がありそうだった。ベイロンの新居も広さを重視して選びはしたものの、ギグリにとってはそれでも十分とはいえなかったようで、しばしば寝ぼけたまま戸枠に翼をぶつけたり羽根の先で棚の上のものを掃き落としたりしていたのだ。

 とにかく全体として造りの大きな屋敷で、廊下もトイレも広く、その点狭さでギグリが苦労することはもうなさそうだった。何よりリビングとは別に広いダイニングがあり、リビングを事務所に使っても問題ないと判断できた。


 名前のない島の滑走路はまだ整備が済んでいないので垂直離着陸能力を持つ航空機で向かわなければならなかったが、今度の渡航は公賓としてアルピナの公用機である一般的なビジネスジェットに乗せてもらったのでスピリット・オブ・エタニティは活かせなかった。観光会社のヘリコプターをチャーターして移動することになった。時速200㎞程度だと100㎞の距離でも30分以上かかってしまうのだ。ヘリコプターの足の遅さを実感した。

 ただ、ゆっくりと近づいたおかげで塔の全景や周りの景色はじっくりと眺めることができた。名前のない島はアルピナと違って塔そのものは先端まできっちりと完成していたが、滑走路だけの下層甲板はそれに対してあまりに貧相だった。

 地表は傾斜地で、千切ったわたあめのような雲が群れを成してゆっくりとその山肌を上っていくのが見えた。風の強い日にはフラムが吹き上がってくるというのも理解できる話だ。

 遠目にはまるで引っかかった小枝のようにしか見えなかった甲板も実際に降り立ってみると十分すぎるほど広大に感じられた。当たり前だが人間がジャンプしてドスンと着地したくらいではびくともしないのだ。上甲板の一切ない塔の先端を見上げると遠近感で弓なりに反っているように感じられた。そのうち三半規管が狂って後ろにひっくり返りそうな感覚に陥った。それはそれでなかなか壮観な景色だった。

 滑走路の路面状態の把握と正確な長さの測定のためにエヴァレットとギグリは二手に分かれて両端に向かって歩いた。路面のコンクリート舗装は砂漠のように罅割れ、市長の言った通りその割れ目を種々の雑草の根がぐいぐいと押し広げようとしていた。ただ罅を除けば表面に波打ちもなく平滑で、末端部の崩落も予想したほどではなかった。角の方の舗装が剥がれて甲板の構造材が露出している程度のものだ。

 舗装が幅いっぱいまで残っているあたりに立って振り返り、1分ほど待つと陽炎に揺らいでいたギグリの姿が振り返って手を上げた。エヴァレットも手を上げた。ギグリはレーザー測距儀を構えて覗き込んだ。2人の距離を測れば滑走路の距離が出る。ギグリがもう一度手を上げたのでエヴァレットはヘリコプターのところまで戻った。ギグリが翼を広げて飛んだのでエヴァレットは走った。

「どうです?」

「1105メートル。レース機の離発着には十分だわ」

「1000あれば軍用の輸送機でも降りられますよ」

 ギグリは測距儀のディスプレイをエヴァレットに見せたあと、電源を切ってポーチに仕舞った。

「でも、何もないわね」

「チームのブースや客席……」

「それもそうだけど、まず参加チームがいないわ」

「確かに、パイロットと飛行機がなければレースは始まらない。LBCの協力があれば全国から募集できるのは確実でしょうが、各地で予選を立てるにしても……」

「そうね。いちいち会場の手配をするのも大変だし、誘致の手紙をくれたところに予選の打診で返すのも野暮よね。全てここでやるという手もあるけど、どれだけ応募があるかわからないし、多かった場合、さほど大人数を捌けるキャパシティもないものね。それなら第一回の前にプレ大会として私たちの面識のある範囲で参加者を集めるのもいいんじゃないかしら。あなたも空軍の知り合いくらい何人か集められるでしょう。もちろん出資者様の意見も聞かなければならないけれど」

「ええ、掛け合ってみますよ。この場所で始めましょう。我々のレースを」


……………


 ベイロンの新居に戻るとマグダがリビングのテーブルで書類の整理をしていた。

「おかえりなさい。アルピナはいかがでした?」

「問題なかったわ。滑走路も十分。無事募集をかけられそう」

「家の話もしてましたよね」

「ええ、それもよかったわよ。ここより広くて、静かで」

「移ります?」

「そのつもり」

 マグダはそこで一呼吸置いた。

「ギグリ様、私はベイロンに残ってもいいですか」

 ギグリはマグダのシリアスを受け止めるように黙ったまま彼女の前の席に座った。

「あなたが熱心にそんな書類に目を通すなんてね。そんなことだろうと思ったわ」

「バレてました?」

 ノイエ・ソレスから戻って以来、マグダは手続き書類の処理を買って出ていた。インフラや通信の契約はもちろんだが、大きなところではスピリット・オブ・エタニティの所有を正式にエヴァレットに移してもらっていた。

「アルピナへついてくるとしても、あなたには家族がいる。1人で行くのか家族を連れていくのか、悩んでいたでしょう」

「この部屋は空き家になるんで、私が管理させてもらって、仕事場に使わせてもらってもいいかなって」

「ふうん。なかなか狙っていたわね」

「すみません……」マグダは頭を掻いた。「両親の家、べつに不便はしてないんですけど兄弟がうるさくて」

「ここもうるさいわ」

「なんていうか、人気のない音はいいんです。機械とか道具がどうしようもなく立てている音って気にならないんですけど、人の声とか、人の立てる音とか、そういうのは、なんていうか、静かにしてくれと思っちゃいませんか?」

「まあ、あなたはそうなのね」

「ここならむしろ飛行機のおかげで人の物音は気にならないので」

「それで最近ペースがいいのね」

「かもしれません」

「ああ、でも、そうね、あなたが近くにいてくれないと服が困るわね。今私が着てるのってほとんどあなたに直してもらった服よ」

「呼んでくれれば飛んでいきますけど……」マグダは語尾を濁した。

「いいのよ、否定しているわけではない。あなたは決して私の服だけ作っていたいわけではないでしょう。ベイロンにいれば他のクイーンからの仕事も受けられる。トレンドも掴める。エトルキアの流行だって入ってくるかもしれない。アルピナじゃそうはいかないものね。あなたにとってはつまらない場所だわ。だから、いつか私の大会が大勢のクイーンを抱えて流行を引っ張るくらいになったら、その時は私のところに戻ってくればいいわ」

「ありがとうございます。本当に、いつでも呼んでくださいね。ギグリ様の服は私にしか作れないって、そう自負していますから、私」

「そう、それでいいわ」


 ギグリはエアレースミュージアムに向かった。パールヴェーラーの研究所を見に行くためだ。ミュージアムの受付から階下に下りると廊下からしてまず様変わりしていた。壁沿いに並べてあったラックなどがなくなってがらんとしているのだ。研究室や実験室なども同様、もぬけの殻だった。電算室までサーバーがすっかり取り払われて空室になっていた。まとめてノイエ・ソレスの新研究所に送り出したあとということだろう。床の変色や煤などにものが置かれていた痕跡が残っているだけだった。

「案外スムーズに進んだみたいね」ギグリはそう言ってモールトンの部屋に入った。

「ああ、待っていましたよ」モールトンはデスクでノートPCを開いていたが席を立って2人をソファに招いた。他の研究室同様、彼の部屋も書類や模型の類は全てなくなっていた。

「1週間と言っていたのに、少し遅れてしまったわね」

「事情が事情ですよ。こちらは万事順調、私ももうこれをノイエ・ソレスへ持っていくだけです」モールトンはそう言ってデスクの横に置いてあったキャリーバッグをトントンと叩いた。「そういうわけで、悪いですがお茶のひとつも出せないんです」

「べつにお茶を飲みにきたわけじゃないわ」

「では、例の約束ですか」モールトンは眼鏡を指で押し上げた。レンズがきらりと光った。

「ここはいいわ。でもノイエ・ソレスの方の稼働はどうなのかしら。もう動いているの?」

「近日中に」

「それも自分の目で確かめたいわね」

「確認後なら構わないということですね?」モールトンはまた眼鏡に指を当てた。

 要は「おっぱい揉ませろ」の件である。

 ギグリは何も答えなかったが、オーベクスを繰り出すこともなかった。モールトンもギグリの反応を待っていたので妙な沈黙が流れた。

 エヴァレットは気まずくなってモールトンに耳打ちした。

「このところ機嫌がいいんです。ビンタだけ欲しがるのはやめてください」

「決して冗談を言っているわけで――」

「いいから、続きはその時」

 モールトンは口に手を移して咳払いした。

「私ももう1つ頼んでいたわね。届いているかしら、例のもの」ギグリは気を取り直して訊いた。

「ええ、屋上に置いてありますよ」


 モールトンは部屋を出てミュージアムのバルコニーに案内した。白い鳥たちのいる大鳥籠の横にオレンジのビニールを被せた建材のようなものが置いてあって、開けてみると大小さまざまな鳥籠だった。

「この大きな鳥籠のままで連れていくわけにいかないから、1羽か2羽ずつこっちに移して、引っ越しまで少し慣らしておきましょう」

「アルピナでも研究を続けるおつもりですね」モールトンが訊いた。

「記録は取り続けるけど、あなたの方にフィードバックするのは難しくなってしまうわね。ただ飼っているだけ、みたいになってしまうかもしれない」

「逃がしてしまってもいいのではないかと思いますが」

「この鳥たちはね、いろんな島へ行って探して集めてきたのよ」ギグリは首を振り、そこで少しの間言葉を切った。

 エヴァレットにも記憶はあった。エヴァレットは留守番だったが、ギグリとフェアチャイルドは時折スピリット・オブ・エタニティでどこかへ出かけていってはその度に白い鳥の入った鳥籠を持ち帰っていた。ここの鳥たちはそうやって増えてきたのだ。

 ギグリは大鳥籠の前に立って金網に指をかけた。目の前の区画に入っているエナガが指の近くの金網に飛びついて「エサ、まだ?」と訊くみたいに首を傾げていた。

「逃がすなら少なくとも元々いた場所に逃がさなければいけない。この世界の死にかけた生態系も、それでもあくまで生態系だもの。人の故意でそれを乱すのは許されないわ。元いた場所だって人に慣れすぎたこの子たちは他の鳥とも人間とも不自然な軋轢を起こしてしまうかもしれないのよ」

「その態度には少し矛盾が感じられますね」モールトンは真剣に聞いていた。

「そうね、この子たちを集めてきたのは傲慢な所業だったと思うわ。研究に付き合わせるだけならこの島にいる鳥たちでもよかったのよ。種類だって少なくない。それで満足しなかったのは傲慢なのよ。その責任は引き受けなければ。たとえかわいそうでも、最後まで付き合ってもらわなければならないのよ」

「わかりました。そういうことなら断固として連れて行かなければならない」

「ええ。悪いわね」

 大鳥籠には20種類以上の鳥たちが入っていた。エヴァレットとモールトンは鳥の捕まえ方のレクチャーを受けてから大鳥籠に入って網で鳥たちを捕まえた。

 鳥たちは暴れた。サギなど大きな鳥は上手く抱えないと翼で頭や顔を殴られる羽目になった。抜けた羽根まみれになりながらどうにか毛布にくるんで小さな鳥籠に入れ替え、落ち着くまでしばらく毛布を掛けたままにしておいた。

 いくら飼われていた鳥でも捕まえられるのは嫌いなのだ。もしかするといつか絞められて鳥肉になってしまうんじゃないかという不安の中で生きてきたのかもしれない。あるいは鳥籠への入れ替えが大空に逃げ出すチャンスだと思えたのかもしれない。

 力いっぱい羽ばたきたい。

 遠くの島へ渡りたい。

 大勢の仲間に会ってパートナーを探したい。

 毛布を取ったあと鳥籠の中でじっと空を見つめている鳥たちを見るとそんな気がしてならなかった。

 けれどギグリの言った通りだ。一度人のものになった彼らを逃がしてはいけない。

 それはとても残酷なことのように思えた。ゼーバッハとの戦いの中でまた何人もの人間を殺した。しかしそれは殺し合いを互いに了解した上の結果なのだ。

 鳥たちへの仕打ちは違う。一方的な運命の押し付けなのだ。その方がきっともっと残酷だった。

 そこにあるべきものを人為によってどこかへ移してしまうというのは、あとになって元通りに直したところで取り返しのつくものではないのだ。それは移された者の生き方を決定的に変えてしまうことなのだ。


「ギグリ様、鳥籠が足りなくありませんか」モールトンが訊いた。

 ビニールに包まれていた鳥籠は全部出払ったが大鳥籠にはまだ2羽残っていた。白いカワラバトのペアだ。

「ああ、あの子たちはいいの。この島で捕まえたものなのよ。だからあのペアだけはここで逃がそうと思うの」

 ギグリはその2羽を自ら捕まえて1羽をエヴァレットに預けた。珍しくあまり抵抗しない2羽で、ほとんど羽ばたいたり鳴いたりしなかった。毛布もいらなかった。どちらかと言えば気持ちよさそうに手の中に納まっていた。

「同時に放しましょう」

 ギグリがもう1羽捕まえてくるのを待って、手にハトを抱いたまま横並びになった。

「この子たちではないけど、最初に捕まえたのが白ハトだったわ。ハトだけを残していくというのも不思議なものね」ギグリは言った。

「人慣れしてるし、連れて行ってもいいような気もしますが」

「いいえ、解放してあげましょう。もう私たちのものではないのよ。一緒にいたければ勝手に戻ってくるでしょう」

 ギグリは手を開いた。

 エヴァレットも手を開いた。

 だがハトは2羽ともなかなか飛び立とうとしなかった。首を巡らせて慎重に周りを確かめたあと、しばらくもじもじしたり座り直したりしていた。とはいえ強引に投げ上げるのも違うだろうし手を開いたまま固まっていた。

 2羽が動いたのは甲板の外にハトの群れが見えた時だ。島の上空を100羽くらいの群れになって旋回していた。

 それを見てエヴァレットの手の上にいた1羽がまず翼を広げ、何の躊躇いもなく足を蹴り出して飛び立った。

 するとギグリの1羽もそのあとを追ってすぐに飛び立った。振り返ったり戻ってきたりするようなことはなかったが、別れの挨拶はもう十分だろう。

 2羽はすいすいと泳ぐように甲板の外へ飛び出し、群れの方へまっすぐに飛んでいった。

 白いから目立つだろうと思っていたが、遠い群れに混じってしまうとどのハトももうほとんど黒いシルエットに過ぎない。どれが自分たちの逃がした2羽なのか、見分けはすぐにつかなくなってしまった。

 仄かな寂しさとも安堵ともつかない感情が胸の中に渦巻くのを感じた。

 下ろしていた指先にギグリの爪が当たった。きっと彼女も同じ感覚なのだろう。エヴァレットはその指先をそっと握り返した。

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