グラント・ザ・クラウン
トルキスは操縦室を出てキャビンを抜け、ランプドアの前に立った。乱流が彼女の羽根をバタバタと捲り上げていた。
「ゼーバッハは死んだのですね」トルキスは言った。
「ええ」ギグリが戸口に立って答えた。
「間違いなく?」
「間違いなく」
トルキスはふっと息を吐いてすとんと肩を落とした。
「死者に祈りを」とトルキス。呼びかけにしては弱い声量だった。自分自身に呼びかけたのかもしれない。トルキスは腕を下ろしたまま手を組み、しばらく目を瞑った。
ギグリはそれで気が済むならそうすればいいとでも言ったふうに見守っていたが、トルキスが目を開けたところで「悪人は死んだ方が報われるというのもおかしなものね」と言った。
「彼は万人にとって悪人だったのでしょうか」
「そう思いたいわね」
「あるいはその悪しきを悪しきものとしたままに愛した者はあったかもしれませんね」
「滅ぶべくして滅ぶところまで含めて愛するのかしら」
「そう。愛しているから報われてほしい、なんてあくまで飛躍です」
「それはもはやサディズムだわ」
トルキスはそれ以上ギグリには何も言わなかった。
……………
2機のアルサクルにエスコートされて最寄りの基地に向かっている間、防空管制所の主任だという大佐から無線電話でかなり根掘り葉掘り質問を受けた。
航空路で事件・事故が起きた場合は普通なら警察が捜査を行うのだが、レーダー上で当該機がエトルキア製の機種だということははっきりしていたので軍の管轄で処理できると考えたのかもしれない。要は状況としてはエトルキア軍機の亡命などに近いということらしい。警察沙汰にならないのならこちらとしても好都合だったので、もういい加減休ませてくれと思わないではなかったが、エヴァレットは根気強く答え続けた。
そしてカッセルベルゼンという兵站基地に着陸、2時間ほどで点検と修理を終えた。スピリット・オブ・エタニティのベース機であるタニンは兵員輸送機としてルフト空軍に広く配備されている機種だから、背中の傷はともかく、部品の調達には困らない。
待っている間に食堂の一角で昼食を食べさせてもらったが、ギグリに気づく兵士がぽつぽつと現れ、次第に人だかりになってしまった。中にはマグダを知っているという奇特なファンもいて当人はデレデレしながらサインを書いたり写真に写ったり対応していた。
………………
「まさかこんなに早くまたベイロンに来ることになるなんて思いもしませんでした」サフォンは舷窓から島を見下ろしてはしゃいでいた。
ベイロン港ではやはり大勢の報道陣が待ち構えていたが、ギグリは今度はきちんと説明した。かつてベイロンに違法労働を強いるグループがあり、その中の1人がノイエ・ソレスに移り、ゼーバッハと名乗って新しい事業を展開していたこと、ベイロン時代の取り締まりで恨みを買って再三復讐を受けたこと、それをどうにか退けたこと……。
波が引くのを待って新居に戻るとポストに大量の封筒が差し込まれていて、ファンレターかと思ったらほとんどは税金の取り立てと手続きの催促だった。それに気づいた全員の顔から色気が引くのが如実にわかった。
ルフトの諸侯は基本的に塔のインフラ利用に料金を課している。水も食料も下水も無料ではない。甲板だって占有面積に応じて使用税――いわば地税が発生する。連邦はそれを元手に塔のメンテナンスをやっているわけだ。使った分だけ金がかかるという当然のシステムだが、実はエトルキアにはこの制度がない。インフラや地下資源は公共の資源で、誰でも自由に利用できるという考え方だった。管理は楽だが、軍や大企業が独占利用する傾向があったのでルフトでは制度を改めた。
しかし通知書の細かい文字を見ているだけで気が滅入ってくる。手続きと処理に割かれる労力を考えると一概にどちらがいいとも言い切れないなと思えた。
翌日、ベイロン・エアレース第6戦ハール。ハールはベイロンの東100㎞ほどにある比較的まともな住居島で、外縁の一部が崩落した最下層甲板の再建が進んでいないことを除けば住民の生活水準も比較的高く、人口も3000を超していた。経済の中核は情報産業で、ベイロンが俗とアングラの島だとすれば、ハールはいわばカタギの島だった。
エアレースは島唯一の空港を封鎖して大々的に開催される。比較的観客受入れのキャパシティが大きいので庶民向けの出店が多いのがハールの特徴だった。スパルタンもそこへ軍用機を持ってきてどかんとディスプレイしてしまうほど野暮な感性の持ち主ではないようだったが、チームのブースの仕切りやインタビュールームの壁など、あちこちにデカデカとロゴを掲示して存在感を露わにしていた。ギグリの懸念通りの状況だった。
「スパルタンの重役が視察に来ていますよ。ご挨拶だけでも、どうですか」リリスは控室でギグリに訊いた。
「やめておくわ。私とスパルタンは追い出される側と追い出す側なのよ。あえて面と向かって話さないというのも穏便に済ませる手段でしょう。間にあなたが入ってくれれば、それでいい。面倒をかけるけど」
「それはもちろんです。でも、向こうは謝罪したいと言ってるんです」
「謝罪?」
「ゼーバッハの件。取引先が早とちりをしたと」
「ふうん。てっきりシラを切り通すと思っていたけど」
「もちろん非公式にですよ」
「ええ。エトルキア側だってもう1つか2つ隠れ蓑の商社を噛ませないと、直接ルフトに防衛装備を流しているなんてエトルキア政府知れたら大事よね」
「だからこそ直接来たんでしょう」
「でも、『謝るからベイロンのエアレースは食べさせてくれ』と、そういうことよね。気に入らないわ、そういうの」
「そうですよね」リリスは苦笑いした。
「いいわ。こう伝えて。謝罪は聞き入れたと。それだけ」
ギグリからリリスへの引継ぎは開会式で行われた。エアレースの主役はあくまでパイロットたちだ。いくらクイーン・オブ・クイーンズとはいえトリを飾るわけにはいかない。
ギグリは今まで何かしら地位を示すアイテムを身につけていたわけではなかったが、形式的にティアラを使った。要は戴冠式だ。司会の演台を一段高くしてその上でギグリの前にリリスが跪き、ギグリはリリスの頭にティアラを乗せる。いかにもそれらしい儀式だった。ギグリはアオザイを模した淡白なシースラインのドレス、リリスは藍色と水色のグラデーションのAラインドレスを着ていた。
「ノイエ・ソレスでは助かったわ。まだ直接お礼を言ってなかったわね」ギグリはリリスの髪を直しながら言った。
「私の力じゃありません。むしろギグリ様を窮地に陥れてしまったのは私なんです」
リリスは涙ぐんでいた。ギグリはリリスの手を引いて立ち上がらせ、そっと抱きしめて頭を撫でた。とてもテレビ映りのいいギグリの方が頭半分背が高かった。
「窮地?」
「はい」
「この程度で窮地なんて、あなたもまだまだね」
「はい」
「顔を上げなさい。そんなんじゃ他の子にナメられるわ」
「今だけ、少しだけですから」
「今生の別れみたいな言い方をするのね」
もう何度かギグリに撫でられてからリリスは離れた。ギグリは観客に手を振りながらゆったりと客席に入った。もはや主賓室ではなくオープンエアの雛壇、表彰式にもまるで絡まなかったが、それでもギグリはとても満足そうにレースを見届けた。あるいは機嫌がよかったのはミア・グライヴィッツが連勝を止めたからかもしれない。彼女は今回タイトなヘアピンカーブでチェックポイントを取り逃すという大ミスを犯して表彰台にも上らなかった。そそくさと店仕舞いするチームのブースに目を向けた時のギグリが一番エキサイトしているように見えた。
エヴァレットはエキシビジョンを待たずに地下駐機場に入った。スピリット・オブ・エタニティを滑走路に上げるためだ。背中の傷は近衛隊の整備関係者に頼んで一晩で塗装だけでも直してもらっておいたので見栄えは十分だ。
ギグリはクイーン・オブ・クイーンズを退く。しかし単にやめるのではなくて新しい大会を始めるのだから、幕引きもできるだけ希望を感じさせるものがいいに違いなかった。
エヴァレットはエタニティを走らせ、客席の目の前でブレーキをかけた。タラップを開き、レッドカーペットに踏み台を置く。ギグリが歩いてくるのを待って跪き、差し出された手の甲に軽くキスをする。
「逆じゃない?」ギグリは手を出したまま訊いた。
「客にとってみれば依然ギグリ様は至上のお方ですよ。誰かのものになったみたいに見せるのは悪手だ。僕が下の方がいい」
エヴァレットは立ち上がってギグリの手を取り、エタニティに乗り込むまでエスコートした。
ギグリの方から「キスを」なんて言ってくることはまずないだろうと思ったので筋書きは全てエヴァレットが考えたものだ。ギグリは去るのではない。別の場所へ行くのだ。新しいことを始めるのだ。それを印象付けるための演出だった。
その夜はプガッティ傘下のレストランでアルピナの市長と会食を設けた。家電通販の売り子みたいな話し方をする男だと思ったが、見た目までおあつらえ向きだった。いささか平凡でありながらやや利発でおしゃべり好きな感触があるのだ。いずれにしても諸侯の首班としてはかなりの若輩だろう。まだ30代に見えた。
料理のメインはシタビラメのバターソテー。トルキスとサフォンも同席していた。
「先日はせっかくアルピナに来ていただいたのにご挨拶ができなくて残念でした」
「でもお忍びだったもの」
「しかしベイロンはやはり賑やかな島ですね。会場は離れているのに、まるでこの島で開催されているかのような盛況ぶりで。ええ、平日の様子もぜひ明日見させていただきます」市長はまるでコマドリみたいに流暢に社交辞令を並べ立てた。
「ところで先日電話でお話した件ですが」
「ええ」
「アルピナの南東にやはり建設中に放棄された塔がありまして、最下層甲板すら10ヘクタールもなく、住人もないので名前もついていないくらいなのですが、これが調べてみると発電機能は生きていましてね、揚水システムなどは再整備しなければ使い物にならないとしても、それなりの好物件じゃないかと」
「10ヘクタールというと、滑走路型?」
「はい。長さ約1キロの滑走路とそれに付随する建築です。建設用の設備ですね。両端には多少崩落の痕跡が見られましたが、上に立って肉眼で見た限りかなり平滑でした。雑草を抜けば飛行機でも十分降りられると思います」市長はそう言いながら写真の束を取り出してテーブルの上に数枚並べた。
「あら、直接見に行ってくれたのね」
「ええ。私をはじめアルピナの住民たちはあなたの大会に大きな期待を寄せているのです。――ああ、ひとつ確認しておかなければならないんですが、この島、地表標高が高くてですね、時折フラムが上がってくるのか最下層甲板の高度が海抜3000メートルに設定されているのです。平地の島の最下層甲板よりかなり高いですが、それは問題ありませんか」
「ええ。中層甲板で開いている島もあるくらいだもの。べつに高度が高いのは構わないわ」
「それならよかった。融雪システムも含めてインフラの整備程度であれば次期予算で通せると思います。もともとアルピナもかなり手入れの必要な島でしたから、そのあたりのノウハウを持った業者さんも揃っています」
「その言葉が一番嬉しいかもしれないわね」
ギグリはとある写真に目をつけた。深い森に囲まれたモダニスムの大きな平屋が写っていた。
「これはその島の写真ではないわね?」
「ああ、それはアルピナです。もしこの島を拠点にしてくださるのであればベイロンから通うのも骨折れでしょう。アルピナに居を構えていただくのもいいかと思いまして。ベイロンの城に慣れておいででしょう? それなら広いに越したことはない。もう10年ほど前になりますが、ちょうど別荘区画の一番奥に起業家がひとつ別荘を建てましてね、でもそのあと倒産と夜逃げで捕まらなくなってしまって、浮いたままになっているんです。なにぶん広すぎて住もうという人も二の足を踏んでしまいますし、表通りからのアクセスも悪いので宿泊業からも買い手がつかないんですよ」
「……見せてもらってもいいかしら」ギグリは何度か瞬きしてから訊いた。
もちろん我々にとっても数人で済むには広すぎるかもしれない。しかしエアレースの事務所として使うことを考えれば話は別だ。市長は決してギグリをヨイショするわけではないが、相手をその気にさせるテクニックを次々繰り出していた。
「ええ、もちろん。早ければ明日か明後日にでもまたアルピナに来られますか?」
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